京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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善峯寺その2

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善峯寺の続きです・・
今回は善峯寺のパンフレットを引用して境内にある堂塔について、簡単に書いてみます。

善峯寺の境内の魅力は、山の寺院らしい広大で高低起伏にとんだ地形に建てられた諸堂を巡回するというところにあるでしょう。一周約四十分、山門から奥の院まで坂道や石段を登りながら、京都市街地を眼下にする回遊式庭園の変っていく風景を眺めていると疲れも忘れてしまいます。


さて、観光バスや阪急バスで善峯寺を訪れる場合は、山麓にある第二駐車場(バス停留所)から参道を登らなければなりません。山麓から仁王門に向かう参道の山道「阿知坂」は少し傾斜角度のある場所もありますが、距離自体は短く、約十分程度で東門に到着します。また、この坂道の途中には、「善峯坐禅石(よしみねざぜんせき)」や「仙翁石(せんおういし)」とも呼ばれる石があります。この石は開山・源算上人が初めて登山したとき、この岩の上で坐禅したといわれています。

さて、坂道を登って東門を潜ると、山門のすぐ脇に至ります。(尚、自動車の場合は、この山門の側にある第一駐車場まで登れるので、あっけない程楽ですが、やはり歩いて登る方がご利益も有りそうで、お寺の印象も深まるでしょう。)


この山門は、元禄五年(1692)に桂昌院の寄進で再建されたもので、西国三十三ケ所巡礼札所らしい雰囲気のあるものです。また、楼上に祀られている本尊の文殊菩薩と両脇の金剛力士像は、鎌倉仏師の運慶の作で、源頼朝が寄進したものといわれています。山門の正面にあるのが観音堂です。
観音堂は、善峯寺の本堂で、同じく桂昌院の寄進によって元禄五年(1692)に再建され、西国三十三ケ所観音霊場の第二十番札所、京都洛西観音霊場の第一番札所として有名です。前回に書いたように、本尊の十一面千手観世音菩薩は、安居院仁弘法師の作と伝えられ、元々は洛東東山の鷲尾寺に祀られていましたが、長久三年(1042)に後朱雀天皇によってこの地に移されて善峯寺の本尊として祀られました。そして、善峯寺の創建当時に開山源算上人が作った本尊・十一面千手観音菩薩像を脇立としたと伝えられます。

また、本堂の右には長寿の効果があるとされるお香水、本堂の左には平成十二年(2000)四月に完成した寺宝館の文殊堂があります。文殊堂では、善峯寺の寺宝が春秋に特別公開されていますが、特に重要文化財指定の絹本著色「大元帥明王図」や桂昌院や徳川家由来の品々の他、平安から江戸時代に至る仏画や仏像、明治の文人画家富岡鉄斎の屏風数点などが見所です。


本堂の右手から石段を登ると、多宝塔と経堂や、春に美しい枝垂れ桜や有名な「遊龍」の松があります。多宝塔は元和七年(1621)に賢弘法師によって再建されたもので、山内最古の建物として重要文化財に指定されています。桂昌院が鉄眼の一切経を納めたという経堂は、祈願成就のための絵馬堂で宝永二年(1705)に建立されたものです。周囲の紅葉と枝垂れ桜は、桂昌院のお手植えといわれ、特に枝垂れ桜は樹齢三百年といわれます。

また、巨木で、尚且つ姿形の美しさから日本一の松とも呼ばれる有名な「遊龍」の松は、樹齢六百年といわれる五葉松で、昭和七年(1932)に国の天然記念物に指定されています。
この「遊龍」の名は、前右大臣・花山院家厚が、幕末の安政四年(1857)に命名したもので、長く横に伸びた枝振りが巨龍が波に浮かんでいる様に似ていることから名付けられました。また、側の石標は明治二十六年(1893)、長州出身の陸軍中将・鳥尾小弥太の揮毫になります。元々.全長五十四メートルありましたが、平成六年(1994)に、松くい虫の被害を受け約十五メートル程切られています。


「遊龍」の松の東側には、つりがね堂や護摩堂があります。
つりがね堂は、貞享二年(1685)の建立で、桂昌院が五代将軍徳川綱吉の厄除けのために寄進したとされる「厄除けの鐘」が吊られています。また、護摩堂は、元禄五年(1692)の建立で、不動明王五大尊を祀っています。またつりがね堂の辺りからは、京都市外を眺めることができます。護摩堂からさらに北へ進むと、開山堂があります。開山堂は、元禄五年(1692)の建立で、極めて長命だった開山源算上人の最晩年百十七歳の像が祀られています。

また、開山堂の西には、桂昌院廟や宝篋印塔、十三仏堂があります。
桂昌院廟には、宝永二年六月二十二日に七十九歳で亡くなった桂昌院の遺髪が納められています。また、鎌倉時代に建立された宝篋印塔には、慈円(慈鎮)大僧正によって、伝教大師最澄筆の法華経が納められ、元禄五年(1692)に建立された十三仏堂には、善峯寺の諸守護神が祀られています。
さらに、境内の北側には、 桂昌院が幸せを願って祈念したという幸福地蔵(しあわせじぞう)があり、自分以外の人の幸せを願うと効果があるといわれます。この幸福地蔵の眼下には桜・あじさい苑があり、さらに白山権現社や十三の塔、北門を望むことが出来ます。


さて、さらに西へ進んで少し石段を登ると、釈迦堂があります。
釈迦堂は比較的新しい建物で、明治十八年(1885)の建立です。本尊・石仏釈迦如来像は、開山源算上人の作と伝えられ、明治初年までは、善峯寺よりさらに山上、約二キロの釈迦岳(海抜六百三十メートル)に安置されていましたが、山を登って参拝す信者も多いということから、明治十三年(1880)に下山、この地に祀られました。
また以前は、釈迦堂の薬湯風呂(やくとうぶろ)が、夏の縁日(五月と十月の第二日曜日の年二回)に善峯で取れる百草湯で沸かされ、神経痛、腰痛平癒をはじめ諸病に効能があるとされて一般参拝者も入浴できました。しかし、この薬湯風呂は、平成二十年(2008)十月で終了しました。また、釈迦堂付近からも京都市外を見渡せます。

さらに山を少し登ると、阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は、寛文十三年(1673)の建立で、本尊・宝冠阿弥陀如来を祀ります。また、常行三昧道場でもあり「常行堂」とも呼ばれます。堂内には、徳川家代々と善峯寺の信者の位牌が安置されています。また、阿弥陀堂の左側は書院になり、その南は池庭のある本坊になります。この本坊では、春秋に片岡鶴太郎作(平成十七年)の本坊襖絵「游鯉龍門圖(ゆうりりゅうもんず)」をはじめ片岡鶴太郎の作品展を開催しています。本坊門横から阿弥陀堂にいたる白壁沿いの石段の道も風情があります。



次回に続きます

善峯寺その1

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今回から三回に分けて京都西山を代表する観光名所の善峯寺を採り上げます。
善峯寺は、秋の紅葉の他にも、春の桜や初夏のアジサイ等四季を通じて楽しめるという点で、文句の無くお勧めクラスの寺院ですが、特に国の天然記念物の日本一の松と称する遊龍松は必見です。(個人的には、特に春が好きです・・秋の西山の紅葉グラデュエーションより、春の枝垂れ桜と遊龍松のコントラストの方が優しげな風情で惹かれます。)


京都市西京区大原野小塩町にある善峯寺(よしみねでら)は、西国三十三ケ所観音霊場の第二十番札所、京都洛西観音霊場の第一番札所として知られ、また平成十六年(2004)からは、光明寺(京都府長岡京市粟生西条ノ内)や楊谷寺(柳谷観音 京都府長岡京市浄土谷)と共に「京都・西山三山」として連携し、自然豊かな京都西山を代表する三つの信仰の場として観光客にも広くアピールしています・・・(尚、観光ガイドでは、京都市内か市外かで扱いが違うことが多々ありますが、善峯寺は、光明寺や楊谷寺と違ってぎりぎり京都市内に属するという点で得をしています。市内中心部の観光名所で満足してしまっている京都市在住の方より、大阪方面の方の方が、意外とこの地域の寺院を知っていたりするのですが、西山三山はどれも魅力的なお寺で、このブログやPart1でも紹介しています。)



さて、京都西山・釈迦岳の東北中腹に建つ善峯寺は、山号を西山(せいざん)という天台宗系の単立寺院(善峰観音宗)で、西山宮門跡とも称しています。本尊は十一面千手観世音菩薩になり、寺院の創建は平安時代末期の長元二年(1029)、源算(げんさん)上人の開山と伝わります。
寺伝によると、開山・源算上人は、因幡国(鳥取)に生まれ、正暦二年(991)九歳の時に、比叡山横川の、「往生要集」を著したことで知られる恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)の弟子となって修行し、長徳元年(995)、十三歳で剃髪受戒しました。そして、長元二年(1029)、四十七歳の時、浄土は西方にあるという思想から都の西山のこの地に法華院という小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を刻んで本尊としたということです。伝説では、山の神である阿智阪明神の化身の老翁から寺院建立を頼まれ、(善峯寺の麓には阿智阪明神社が祀られています・・三鈷寺の記事を参照ください。)源算上人が険しい山を切り開く方法に悩んでいると、明神の使いの猪の大群が現れて、一夜で地面を均して平地にして助けたということです。

その後、観音信仰の高まりによって観音霊場として栄え、長元七年(1034)九月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ「良峯寺」の寺号と詠歌を賜りました。
以来、歴代天皇の崇敬篤く、長久三年(1042)に後朱雀天皇が洛東東山の鷲尾寺に祀られていた安居院仁弘法師作という本尊・十一面千手観音菩薩像をこの地に移して当寺の本尊として千手堂を建立して祀り、先の十一面千手観音菩薩像を脇立としたと伝えられます。
その後、天喜元年(1053)後冷泉天皇の時代には、皇太弟・尊仁親王(後の後三条天皇)の后、藤原茂子が懐妊して難産だったため、当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、後の白河天皇)が無事に誕生しました。この報恩に報いるために、白河天皇は、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守七社の諸堂を建立したと伝えられます。さらに、治暦四年(1068)の大旱魃の際には、源算上人の祈祷と本尊千手観音の霊験によって無事に雨が降ったことから、朝廷より「良峰」の勅額が授けられたとのことです。


その後、承保元年(1074)、源算上人は、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院 後の三鈷寺)と号し、この地で百十七歳の長寿をまっとうしたと伝えられます。また、中納言葉室顕隆の孫、顕能の子に当るニ祖・観性(かんせい)上人(観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)が、安元ニ年(1176)、境内の中尾と呼ばれる尾根の蓮華寿院の側に法華堂を建てています。その後、天台座主を四度務め、史書「愚管抄」の著者、歌人としても知られる三祖・慈円和尚((慈鎮和尚)じえん、じちん)が、観性上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住持し、さらに、鳥羽天皇の皇子・青蓮院門跡覚快(かくかい)法親王も晩年、善峯寺の住職となっています。
この頃(平安時代後期)の良峯寺(善峯寺)の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったということです。

観性上人(観性法橋)や慈円和尚((慈鎮和尚))は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺(善峯寺)の境内を整備しました・・「吾妻鏡」によると、文治五年(1185)、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、観性上人(観性法橋)は、天台座主の全玄僧正の代理の供養の導師として、六月三日から十八日まで鎌倉に滞在し、頼朝から大いに歓待されました。頼朝は、観性上人と終日談話して上人を深く崇敬するようになり、後に上人の希望に応えて、二十八部衆金剛力士等を、南都(奈良)仏師の運慶に作らせて善峯寺に寄進しています。また、慈円和尚も頼朝と親交があり、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝より越前国藤島庄を寺領として授けられています。さらに、建久三年(1192)、に天台座主に就任して、後鳥羽上皇より自筆の寺額を賜って「良峯寺」を「善峯寺」と改め、官寺に列せられています。また、法然上人門下で、浄土宗西山派開祖、四祖・西山上人証空(しょうくう 善慧房・善慧国師)も当寺の蓮華寿院に入っています。

承久三年(1221)後鳥羽上皇による承久の変の後、道覚(どうかく)法親王(後鳥羽上皇皇子、後に天台座主、青蓮院門跡)が難を逃れて密かに証空上人を訪ねて善峯寺に籠居しました。そこで、証空上人は、蓮華寿院を道覚法親王に譲って、自身は北尾往生院に退いて荒廃していた往生院を復興し、浄土宗西山派の祖となります。寛元元年(1243)、道覚法親王は、後鳥羽上皇が建立したという水無瀬の御堂・蓮華寿院を、善峯寺境内に移して、その側に青龍院という一寺を建立して境内を整備しました。

こうして、善峯寺蓮華寿院は、鎌倉時代初期の道覚法親王以降、室町時代にかけて、青蓮院宮慈道(じどう)法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円(そんえん)法親王(伏見天皇皇子)、青龍院宮尊道(そんどう)法親王(後伏見天皇皇子)といった青蓮院関係の法親王の晩年の隠居所となり、西山宮門跡、西山宮、御所屋敷等と呼ばれました。(尚、江戸時代以降は青蓮院宮の尊證(そんしょう 尊証)法親王(後水尾天皇皇子)、尊祐(そんゆう)法親王(霊元天皇皇子)、尊真(そんしん)法親王(後桜町天皇皇子)、尊寶(そんぽう)法親王(伏見宮十八世皇孫)が入寺)

室町時代の第百二代後花園天皇が堂塔を改築し、応永二十五年(1418)十月に四代将軍足利義持から、永享四年(1432)十二月に六代将軍足利義教から、寺領同国散在する敷地や田畠、山林等を安堵されるなど、朝廷や幕府の庇護を受けた善峯寺は、僧坊五十二を数えるほど栄えましたが、その後、応仁の乱以降の戦乱で荒廃し、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、善峯寺や三鈷寺が炎上焦土となっています。

荒廃した善峯寺は、江戸時代には、寛正四年(1792)六月、幕府から山城国内散在の寺領を安堵されるなど徐々に復興し、特に、現在の諸堂の多くは、五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の援助によって建てられたものと伝わります。桂昌院は、幼少時に親に連れられて善峯寺等洛西一帯の寺院に度々参詣していたとも伝えられ、善峯寺の復興のために多額の寄進をいって境内を整備しました。また、元禄十年(1697)十二月には、幕府は善峯寺と西岩倉の金蔵寺の二寺に対して寺田若干が加賜され、共に寺禄二百石の御朱印地を賜わっています。こうして善峯寺は、二百石及び山林四十二万五千坪を寺領とし明治時代に至りました。



さて、善峯寺は、約三万坪(十万平方メートル)という広大な境内に多くの堂塔が点在しています。次回は境内について書いてみます。

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