京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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三宅八幡宮その1

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京都市左京区上高野三宅町にある三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は、洛北を代表する神社の一つです。長閑な里の雰囲気が残る上高野は、私の好きな地域の一つですが、小さな噴水もある三宅八幡宮は、この地域の憩いのスポット的な存在といえるでしょう。観光客も少なくて開放的で、散歩のついでに訪ねてみたいといった雰囲気が良いです。また、桜や紅葉の隠れた名所でもあります。(Part1の初期に書いていますが、三宅八幡宮のHPを引用して、もう少しまとめてみます。)


さて、三宅八幡宮は、応神天皇(八幡大神)を祭神とする神社で、通称「虫八幡さん」「虫除け八幡さん」と呼ばれて子供の守り神として知られます。
地元の伝承によると、元々は「田の虫除け」神とされていたものが、後に「子供の虫除け信仰」に変っていったようで、子供の夜泣きや癇虫封じ、子供の病気回復や学業成就等の子供に関するあらゆるご利益があり、他にも、虫退治の神様として「害虫駆除」などのご利益があるとされます。

社伝によると、三宅八幡宮の創建は、飛鳥時代の推古天皇の時代(六〜七世紀)、に遡るとされます。聖徳太子の命によって小野妹子が遣隋使として隋に向かう途中、九州筑紫国の辺りで病気となったため、付近にあった宇佐八幡宮で病気平癒を祈願したところ、忽ち平癒したということです。その後、隋でも八幡神の加護によって数々の危難を免れ、無事帰国することが出来ました。聖徳太子の没後、この上高野の地に移り住んで晩年を過ごした小野妹子は、その時の報恩に報いるために、宇佐八幡をこの地に勧請して祀りました・・これが三宅八幡宮の始まりと伝わります。

実際、上高野地域は、飛鳥・奈良時代には山背国愛宕郡小野郷に属し、一帯は小野氏の居住する地域でした。以前にブログPart1に採り上げましたが、付近の祟道神社の裏山からは、小野妹子の子にあたる小野毛人(おののえみし)の墓も発見されています。(古墳の石室内から六百七十七年」と書かれた墓誌が見つかり、京都市指定史跡に指定されています)
また、同じくブログのPart1で、上高野大明神町にある「伊多太神社址」を採り上げましたが、この伊多太神社というのは、上高野地域の最古の神社といわれ、三宅八幡宮は、伊多太神社の境内末社だったともいわれ、その前身だったという説もあるということです。(尚、伊多太神社は、明治十六年(1883)に再興され、明治四十一年(1908)に崇導神社に合祀されています。)


さて、その後の三宅八幡宮ですが・・南北朝時代になって、南朝の忠臣であった、備後三郎三宅高徳が、この地に移り住んで邸内の鎮守社として八幡大神を祀って崇敬したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったと伝えられています。その後、神社は栄え、当時は社殿も広く神田も豊かだったということですが、応仁の乱の兵火によって全焼し古記録や社宝も失いましたが、数十年後に里人達によって復旧されました。江戸時代末期には社殿も大破してしまっていたため、明治時代に入って明治二年に拝殿、明治二十年に本殿が再建されています。また、皇室との深い関わりもあるといわれ、明治天皇が幼少期に、重い病に罹った際は、三宅八幡宮に祈祷の命が出され、その祈祷の効果で天皇の病が治ったということです。

明治天皇のエピソードでもわかりますが、幕末から明治末期にかけては、子どもの疳の虫封じの信仰が京都市内や南近江を中心に大阪や奈良も含んだ広い範囲で隆盛を極め、三宅八幡宮は「子どもの神様」として広く伝播されていった記録があるということです。そして、当時、三宅八幡宮が広く信仰を集めていたことを表すのが、三宅八幡神社奉納育児・成人儀礼関連絵馬百三十三枚(平成十三年(2001)四月に京都市有形民俗文化財指定)です。

これらの絵馬は、平成十二年(2000)年に八幡宮で、百年ぶりに絵馬堂の整理が行われた際に、大量に発見された幕末期から昭和初期までに奉納された大絵馬で、京都市の有形民俗文化財に指定されました。これらの大絵馬の内、百三十三枚の絵馬が「子供のかん虫封じ」を中心に「育児習俗」や「十三参り」などの成人儀礼に関連したものということです。特に幕末から明治三十年代にかけて奉納された、「かん虫封じのお礼参り」の参詣行列を描く絵馬群は、当時の服装や子供たちの遊び方などの風俗が克明に描き分けられていて、優れたものということです。これらの絵馬群は、時代性や地域性が窺える時代資料であり、育児や成人習俗といった一つのテーマに沿った絵馬群としては、質量共に他に無い規模の貴重なものとされ、平成二十年(2008)五月に完成した「絵馬展示資料館」で公開(料金志納)されています。また境内には、明治二十三年(1890)に九代目市川団十郎が奉納した北白川産の白川石に薬研彫りされた井戸があります。また、普段は静かな八幡宮ですが、九月十五日に行われる例祭「放生会」の際は、子供づれの参詣者でおおいに賑わうということです。






次回に続きます。

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京都市左京区岩倉花園町にある三縁寺(さんえんじ)は、幕末の元治元年(1864)六月五日の池田屋事変で殉難した志士達の墓があることで、特に幕末ファンには良く知られているお寺です。(以前にPart1で少しだけ書いたのですが、書き直して写真数を増やしてみます)


三縁寺は、山号を法輪山という浄土宗寺院で、元々は、京都市東山区縄手通三条下る大国町、現在の京阪電車の三条京阪駅の東のバスターミナル付近にありましたが、昭和五十四年(1979)に現在の岩倉花園町に移転しました。尚、三条京阪付近には三縁寺の他に、三縁寺の北に西願寺、南側に養福寺と高樹院がありましたが、全て京都市の都市整備計画に協力して岩倉や八瀬等に移転しています。


有名な池田屋事件については割愛しますが、池田屋付近にあった三縁寺には、事件後に現場に捨てられたままになっていた志士九人の遺体が運び込まれて供養されたと伝えられます。
埋葬の際に遺体を確認したのは、池田屋の女中頭の清水うの、または三縁寺の側にあった旅館「小川亭(跡地は東山区縄手通若松下る)」の女将ていとも伝えられています。(小川亭は、肥後藩御用達「魚卯」の未亡人のていと、姑のりせが開いた旅館で、幕末には肥後藩士等勤王の志士たちに利用されました。ていは勤皇家でもあり志士の面倒をよく見たということです。)
その後、昭和五十四年(1979)六月に三縁寺が岩倉に移転する際に、旧墓地内の志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


さて、山門脇には「池田屋事変殉難烈士の墓」という石標があり、境内の奥にある墓地には、鳥居の奥には志士の墓が五基あります・・正面と、その右の背の低い自然石の墓が、肥後の宮部鼎蔵と松田重助の墓です。右が古い墓で、正面の墓は後に立てられたもののようです。
正面左にある背の高い墓は、播州林田藩の大高又次郎の墓で、また、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀の三名、土佐藩の北添佶麿、望月亀弥太、石川潤次郎の三名、計六名の合同墓があります。
他に、池田屋事件とは直接関係はないのですが、肥後の上松源友胤の墓もあります・・上松は、宮部鼎蔵の弟子で、文久三年(1863)七月に幕府派の公卿を切った際に自身も斬られて死亡し、後に三縁寺に葬られたということです。

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