京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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山科区勧修寺西栗栖野町、前に採り上げた中臣神社の直ぐ東にあるのが宮道古墳(みやじこふん)で、「宮道朝臣列子墓(みやじのあそんれっしのはか)」としても知られる史跡です。

宮道列子(みやじのれっし)は、山城国宇治郡大領(現在の京都府宇治市・京都市山科区一帯を支配していました)を務めた宮道弥益(みやじのいやます)の娘(妹とも)と伝えられ、その後、藤原北家の基礎を築いた藤原冬嗣の孫に当たる内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の妻となりました。そして、二人の間には、後の大納言・:藤原定国(ふじわらのさだくに)、右大臣・藤原定方(ふじわらのさだかた)、そして、宇多天皇の女御として醍醐天皇の生母となった藤原胤子 (ふじわらのいんし たねこ 宇多天皇女御、贈皇太后) 等が産まれました。

「今昔物語集」によると、若き日の藤原高藤が南山科で鷹狩をした際に雷雨に遭って、偶然、宮道弥益の邸で雨宿りして一夜を過ごし、この夜に見初めた弥益の娘・列子と結ばれて胤子を授かったということです。六年の後、母娘に再会した高藤は二人を引き取ったと伝わり、後に成長した胤子は、元慶八年(884)頃に、光孝天皇の第七皇子・源定省(みなもとのさだみ)と結婚しますが、仁和三年(887)に定省は皇族に復帰して宇多天皇として即位しました。こうして胤子は宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産むことになります。

その後、 この勧修寺地域は、醍醐天皇の即位によって出世した藤原高藤・定方に始まる勧修寺流(藤原北家勧修寺流)の本拠地となったため、醍醐天皇を中心に、宮道弥益、宮道列子、藤原胤子、藤原高藤、藤原定方といった人物の史跡が勧修寺一帯に残っています(醍醐天皇山科陵(だいごてんのうのちのやましなのみささぎ)も、一応、伏見区に属しますが、距離も近く関連史跡といっても良いでしょう。)



宮道古墳(宮道朝臣列子墓)から外れますが、ここで、少し勧修寺流の関連史跡を確認してみます・・・

まず、観光寺院として知られる真言宗山階派の大本山・勧修寺(山科区勧修寺仁王堂。この一帯の地名が「かんしゅうじ」のため、お寺の名前も「かんしゅうじ」と呼ばれることが多いですが、正式には「かじゅうじ」になります。)は、昌泰三年(900)に、醍醐天皇が亡き母・胤子の菩提を弔うために、この地にあった母ゆかりの宮道弥益の別邸を寺に改めたもので、叔父の藤原定方を開基、東大寺の承俊律師を開山として創建したもので、勧修寺という寺号は、祖父・藤原高藤の諡号(しごう)に由来しています。

また、勧修寺の南にある宮道神社(みやじじんじゃ 山科区勧修寺仁王堂町 前にブログに採り上げています)は、勧修寺の元となった宮道家ゆかりの神社で、寛平十年(898)に創祀され、後に宮道弥益・列子、藤原高藤・定方・胤子等勧修寺ゆかりの人々を合祀しています。

さらに、勧修寺の西約一キロに位置する小野陵(山科区勧修寺北大日町)は、宇多天皇の女御として醍醐天皇の生母となった藤原胤子の陵墓です。
また、勧修寺の西には、前にブログに採り上げた藤原定方の墓(山科区勧修寺下ノ茶屋町)や、藤原高藤の墓(小野墓 山科区勧修寺下ノ茶屋町の鍋岡山山頂)もあります。

大宅廃寺跡(おおやけはいじあと 山科区大宅奥山田・山田・鳥井脇町)は、中臣鎌足建立が建立した山階精舎(山階寺)や、豪族大宅氏の氏寺などにも比定されますが、一説には宮道弥益が妻のために建てた御堂という説もあるようです。そして、大宅寺(大宅中小路町)は、「今昔物語」に宮道弥益の妻が建立したとも記されている寺院で、本堂の後には宮道弥益夫妻の墓と伝えられる五輪塔があります。




さて、宮道列子に戻ります・・醍醐天皇の外祖母となった列子は、延喜七年(907)十月十七日に亡くなって、山城国宇治郡に丁重に葬られました。「延喜式」諸陵寮式には、「後小野墓」と称し、山城国宇治郡小野郷に墓が作られたことが記されています。

今回採り上げた勧修寺西栗栖野町にある「宮道古墳(円墳)」は、前回に書いた中臣遺跡の「中臣十三塚」といわれる古墳時代後期の墳丘墓の一つと考えられています。古墳は竹林に覆われ、周囲は空堀があるようです。そして、古くから宮道列子の墓と伝えられていることから、古墳の前には「宮道朝臣列子墓」の石碑が立てられています。

また、列子の墓のあるこの古墳は、明治維新の頃に私有地となったようですが、昭和八年(1933)九月に勧修寺宮の旧臣に当たる永田重泰という人が勧修寺に寄進しました。現在の新しい列子の墓(供養塔)は、平成十九年(2007)に大宅寺に奉安されている列子の両親と同サイズの塔を建立し奉安したものということです。(上記したように、大宅寺の本堂の後には、宮道弥益夫妻墓と伝えられる五輪塔二基があります。)

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山科区一帯にあって、京都の洛東最大の集落史跡とされるのが、「中臣遺跡(なかとみいせき)」です。今回は、山科区勧修寺にある西金ヶ崎公園内(山科区勧修寺西金ケ崎)、勧修小学校内(勧修寺東栗栖野町)、勧修寺市営住宅敷地内(勧修寺東栗栖野町)の各中臣遺跡碑の写真を掲載し、西金ヶ崎公園内と史跡住宅の中臣遺跡を解説する石碑の文章を引用してみます。


さて、山科盆地は、中臣鎌足(藤原鎌足)で知られる中臣氏(後の藤原氏)の本拠地として古くから開発され、大津京や平安京の隣接地としても歴史的に大きな影響を与えた地域でした。
そのためか、山科区の山科盆地の南部と栗栖野丘陵を取り巻く一帯には、「中臣遺跡(なかとみいせき)」と呼ばれる縄文時代(後期旧石器時代 約二万年前)から平安時代を経て、室町時代に及ぶ大規模な集落遺跡があります。この遺跡群は、集落跡と古墳群から成る複合遺跡で、東は山科川、西を旧安祥寺川で囲まれ、両河川の合流点から北へ広がっています。

以下の地域に分布しています
東野(舞台町・森野町)
栗栖野(狐塚・中臣町・華ノ木町・打越町)
西野山(中臣町・中鳥井町)
勧修寺(東栗栖野町・西栗栖野町・西金ヶ崎・東金ヶ崎・椥辻番所ヶ口町)


発掘調査によって、住居跡は、山科川と旧安祥寺川に面した段丘面を中心に点在し、大きく二つの時期に分けられることが判りました・・・一つは弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけての遺跡で、もう一つは古墳時代からその終末期にかけての遺跡になります。
その内、古墳時代からその終末期にかけての集落遺跡には、中臣鎌足(藤原鎌足)が邸宅(陶原館)を構えていたという「山科の陶原」があった可能性もあり、そうであれば、「中臣遺跡」は古代史上たいへん貴重な遺跡となることになります。


また、この地の古墳群(中臣群集墳)は、栗栖野丘陵にある小円墳の群集墳で、いずれも六世紀末〜七世紀前半に造られたものと推定されています。この地の古墳群は、「中臣十三塚」と呼ばれてきたように、かつては多くの古墳があったようです。
昭和四十三年(1968)に高校生によって初めて集落跡が発見され、1972年から土地区画整理に伴う道路工事や宅地開発に先立って発掘調査が続けられました。現在は、近年の宅地造成によって古墳群の大部分が失われ、現在まで墳丘を残しているのは、ブログに採り上げた折上稲荷神社境内にある折上神社古墳(通称「稲荷塚」)と、「宮道朝臣列子墓」の碑がある「宮道古墳」だけということです。

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