京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

前回に採り上げた岩屋寺のすぐ南に隣接するのが、山科神社(やましなじんじゃ)です。
この神社は大石神社や岩屋寺のついでに訪れる人がいるためか、小さな神社の割りには、一般観光客にも知られているようです。
山科区にもこれまでブログに採り上げてきた日向大神宮(山科区日ノ岡一切経谷町)や吉利倶八幡宮(山科区勧修寺御所ノ内町)等、私の好きな神社が幾つかありますが、山科神社も山里に似合う好きな神社の一つです。(因みに、これらの神社は、本殿が京都市指定文化財に指定されています)


さて、山科区西野山岩ヶ谷町、西野山の中腹にある山科神社は、祭神として日本武尊(やまとたけるのみこと)とその子の稚武王(わかたけのみこと)を祀ります。
社伝によると、平安時代の寛平九年(897)、宇多天皇の勅命によって創建されたと伝えられ、延喜式に記載されている山城国宇治郡に鎮座する山科神社二座(官幣名神大社・月次・新嘗)の内の一座と考えられています。

その後は、この地の豪族、宮道氏の祖神として祀られ(宮道氏については、前に宮道列子の墓について書いた時に出てきましたが、山城国宇治郡(京都と宇治にかけて)を本拠とした一族で、宇治郡大領だった宮道弥益の娘(妹)の列子と内大臣・藤原高藤との間に生まれたのが、藤原胤子(宇多天皇女御)で、胤子は、後に醍醐天皇の母となりました。) また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産土神として崇敬をうけて栄えたということです。

全盛期には、社領も山城及び丹波に広がっていて、社殿の規模も大きかったということですが、度々の兵火のため焼失して衰退し、現在は三間社流造の本殿や権殿、拝殿、神庫などを残すのみとなっています。また、中世以降、江戸時代には、この神社は「西岩屋大明神」と呼ばれ、東の岩屋神社(山科区大宅中小路町)や他の不明な上一社と共に「岩屋三社」とも呼ばれました。
そして、元禄十四、五年(1701〜1702)には、赤穂義士の大石良雄がこの山科の里に隠棲していた際には、この西岩屋社の奥の院に参篭して大願成就を祈ったといわれています。その後、明治に入って村社に列し「山科神社」と改称しました。


さて、急坂や石段を登った山の中腹にある境内の中央、東に面して建っている三間社流造(さんげんしやながれづくり)、桧皮茸(ひわだぶき)の現在の本殿の建築年代は、明らかにする史料が無いために不明ですが、本殿の前にある石灯篭に寛永二十年(1643)、鳥居には万治三年(1660)の刻銘があることから共に江戸初期のものと判明しています。(また、鳥居には「山城國宇治郡山科郷西山村」等と刻まれているということです)

本殿については、細部の彫刻に古風な様式が見られ、部材の風蝕(風による浸食)が大きいため、室町時代後期に造営された可能性もあるようですが、一部に後補材が認められることから、江戸時代前期(十七世紀前半)には現在の形態となったと考えられています。
そして造営年代の古さと質の高い貴重な遺構であることから、京都市指定有形文化財に指定されています。
また、末社として護国社等があり、神社の例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年十月十日に行われています。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事