京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市西京区樫原地域の史跡が続きますが、樫原は、京都市の「界わい景観整備地区」に指定されている地域で、古い家並みが良く保存されていることから、今後は区域外から観光に訪れる人も少しづつ増えてくるのではないかと予想されます。

さて、かつて宿場町として栄えた樫原の町では、地域住民が「樫原町並み整備協議会」という組織を作って、町の中心部を通っている旧山陰街道沿いに駒札を立て、観光客に地域の歴史をアピールされています。今回は、そういった小さな史跡の一部について書いてみます


さて、現在の樫原秤谷町、かつて「札の辻」と呼ばれていた樫原交差点付近には、江戸時代に村々に設けられた米穀の収蔵倉である「郷倉」が残っています。
掲示板によると、大宝元年(701)の大宝律令制定によって地方官制が定められ、畿内の山背国(京都)は、葛野、愛宕、乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽の八郡に分けられました。その後、延暦十三年(794)の平安遷都の際に、桓武天皇は山背国を山城国に改称しています。また、葛野郡は大岡郷(現在の樫原地区を含む)、川島郷、桂郷、下ツ林郷等十二郷に分けられ、夫々の地に、年貢米等を収蔵する郷倉が建てられました。

この大岡郷(後に岡村=橿原)は、山陰街道でも有数の物資集積地で、また華頂宮の社領地(三ノ宮神社との関係のようです)があったために、明治時代に宮家から橿原に郷倉が下賜され、村では年間の米麦の集積場として大いに活用されたようです。その後、昭和六年(1931)に川岡村(明治時代に葛野郡岡村(樫原)が川島村と合併して川岡村となっています)が京都市に編入された際に、三ノ宮神社へ橿原地区から寄贈したています。そして、現在では地域にあった多くの郷倉が失われ、この郷倉が残っているだけということです。



この郷倉の直ぐ道路を挟んで向かい側には、前にブログのパート1の「維新殉難志士の墓」で採り上げた「勤皇家殉難之地」の石標が建てられています。

重複しますが・・元治元年(1864)七月十九日に蛤御門の変(禁門の変)が起こり、長州藩は会津や薩摩藩を中心とした幕府側連合軍に敗れました。そして、長州藩集義隊の楳本僊之助直政、元下野宇都宮藩出身の相良頼光、同じく相良新八郎(相良兄弟は、元薩摩藩と名乗ったともいわれています)の三人は、この樫原の辻まで逃れましたが、この地を警備していた小浜藩兵に囲まれて討たれてしまいました。(ブログパート1の「維新殉難志士の墓」参照)
また、その直ぐ横にある普通のマンションの前に、「小泉家の由来」と書かれた小さな案内板があります。それによると、幕末の頃、この地の小泉家当主の小泉仁左衛門は、長州藩御用達の油屋を営んでいて、その当時の油壺が道路脇に展示されています。(写真)この仁左衛門という人物は、尊皇攘夷を論ずる私塾を開いて、森田節斎や梅田雲浜らとも交際していたということです。


また、郷倉から直ぐ西側には、浄土宗西山深草派の寺院、紫雲山龍渕寺があり、その境内に祀られているのが「辻の地蔵尊」です。
龍渕寺は天正年間(1573〜93)に創建された寺院で、この札の辻にあった延命地蔵を安置することで知られているようです。山門の傍には、この地蔵尊の来歴を記した「辻のお地蔵さま」という駒札があるのですが、磨耗のため肝心の来歴がほとんど読めません。

何とか解読してみると・・天正年間、織田信長は明智光秀に丹波平定を命じ、光秀は丹波を領する波多野秀治を滅ぼすことに成功します。この時、波多野氏の部将で、雲隅高任という武将がこの樫原まで逃れ、この地で信仰していた地蔵菩薩像を祀って主家の菩提を弔って日夜念仏修行し、無事に百歳を超える長寿を全うしたということで、この事から、地蔵菩薩像は、延命地蔵と呼ばれるようになったようです。
元々は、街道の辻に建っていて、街道を行き交う旅人にお茶の接待をする際、お地蔵様の薬湯として無料で風呂の接待もあったことが伝えられているようです。そして、明治十一年(1878)に寺社が併合された際に、龍渕寺に祀られる様になったと駒札は記します。しかし、文章が解読不可能のため、この寺社とは何なのかは今回はわかりませんでした。

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今回は、西京区樫原地区の総鎮守社の三ノ宮神社(さんのみやじんじゃ)とその付近の小さな神社等をまとめて掲載します。


西京区樫原杉原町、前回に採り上げた樫原寺院跡のすぐ北にある三ノ宮神社は、西京区に多い他の三宮神社と区別するために、樫原三ノ宮神社とも呼ばれています。
祭神は、武勇の神として知られる素盞嗚大神(すさのおのおおかみ)、山の神の大山咋大神(おおやまくいのおおかみ)、酒の神の酒解大神(さかとけのおおかみ)の三神です。

神社の由緒書きによると、神社の創建年代は、文献が無いために不明ということですが、この地が樫原(かたぎはら)と呼ばれたのは、元々、この地域に樫の森があったことに由来し、この神社は、「樫」が転じたのか、「柏原神社」と呼ばれていた時期もあったということです。

また、この神社には、有名な源頼光の酒呑童子退治の伝説が関係しているとも伝わります・・・
平安時代の中期、洛西の大枝山(おおえやま 丹波の大江山説が有名です)には、京に入洛する旅人を襲って金品を略奪する鬼(山賊とも)がいて、その首領の酒呑童子(しゅてんどうじ)は人々に恐れられていました。そこで、朝廷は、摂津源氏の武将・源頼光(みなもとのよりみつ 948〜1021)に酒呑童子討伐を命じます。早速、頼光は部下の渡辺綱(わたなべのつな)ら頼光四天王と共に討伐に向かいますが、その途中で、頼光がこの地の小さな祠に供えられていた神酒を飲んだところ、たちまち酔いつぶれました。そこで、頼光らはこの酒を酒呑童子に飲ませて酔いつぶれたところを退治したといわれています。(現在、洛西の大枝塚原には鬼の首塚があります。)
この事から、鬼を退治できた「酒の神」」、その武徳から「武勇の神」、大枝山から「山の神」の三神(素盞嗚大神・大山咋大神・酒解大神)を祀り、その神徳を称えて社が創建されたとも伝えられています。

また、江戸時代には、五代将軍・徳川綱吉(1646〜1709)がこの社の神徳を仰いで徳川家の家紋を許し社殿等を寄進したと伝わります。さらに、幕末の嘉永六年(1853)には、孝明天皇が攘夷祈願のため、社の造営を図って御所絵師を差向け、天皇の養子・華頂宮博経親王(かちょうのみやひろつねしんのう 1851〜76)からは菊華紋章入りの提灯等を下賜されています。それ以来、神紋は菊華紋と徳川葵を合わせて用いているということです。
本殿は昭和四十九年(1974)の第六十回神宮式年遷宮で伊勢神宮から下賜されたもので、拝殿は昭和五十一年(1976)に造営したものです。例祭の樫原祭は、通称「たけのこまつり」と呼ばれて五月に行われ、この祭の神輿の立派な装飾品は、慶長金(千六百年代)を用いたものと伝えられます。また、境内にある手水鉢の隣には樫原(かたぎはら)の名前の元となった樫の古木があります。


また、境内に隣接して、三ノ宮天満宮があります。
元々、千有余年前に現在地を神域として祭神・菅原道真公を勧請した社とされ、三ノ宮神社の境内社として産土鎮座の守護神、文教の祖神として地域の崇敬が厚いことから、新たに昭和四十七年(1972)に三宮天満宮として創建されました。神紋は、変り剣梅鉢で、社務所は大正天皇の御大礼饗宴場建物を御下賜されたものということです。
また、三ノ宮天満宮の境内地には、京都白百合保育園や京都三の宮幼稚園があることから、鎮守の森は保育の森として活用されていて、周囲には子供達や迎えの親の声が絶えません。


さて、後はついでですが・・・三ノ宮神社から北へ向かうと、府道142号線の横断歩道の横に、初水大明神社(はつすいだいみょうじんしゃ)という、通行人にも気づかれないような小社があります。
また、さらに北に進むと、市バス「三ノ宮」バス停留所の側に樫原地区の由来を示す駒札があり、その向かい側が三ノ宮神社御旅所になります。

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