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阪急嵐山線の上桂駅の北東、桂川左岸に近い住宅地にある観世寺 (かんせいじ かんぜじ)は、新興住宅等に囲まれて建つ小さな寺院です。ほとんど住宅地に溶け込んでしまっているために、寺院らしい特徴ある屋根を目印に探さないと、見つけ難いかもしれません。山門前の道幅も非常に狭いのですが、石版レリーフの仁王像が向かい合っていて、その向こうに朱塗りの本堂があります。
さて、京都市西京区桂上野北町にある観世寺は、山号を大悲山(だいひざん)という西山浄土宗に属する寺院で、京都洛西観音霊場の第二十七番札所になります。寺伝によると、観世寺は鎌倉時代の京都の西山にあった山岳寺院、法華山寺(ほっけさんじ)を前身とする由緒ある寺ということです。
今回の観世寺よりも、一大山岳寺院だった法華山寺の方が歴史的に面白いので少し書いてみます・・・
この法華山寺は、鎌倉時代の嘉禄二年(1226)に園城寺(三井寺)の高僧、勝月坊(証月坊)慶政(けいせい 1189〜1268)上人によって京都西山に創建され、通称「峰ヶ堂」「峰の堂」「峰堂」等と呼ばれた中世寺院です。(西京区御陵の峰ケ堂・峰ケ堂町・細谷地区、山田谷田山地区一帯)
慶政上人は、摂政九条良経(くじょうよしつね 藤原良経)の子とも伝えられ、弟に関白九条道家(藤原道家 京都東福寺の開基としても知られます)がいます。本来なら、名門九条家の長男として朝廷政治を行う立場でしたが、生後間もなく障害を受けたために仏門に入る運命となったという伝承もあります。
上人は、幼くして園城寺で出家し、承元二年(1208)年頃に京都西山に隠棲します。その後、建保五年(1217)には中国宋に渡って修行して翌年帰国し、建保七年(1219) 〜貞応元年(1222)にかけて(嘉禄二年(1226)とも)西山に法華山寺を建立しました。上人は、栂尾高山寺の明恵上人とも親交を結び、奈良法隆寺の保護に尽力したことでも知られます。また、仏教説話集「閑居友」をはじめ多くの著述を残し、「続古今和歌集」をはじめとする勅撰集に二十二首が選ばれるなど和歌にも優れた学僧でした。
さて、「峰ヶ堂(法華山寺)」は、その後、慶政上人の出身でもある九条家の保護を受けて発展していきます。また、前にブログのパート1に西福寺を採り上げた際に書きましたが、この峰ヶ堂(法華山寺)の東山麓、現在の松尾大社から西芳寺(苔寺)に至る一帯には、延朗上人が安元二年(1176)に松尾社(松尾大社)の神宮寺として創建した「谷ヶ堂(西福寺)」がありました。谷ヶ堂(西福寺)は、鎌倉時代の最盛期には塔頭四十九を数えたと伝えられていて(有名な西芳寺(苔寺)も、元はその塔頭の一つだったと考えられます)、当時の西山は、峰ヶ堂(法華山寺)から谷ヶ堂(西福寺)へと山全体を多くの塔頭寺院が覆いつくしていたと思われます。
その後、峰ヶ堂(法華山寺)は、室町時代には足利将軍家の祈願寺にもなり、最盛期には「東の清水寺、西の法華山寺」と並び称されたほどの一大山岳寺院となり、伏見宮貞成親王や将軍足利義政等が参拝した記録が残っているということです。
しかし、この地域は、丹波と京都を結ぶ山陰道の唐櫃越に位置し西国から京へ入る際の入口だったために、西から京を伺う軍勢はこの地を占拠駐留することが多く、兵火に遭うことも多かったようです。
南北朝の戦乱では、元弘三年(正慶二年 1333)四月に、鎌倉幕府の六波羅探題軍と西から京へ迫った千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、谷ヶ堂(西福寺)は、隣接する浄住寺(じょうじゅうじ)等と共に全山焼失し、峰ヶ堂(法華山寺)も被災しました。文和四年(1355)二月には、京へ侵攻した足利直義党の桃井直常や足利直冬を、将軍足利尊氏・義詮父子が反撃して撃退しましたが、この時、義詮は峰ヶ堂(法華山寺)に陣を敷いています。
また、明徳二年(1391)の明徳の乱では、十二月、京都を固めた将軍足利義満に対し、摂津堺の山名氏清と呼応して丹波で挙兵した山名満幸が丹波から京へ攻め込みますが、この時も満幸は峰ヶ堂(法華山寺)に陣を敷いて京を狙いました。また、応仁・文明の乱では、文明元年(1469)四月に、西軍が東軍の陣する西山を攻め、峰ヶ堂(法華山寺)、西芳寺、谷ヶ堂(西福寺)等に火を放ち、東軍は丹波に敗走しています。
このように、峰ヶ堂(法華山寺)は、南北朝の争乱以後、度々兵火に遭って衰退し、特に大永七年(1527)に炎上して以後は急速に衰え、天文三年(1534)に廃寺となりました。その後、跡地には、管領細川晴元の家臣、守護代木沢長政が峰ヶ堂城を築きました。
さて、長くなりましたが、今回の観世寺は、この峰ヶ堂(法華山寺)に関連した寺院と伝わり、峰ヶ堂(法華山寺)が、鎌倉幕府の六波羅探題軍と後醍醐天皇軍が交戦した正慶年間(1332〜1333)の兵火に遭った際、本尊阿弥陀如来像や聖観音像が難を逃れてこの地に祀られたのが始まりということです。
山門の阿吽の仁王石像を抜けた正面にある本堂は、昭和四十年(1965)に再建されたもので、本尊阿弥陀如来像や洛西観音霊場の聖観音像、毘沙門天像、閻魔坐像等が安置されています。
また、境内の左には安産延命にご利益のある北向地蔵菩薩を祀る地蔵堂、法悦羅漢・わらべ羅漢の二灯明羅漢像や仏足石が置かれています。そして、毎年の十一月二十三日には、羅漢講式が行われ、写経納経が行われるということです。
以下はついでになりますが、観世寺の直ぐ南東数十メートルには地元の小さな社、龍王明神社があります。個人が祀ったような小社ですが、入り口の門は開られていて自由に参拝できるようです。
また、観世寺の南西数十メートル(京都市西京区桂上野中町)には、産土神社(うぶすなじんじゃ)があります。祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)で、末社として八幡社、春日社があります。こちらは、平成十三年(2001)に本殿と境内の整備がされたようで、どちらの神社も荒れたところが無く、地元の人の手できれいに維持管理されているといった印象です。
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