京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、数年前にブログパート1に、わずか写真二枚のみで掲載した京都市左京区東大路通仁王門下ル東門前町にある満足稲荷神社(まんぞくいなりじんじゃ)の写真を増やして再掲載します。



さて、左京区から東大路通を南下すると、東山区に入る直前の東山仁王門のバス亭前に、面白い名前の神社があることに気付きます・・これが、満足稲荷神社で、祭神は、倉稻魂命(うかのみたまのみこと=稲荷大明神)です。

「満足」という神社名の由来ですが、元々、この神社は安土桃山時代の文禄年間(1592〜95)、豊臣秀吉が伏見桃山城に城の守護神として勧請して祀ったものと伝えられます。そして、秀吉はこの神社のご加護によって、やる事成すこと大成功で満足したので、社名に「満足」の呼称を奉ったと伝わります。(また、秀吉が朝鮮出兵前に稲荷神に戦勝を祈願し、その霊験から初戦で連戦連勝したことから、秀吉が大いに満足したとことから命名したとも言われます・・その後の朝鮮での敗北に関しては、秀吉は稲荷神の御加護をどう思ったのか・・と気になりますが)
その後、江戸時代の元禄六年(1693)に、徳川綱吉が現在の地に移したと伝えられます。移転後も、この神社の近隣はやはり大いに繁栄したために、多くの周囲の庶民の信仰を集めたということで、御神徳あらたかということで、明治四十一年(1908)に、幣帛共進神社に指定されています。
エピソード的には商売繁盛、開運等のご利益抜群の神社ということになりそうです。


かなり狭い境内には、本殿の傍に、樹齢推定四百年で、秋には赤い実を付ける御神木の「もちの木(クロガネモチ 京都指定保存樹、「市民のほこりの木」選定)」があり、一本の幹から八本の枝が分かれた特徴ある姿をしています。また、頭を触ると頭が良くなり、痛い所を摩ると痛いところが治るという「岩神さん」も御神木と並んで祀られています。

他に境内奥に末社として、天照大御神(日本の神の始祖)を祀る大神宮社、大国主大神(縁結びの神)を祀る大国主社、猿田彦大神(交通安全の守護神)を祀る猿田彦社の三社があります。
また、宝舟之図(橋本関雪筆、節分祭には宝舟の版画を授与)、豊公詣満足神社文図(猪飼肅谷筆)等を所蔵しているということです。

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左京区東大路通の二条、仁王門付近には多くのお寺が密集していますが、その中でも最も目立つのは、妙伝寺でしょう。(数年前のブログパート1に掲載した記事を引用します。写真は最新のものです。)


左京区東大路二条の東南角にある大きな寺院として知られる妙伝寺(左京区東大路通二条下ル北門前町)は、山号は法鏡山いう日蓮宗一致派本山で、本尊は勧請様式曼荼羅です。

さて、妙伝寺は、室町時代の文明九年(1477)に、日意上人によって創建されました。
日意上人は、元天台僧で、甲府(山梨)の身延山久遠寺十一世・日朝上人に帰依して日蓮宗に改宗し、後に身延山久遠寺十二世となった人物です。日意上人は、関西の法華宗徒が京都から身延山へ参詣することの不便さを考え、本山の身延山から宗祖日蓮上人の真骨(骨舎利)と七面大明神を勧請し、薬屋妙善の帰依を得て妙伝寺を創建しました。そして、これにより妙伝寺は「西身延」「関西身延」と称されるようになりました。

元々は、上京区の一条尻切屋町にあり、その後、四条西洞院に移って日蓮宗二十一ケ本山の一つとして大いに栄えますが、他の本山と共に天文五年(1536)の天文法華の乱で灰燼に帰し、堺に逃れました。永禄元年(1558)に帰洛を許され、西洞院四条下る綾小路に再興します。(現在、妙伝寺町の名前が残ります。)その後、天正十九年(1591)、豊臣秀吉の命により寺町夷川〜竹屋町に移転し、宝永五年(1708)の大火で焼失し、現在の地に移転再建されました。
現在の本堂(桁行5間梁間5間、入母屋造本瓦葺)は、江戸時代の宝暦十四年(1764)に再建されたもので、他に広い境内には、本堂や客殿、庫裏等があります。また、境内の墓地には幕末の七卿落ちの一人で、明治以降は軍人となった四条隆謌(しじょうたかうた)の墓があるということです。

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左京区東大路通の二条、仁王門付近にある多くの寺院の中から聞名寺(もんみょうじ 京都市左京区東大路通仁王門上ル北門前町)を採り上げます。(数年前に、ブログパート1に採り上げましたが、写真を増やしてバージョンアップして掲載します)

聞名寺(もんみょうじ)は、正式には小松院聞名寺という時宗遊行派の寺院です。
小松院という山号を持つのは、聞名寺が、平安時代の第五十八代・光孝天皇が誕生から即位まで住居としていた小松殿跡地に創建されたことに因ります。光孝天皇の崩御後、小松殿は天台宗寺院に改められましたが、その後、この寺院も衰退したため、後に、一遍上人が跡地に時宗の念仏道場として創建したのが聞名寺で、当時は大炊道場(おおいどうじょう)と称していたということです。
また、当所の所在地は、現在の京都御苑の南西にあった大炊御門大路(竹屋町通の北・室町通の西 現在も道場町の名が残っています)付近にあったとされます。
その後、聞名寺は、時宗の念仏道場として栄えましたが、江戸時代の天明八年(1788)の「天明の大火」で焼失し、現在の地に移転再建したということです。


境内には、洛陽第十七番地蔵尊でもある明眼地蔵尊(めいげんじぞうそん)が地蔵堂に祀られています。
この地蔵尊は、平安時代に光考天皇が眼病を患った際に、その平癒祈願のため慈覚大師円仁が、建立したと伝わり、現在も眼の病気に効くといわれ信仰を集めています。
他に、本堂前には七重の光孝天皇塔があり、本堂裏の墓地には高さ約一.六メートルの阿弥陀石仏があります。(写真)


また、同墓地には江戸時代後期の歌人、香川景樹(かがわかげき 1768〜1843)の墓があります。
香川景樹は、因幡国鳥取藩士の家に誕生しましたが、歌道の道を志して寛政五年(1793)に上洛し、歌人の小沢蘆庵(おざわろあん)や香川景柄(かがわかげとも)に和歌を学びました。その後、二条派宗家の歌人・梅月堂香川景柄(ばいげつどうかがわかげもと)の養子となりますが、後に離縁されて独立します。そして、門弟千人を数えて明治時代まで続く、歌壇の主流となる桂園派(けいえんは)を創始しました。晩年は京都岡崎に住居を移して自邸を東塢亭(とううてい)、桂園(かつらのその)と称しました。天保十四年(1843)三月二十七日、京都木屋町で七十六歳で亡くなり、聞名寺に埋葬されました。その後、明治四十年(1907)に、正五位を追贈されています。

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前回の寂光寺をはじめ、京都市左京区東大路通の東山仁王門付近には多くの寺院が密集していますが、今回もその一つ、本妙寺を採り上げます。(数年前にブログパート1に掲載したものを、写真を増やしてバージョンアップしました)


さて、本妙寺(左京区仁王門通東大路東入ル北門前町)は、山号を祥光山という日蓮宗妙覚寺派の寺院です。
鎌倉時代の正和四年(1315)、日蓮上人の弟子で遺命により京都で布教を行った日像上人が、洛北岩倉の地に巡行の際、岩倉の代官、渡辺氏が帰依し、その邸宅を寺として創立したのが始まりと伝わります。しかし、程なくして中絶し、その後、安土桃山時代の天正二年(1574)本山妙覚寺の十八世、日典上人が再興しました。さらに、江戸時代の宝永五年(1708)の大火で類焼しますが、享保十三年(1728)に七世の日正上人が現在の重層造りの本堂を再建したと伝わります。
鎮守の鬼子母神像は、真言宗の僧から日像上人の弟子となった、大覚上人の自作で、日像上人が開眼したものと伝えられ、安産守護として信仰されているということです。


本妙寺はまた、赤穂義士ゆかりのお寺でもあり、通称「義士の寺」と呼ばれます。

浅野藩蔵奉行の貝賀弥左衛門友信は、松の廊下の刃傷にはじまる騒動により赤穂藩が断絶した直後に浪人となって、妻のおさん、娘のお百と共に、かねてから親しかった京都在住の赤穂浅野藩代々の御用商人で京染呉服商の綿屋善右衛門(天野屋利兵衛のモデルともいわれます)の邸に寄寓しました。
そして、弥左衛門は、元赤穂藩筆頭家老大石良雄(内蔵助)の討ち入りの本心を善右衛門に打ち明け、妻子の行く末を頼みました。また、弥左衛門は、貝賀家が元々日蓮宗だったことから本妙寺を菩提寺と定めました。

その後、貝賀弥左衛門等が討ち入りの本懐を遂げ、元禄十六年(1703)二月に自刃した翌年の宝永元年(1704)四月、その遺言を守って、綿屋善右衛門は、貝賀弥左衛門と、その実兄の吉田忠左衛門、忠左衛門の子の澤右衛門の三義士の遺髪と、さらにこの年に病死した貝賀弥左衛門の妻のおさんの四名を、一基の石碑を建立して合祀しました。

この義士の墓には、切腹したことを示す刃・劔の入った三義士の戒名がおさんの戒名と共に刻まれています・・・
刃仲光劔信士 吉田忠左衛門兼亮
刃當掛劔信士 吉田澤右衛門兼貞
刃電石劔信士 貝賀弥左衛門友信 元禄十六年二月四日命日
深信妙順信女 貝賀妻おさん 宝永元年一月二十五日命日


その後、貝賀の子孫九代目の斎藤トラという人が昭和五年(1930)に義士の遺品や遺墨を本妙寺に奉納したので、その機会に義士堂を建立し四十七士の木造を祀りました。
尚、宝永元年(1704)四月に建立された義士の石碑(墓)は、年月と共に破損が激しくなったため、現在のものは、平成五年(1993)三月に、当時と同じ形態で改修されたものです。
元の石碑は本妙寺の義士宝物館に収納されていて、本妙寺で毎年十二月十四日に行われる元禄義士追悼記念祭(義挙記念祭)で、義士の木像、義士の遺品遺墨と共に一般公開されています。

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今回は、数年前にブログパート1に少し採り上げた寂光寺の写真を増やして再掲載します。(前に掲載した際は、写真三枚しか掲載できませんでした)
左京区仁王門通東大路東入ル北門前町にある寂光寺(じゃっこうじ)は、山号を妙泉山という日蓮諸宗の一つ顕本法華宗寺院で、本尊は十界大曼荼羅です。


寂光寺は、安土桃山時代の天正六年(1578)に日淵(にちえん)上人が創建した寺院で、初めは久遠寺(久遠院)と号して、出水通室町(上京区)にありました。その後、豊臣秀吉の命により、天正十八年(1590)に寺町二条竹屋町に移転し、さらに、天正十九年(1591)頃に、法華宗十六本山の妙泉寺を寺内に移建した後に合併しています。その後、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により焼失し、現在地に移転再建されました。


さて、日渕上人の甥で、寂光寺二代目住持となった日海上人は、堺の仙也に碁を学び、碁の才能に極めて優れていました。
当時敵手が無かったため、織田信長から「名人」の名を送られたとも伝えられ、その後、豊臣秀吉にも賞賛され朱印を与えられます。日淵から寂光寺を譲られた日海は、寺内塔頭の本因坊に住んで、本因坊算砂(さんさ)と号しました。その後、算砂は徳川家康からも官職を与えられ、その招きにより江戸に移住しますが、算砂以降、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなりました。尚、二世算悦、三世道悦を経て、四世道策の時に本因坊は寂光寺から江戸に移りました。
(尚、二十一世の秀哉(しゅうさい)が引退して以降、世襲制は終わり、日本棋院が名跡を譲られ、現在の選手権タイトル戦へと移行しました)

境内墓地には、本因坊算砂、算悦、道悦の墓がありますが、普段は墓域への門は閉ざされているようです。他に、寺宝として、関白近衛家から拝領した碁盤や算砂の画像などがあるということです。

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