京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、かなり前にブログパート1に採り上げた八坂庚申堂(やさかこうしんどう)の写真を増やしてバージョンアップ版として更新します。(尚、パート1とパート2に掲載している史跡は、原則として重ならないようにしているので、前記事は全て削除しています)

さて、京都市東山区金園町、東山の八坂の塔の坂道の下に、観光客の目を引く朱塗りの山門のある、いかにも庶民的なお寺があります。これが、地元で「庚申さん」と親しまれている八坂庚申堂です。
「庚申さん」こと、八坂庚申堂は、正しくは、大黒山延命院金剛寺という天台宗寺院で、この庚申堂は、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂(現存しません。現在は浅草の浅草寺が代わって三庚申といわれます)と並び日本三庚申の一つとされます。特に、この八坂庚申堂は、日本最初の庚申信仰の霊場ということで、本尊の青面金剛童子は飛鳥時代に渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として請来されたと伝えられます。


庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、その後、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国で流行しました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛や帝釈天、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、六十日ごとに来る十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸(さんし 三匹の虫)が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った罪を告げに行くといわれ、これを知った天帝は、その罪の罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。

この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。八坂庚申堂の本尊・青面金剛は、抜け出した三尸(三匹の虫)を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、青面金剛を拝むという信仰が広まり、青面金剛は庚申さんと呼ばれるようになったようです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸(三匹の虫)に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようです。


さて、八坂庚申堂こと金剛寺は、平安時代の中頃、役行者以来の修験道の大家といわれた雲居寺の僧、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、庶民にもお参りできるように、八坂の地に青面金剛を祀る庚申堂を建立したのが始まりと伝えられますが、一説には聖徳太子の創建という説や、八坂の塔(法観寺)の末寺だったという説もあるようですが、実際は確かな事は不明のようです。

現在の御堂は、江戸時代の延宝六年(1679)に再建されたものといわれ、表門の屋根の上には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像があり本堂の周りには、たくさんの「くくり猿」が、参拝者により吊るされています。「くくり猿」は、猿が手足をくくられ動けない姿を現わしていて、猿を人間にたとえ、人間の心の中にある欲望が動かないように、庚申さんに括り止めてもらうという禁欲のおまじないです。また、こんにゃくを病人の頭の上に吊るすと病気が治るという「こんにゃく祈祷」、下着に祈祷印を受けると、家族に下の世話の面倒を受けないという「たれこ封じ」等の庶民信仰も伝えられ、現在も、八坂庚申堂は、これら病気や災難除けにご利益があるとして親しまれていて、八坂の小さなシンボルのひとつになっています。

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映画館祇園会館の西約百メートル、祇園のネオン街の真ん中(京都市東山区新橋南通東大路西入ル祇園町北側)にある小さな神社が、観亀稲荷神社(かんかめいなりじんじゃ)です。

すぐ北西の元吉町(新橋花見小路西入ル元吉町)にある辰巳大明神が、芸妓さんの守り神、祇園白川・新橋のシンボル的な神社として京都観光ガイド等に採り上げられるのに対し、こちらの神社は一般的にはほとんど知られていないでしょう。(祇園新橋を除くと、鴨川と四条通・東大路通に囲まれた祇園町北側一帯は、普通のネオン街と化していて、京都らしさはまったくといって無いので仕方ありません。)
しかし、観亀稲荷神社は、江戸時代の膳所藩ゆかりの歴史ある神社で、火伏せ(防火)の神として祇園の歓楽街を火災から守っているようです。(以下、神社にある由緒書を大部分引用します)



さて、観亀稲荷神社の祭神は、加具都智命(かぐつちのみこと)宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)です。元々、祇園町のこの地域は、江戸時代初期、京都御所警衛を担った近江国膳所藩第二代藩主・本多俊次(ほんだとしつぐ 1595〜1668)が、万治二年(1659)十月に幕府より賜った膳所藩京屋敷跡になります。
この当時の屋敷の区域は、東は今の東大路、西は花見小路、北は新橋町通、南は富永町通りに囲まれた約四千三百五十坪だったということで、現在の観亀稲荷神社をほぼ中心とした祇園町北側周辺一帯ということになります。

また、その約五十年後の宝永六年(1709)に、当時の膳所藩主、本多康慶(ほんだやすよし 1647〜1718)は、郡山、淀、 亀山(今の亀岡)藩と共に、将軍から京都御所の火の番(火元管理)のため京詰を命令され、この四藩が臨月交代で幕末まで御所の警備をしました。


さて、観亀稲荷社は、この康慶の子・康命(やすのぶ 1672〜1720)が、御所の火の番である膳所藩が火を発しては恐れ多いから、火伏せの神・遠州秋葉山の秋葉権現を藩邸に勧請するようにという父康慶の遺言によって、享保三年(1718)に、膳所藩内の茶臼山(ちゃうすやま)に秋葉権現を勧請し、更にその分霊を当地に移祀したものということです。

また、神社の創建当時は、この付近は竹薮で覆われていたため、これを伐り開くと、亀が出て歓んだということから、観亀、歓亀または歓喜神社と称し、その後、(恐らく稲荷神を合祀したために)観亀稲荷社と称するようになりました。そして、現在も飲食街の真ん中という場所がら火伏せ(防火)の神として崇敬者が多いということです。
また、現在の社地は、元々の膳所藩京屋敷の中庭に当たるとされます。

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京都市東山区粟田口鍛冶町、粟田神社と仏光寺本廟の間にある良恩寺は、通常非公開寺院の小さなお寺ですが、エピソード的に話題がある寺院でもあります。


さて、良恩寺は、山号を華頂山(かちょうざん)という浄土宗西山禅林寺(総本山は永観堂禅林寺)に属する寺院です。創建は永禄年間(1558〜70)とされ、元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」は、元々は天台宗寺院で、中世になって浄土宗に改め、その後青蓮院に属したと記します。また一説には、周辺地域にこの寺院に関連する名前が多いことや付近から金紋の瓦が出土することなどから、かつては広大な敷地を有する寺院だったという説を記しています。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わり、地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、「花洛名勝図会」も少し記していますが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


また、良恩寺は、寺宝として豊臣秀吉ゆかりの「手取釜」を所蔵しますが、この釜には、以下のような伝承があります・・・
その昔、この良恩寺のある粟田口付近に、粟田口善法(あわたぐちぜんほう)という茶人がいました。わび茶の創始者として知られる村田珠光(むらたじゅこう)の弟子といわれ、この粟田口に草庵を構えて隠者として暮らしていました。善法は清貧を旨として、食事も茶の湯もただ一つの茄子型の手取釜を用い、時には往来の者を呼び入れてこの釜で茶を振舞ったということです。

さて、この釜が天下の名器だと知った豊臣秀吉は、早速、千利休を介して大金で釜を譲るようにと持ちかけました。しかし、善法は「この釜を献上してしまったなら、何で茶を飲めば良いのか?このような釜を持っているから所望されるのだ」と大事な釜を叩き壊してしまいました。
このことを聞いた秀吉は、自分が釜を所望したのは誤りだった悔やんで、これと同じ手取釜の写しを二つ鋳造させて、一つを善法に与え、もう一つは自分用にしたといわれます。そして、良恩寺には、この時、善法が拝領した茄子型の手取釜とされる釜が伝えられています。

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京都市東山区清水四丁目、東大路通から清水寺に続く清水坂を約百メートル東へ向かった所にある小さな寺院、日體寺(日体寺 にったいじ)を採り上げます。
日體寺は「洛陽十二支妙見めぐり」の「巳」の寺になりますが、他の「洛陽十二支妙見めぐり」の多くの寺院が、境内に入って直ぐの目立つ場所にに大小の妙見宮を持つのに対し、日體寺の場合は境内にはそれらしき建物は見当たらないので、山門脇に洛陽十二支妙見と記されていないと通り過ぎてしまうかもしれません。


さて、日體寺は、情報の少ない小さな寺院ですが、元々は創建年代不明の観音寺という浄土宗寺院だったということです。その後、江戸時代中期の享保六年(1721)に、当時の住職が常照院日體上人に帰依して日蓮宗に改宗し、この日體上人を開山と仰ぎました。日體寺の北辰妙見尊は、元々は祇園石段下にあった妙見宮に祀られていたといことですが、地所建物が取り払いになったため、祇園白川末吉町の元芸妓・藤井四十吉という女性が自宅で祀っていましたが、その後、四十吉が亡くなって日體寺の墓地に埋葬された縁から、妙見尊も日體寺で祀られるようになったということです。この妙見尊は、水火の災を除き、怨敵の難を退け、家を修めるとして「清水の鎮宅妙見」として知られるということです。


尚、「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。


「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでにブログパート1にも登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日體寺(日体寺))

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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京都市東山区清水二丁目、清水寺の山門まで約二百メートルという辺りで産寧坂と清水坂と五条坂という三つの坂が交差する場所があります。
京都観光をした人なら必ず一度は通ったと思われるこの場所の北東角に、小さなお堂が建っています・・・これが、現在は清水寺の境外塔頭となっている来迎院(らいごいん)という小さな寺院で、経書堂(きょうかくどう、きょうしょどう)の名前で知られています。


さて、経書堂こと来迎院の創建年代は不明ですが、中世に成立した清水の花見を主題とした謡曲「熊野(ゆや)」に、「御法の花も開くなる 経書堂はこれかとよ」と謡われていることから、古くから清水寺の参詣道にあって親しまれてきた事が伺われます。

また、江戸時代の天明七年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」や元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」にも記載されていて、それによると、経書堂は、院号を来迎院という真言宗の寺院で、聖徳太子の開基と伝えられ、太子がこの地に来た時に、阿弥陀、観音、勢至の三尊仏が空中に影向するのを拝して草創したということです。
また、この来迎院の僧が、小石を集めて、僧俗(僧侶や俗人)男女の参詣者に法華経や大乗経等の一字を一つの石に書かせて水を注いで諸霊を供養したので、お経を書くお堂という意味の「経書堂」と呼ばれるようになったと伝えられます。本尊は、三尺(約九十センチ)程の聖徳太子自身が彫ったとされる十六歳の太子像で、脇檀に三尊像を安置しているようです。

また、御堂の内部正面、手前に置かれている丸い石は、「願掛け石」、「占い石」とされる「重軽石(おもかるさん)」という玉石で、「疑わしい事があれば信心をこめて伺って、軽く持ち上がれば万事よし。もし持ち上がらなければ明日また、上がるように自ら考えること。」と言い伝えられているということです。

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