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京都市伏見区の久我・羽束師地域は、古くから農業が盛んで、昭和の半ばまでは、田畑の中にぽっかりと浮かんだ久我神社や神川神社、菱妻神社、羽束師神社等の大きな鎮守の森が遠くからでも見ることが出来る長閑な田園地域だったようです。しかし、現在は宅地化が進んで人口も増え、小中学校や病院等も新設されて周辺環境は激変しました。特に、「京都府道123号水垂上桂線」と呼ばれる上桂から淀へ抜ける道路の西側には、一戸建ての数百もの新興住宅が次々と建ち並ぶようになりました。
今回の久我神社(こがじんじゃ)は、そんな住宅街に囲まれた小さな神社ですが、神社の鎮守の森の周辺のみは、今も独特の静けさが漂っていて、古代からの地域の歴史を感じさせてくれる気がします。
さて、京都市伏見区久我森の宮町にある久我神社(こがじんじゃ)は、祭神として、別雷神(わけいかづちのかみ)・建角身命(たけつぬみのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の三柱を祀ります・・・これらの祭神は、賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一(別雷神は上賀茂神社、建角身命と玉依比売命が下鴨神社の祭神)になります。
社伝によると、久我神社の創建は、八世紀の末、平安京遷都に先立って、桓武天皇が山城長岡京に遷都した延暦三年(784)頃、王城の艮角(うしとらのすみ 北東)の守護神として、この地に鎮座されたと伝わり、延喜式の神名帳では「久何神社」と記され、乙訓郡十九座(大五座、小十四座)に数えられる京都市内でも最古の神社の一つといわれています。また、祭神が賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一であることから、江戸時代には、鴨森大明神、また森大明神とも呼ばれていたと伝えられます。そして、なぜ、賀茂氏の祖神が祀られているのかという疑問点から、以下のような興味深い説があります・・
まず、一説によると、久我神社は、元々、古代に山背久我国造として北山城一帯に勢力を持っていた久我氏の祖神、興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ 「三代実録」に記載され、この祭神を祀る神社が、現在の久我神社ではないかと推定されます)を祀った神社でしたが、久我氏の衰退後に賀茂氏がこれに代わってその祖神を祀ったのではないかということです。
また、「山城国風土記」逸文から、当社は、平安・長岡京遷都以前に遡る古社で、賀茂社の前身ではないかという説もあります。(以下に、「山城国風土記」逸文を読み下し文に改めて、掲載してみます。)
賀茂御祖神社(下鴨神社)について記す中で、
「加茂の社 可茂と称ふは、日向の曽の峰に天降り坐しし神、賀茂の建の角身の命、神倭石余比古の御前に立ち坐して、宿りて大倭の葛木の山の峰に坐しき。彼より漸遷りたまひて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代の河の随に下り坐して、葛野の河と賀茂の河との会へる所に至り坐し、賀茂の川を見廻らして言りたまはく「狭小くあれど、石川の清川にあり」とのりたまふ。仍ち名けて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。
賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女を娶きて生みませる子、玉依日子と名く。次、玉依日売と曰ふ。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。
人と成りて、外祖父建の角身の命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて七日七夜楽遊したまひて、さて子と語らひて言ひたまはく「汝の父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ」といふ。即ち、酒圷を挙げて天に向きて祭らむとして、屋の甍を分き穿ち天に昇りたまひき。乃ち外祖父の名に因りて、可茂の別雷の命と号く。謂ゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火の雷の命なり。賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日売と玉依日売との三柱の神は、蓼倉の里なる三井の社に坐せり。」とあります・・
文中、「彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。(その川からお上りになられて、久我の国の北の山麓に住居を定められた。その時から賀茂というのである)」とありますが、これは、賀茂氏族の祖神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、大和から木津川を経て久我の国に移り住んで、賀茂氏を称したと解釈できます。
この「久我の国」とは、古代の葛野、乙訓地方の古称とされ、通説では、賀茂川上流の西賀茂を指すとされ、西賀茂の大宮の森の鎮守社「久我神社(ブログパート1に掲載しています)」がこの伝承に因んで祀られています。
しかし、これとは別に、賀茂氏が移り住んだのは、「久我の国」の一部に相当する乙訓(現京都市伏見区)の久我であるとする伝承があり、賀茂氏が当地「久我国」に住居を構えて祖神を祀ったのが当社であり、その後、賀茂川を北上して現在の賀茂の地に鎮座したというのです。
また、同じく、「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。(玉依日売が、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時に、丹塗り矢(赤く塗った矢)が川上から流れてきた。そこで、それを持ち帰って家の寝床の近くに挿して置くと、とうとう身ごもって男の子を産んだ。)」という文に関連して、久我の里には、久我の西方(乙訓座火雷神)から、丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、 やがて当地で別雷神が生まれたという伝承もあるということです。鴨川と桂川の合流地点付近に鎮座するこの神社が、水運を通じて上流の賀茂社と何らかの関係があったのではないかとも想像させる伝承です。
以上のような伝承や諸説があるように、謎めいた歴史が興味深い久我神社ですが、夏でもほの暗い境内にもどこか神秘的な雰囲気が漂っています。この豊かな神社の森は、 かつては、多くの歌に「久我の杜(こがのもり)」として詠まれてきたと伝えられます。
また、江戸時代の記録から、神社には社僧がいたようで、「願応寺に住職社僧となり祭祀を司り寛永十年(一六三三)蓮住院松庵卒す」 と神社の旧記に記されているということです。その後、明治時代に村社に列格し、昭和四十四年(1969)に社務所が改築され、また昭和五十九年(1984) には、御鎮座千二百年を記念する祭事が盛大に行われています。そして、現在もこの久我の郷の人々をはじめ諸人の殖産興業、五穀豊穣、厄除方除、安産育児、平和安全の守護神として崇敬されているということです。
さて、静かな森に囲まれた割拝殿の先には、江戸時代に建てられた本殿があります。
京都市の掲示板によると、現在の本殿は、天明四年(1784)に再建されたもので、棟札から大工棟梁は小嶋弥惣太源久清という人物で、この弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎(きもいり)として造営に携わったことが判明しています。
この本殿は、三間社流造で切石積の基壇上に建っていて、身舎内部は内陣と外陣に分れています。妻飾(つまかざり)は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で、密集した葉を彫刻した笈形(おいがた)が付いていますが、この地域の建造物としては、妻飾等の彫刻がやや派手なことが特徴で、これは、播磨の大工(宗左衛門や利兵衛達)が造営に関与したためと考えられています。
また、造営棟札の他に、普請願書の控えや板製の建地割図等の造営に関する資料がよく保存されていて、建築年代や播磨の大工の関与も認められる比較的大きな社殿で、また保存状態も良好ということから、平成二十年(2008)四月に京都市の登録有形文化財に指定されています。
また、本殿の左右には、末社として春日神社、稻荷神社、八幡宮、天満宮、加藤清正を祀る清正社があり、鳥居の脇には天神立命(あめのかみたちのみこと)を祀る歯神社が祀られています。また、「お唐臼」という石臼が安置されています・・傍の石碑の文字は不鮮明ですが、かつて二丁先の久我神社御旅所の社殿建造の際、この石を持ち帰った者に神異(祟り)があったことから元に戻したと伝えられ、その後、川中に埋もれていたものをこの地に祀ったもののようです。また、境内のクスノキとクロガネモチが区民の誇りの木に選ばれています
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