京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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前回の元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)に隣接する日吉神社(ひよしじんじゃ)も写真を増やして再掲載します。

京都市左京区浄土寺真如町にある日吉神社は、同区域にある紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の守護神で、真如堂地区の産土神になります。
祭神は、日吉山王(ひよしさんのう)、十禅師大明神(じゅうぜんしだいみょうじん)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。祭神の十禅師が地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とされるように、元々明治初期の神仏分離令までは、隣接する元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)境内で神仏一体化して祀られ、御神体で社宝の一木造木像地蔵菩薩立像(平安時代末期)はかつての神仏混交時代の名残といえます。


さて、平安時代中期の正暦五年(994)、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))が、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、自身の離宮を改めて寺院とし、真如堂(真正極楽寺)を創建しましたが、この際、同じく比叡山の守護神、日吉神を山王権現としてこの地に勧請したのが日吉神社の始まりと伝えられ、鎌倉時代には地域の鎮守神として崇敬されました。

その後、真如堂は応仁の乱で荒廃し 各地を転々としますが、この神社は永くこの地に祀られ吉田神社の吉田家とも協力しながら神事を維持していたようです。 元禄六年(1693)に、現在の真如堂が再興されると、日吉神社も産土神として広く信仰を集めたと伝わり、現在も、日吉(日々吉の暮らし)の神猿(まさる=魔が去る)として地域の氏神として信仰され、特に、家や土地、身体にふりかかるあらゆる厄魔を払い去る御神徳で知られているということです。
また、一見、境内に末社が見当たらないように思われますが、実は、石段上に鎮座する本殿の脇に小さな稲荷神社が祀られています。

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今回は、以前にブログパート1に少しだけ掲載した元真如堂(もとしんにょどう)の写真を増やして再掲載します。

紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の東北にある小さなお寺が、真如堂の境外塔頭、元真如堂(もとしんにょどう 左京区浄土寺真如町)です。「元真如堂」という名前のように、この場所は真如堂の創建時の旧地になります。また、元真如堂は、正式には「東向山蓮華院換骨堂」といい、この「換骨堂(かんこつどう)」という正式名称の方が地元では有名です。また、尼寺三十六ヶ所霊場の第二十四番でもあります。


さて、平安時代中期、この神楽岡(吉田山)には、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))の御所がありましたが、正暦三年(992)、女院が夢のお告げを受けて、院内に比叡山常行堂に安置されていた阿弥陀如来像を移し、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、同五年(994)に真如堂を建立しました。(真如堂の歴史については、またの機会とします)
以後、真如堂は長くこの地にありましたが、応仁の乱の兵火で荒廃し、後幾度か移転をした末に、元禄六年(1693)に現在の真如堂のある地(元の位置から西南)に再建され今日に至ります。

一方、創建の地には、念仏堂と呼ばれた小堂宇が残されていましたが、その後、天保元年(1830)の地震により念仏堂は一時荒廃します。しかし、同十三年(1842)、尼僧黙旨(もくじ)が尼衆の願いに応じて尼僧寺院として再興し、以後永代尼僧の住職を許されたと伝えられます。
また、「換骨堂(かんこつどう)」という別称の由来としては、寺を再興した黙旨尼の遺稿「重興記」に、「法界の群生同じく当下に換骨の霊方を証得し、一超直人、弥陀の本願を達せしめんと欲して、換骨堂と号せしもの」と記されているということです。尚、現在の境内の様子を、元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」の図会と比較してみると、それ程大きな変化は無いようです。


さて、刈り込みの間の小さな山門を入ると、正面に本堂(念仏堂)があり、その右手の小さな庭には花木が植えられていて尼寺らしい風情を感じます。
左手には「如柳庵」という茶室があり、その傍には、石仏や石塔等が置かれています。
そして、さらに左に進むと、隣接する日吉神社の境内に出ますが、その手前に、真如堂を建立した後、長保三年(1001)に亡くなった東三條院の供養塔と伝わる五輪塔があり、蓮華ヶ岡の不動尊と呼ばれる石不動を祀る祠があります。また、真如堂の開山、戒算上人が蓮華童子の教示を受けて掘ったと伝えられる閼伽井(あかい)があり、蓮華童子に因んで「蓮華水(れんげすい)」と呼ばれています。

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京都市左京区上高野(かみたかの)という地域は、高野川の上流を意味し、八瀬(やせ)の南に接する地域です。
この地域の観光寺院としては、名庭で知られる蓮華寺(上高野八幡町)が有名で、また、瑠璃光院(上高野東山町)も紅葉時期に特別公開されています。
神社では、崇導神社(上高野西明寺山町)や三宅八幡宮(左京区上高野三宅町)は地域を代表する神社で、他に御蔭神社(上高野東山町)、三明院(上高野西明寺山町)、栖賢寺(上高野水車町)等々もブログ(パート1&パート2)に採り上げてきました。

今回採り上げた宝幢寺(ほうどうじ ほうとうじ)は、観光寺院ではありませんが、上高野南部を代表する寺院で、京都市登録無形民俗文化財に登録されている「上高野念仏供養踊」が境内で行われることでも知られています。


さて、上高野の、高野川を挟んで北側は、鄙びた里の風情が残っていて散策が楽しめる地域ですが、川の南側一帯から修学院地域にかけては完全に新興住宅地化しています。宝幢寺(京都市左京区上高野釜土町)は、この一戸建てが建ち並ぶ迷路のような住宅地内にあるために、少し見つけ難い寺院ですが、境内の東側の竹林と南側にある京都市有地の山林が寺の目印になっています。

宝幢寺は、山号を霊芝山という、永観堂を本山とする浄土宗西山禅林寺派に属する寺院です。
江戸時代の寛永年間(1624〜44 寛永十一年(1634)とも)、旭移(きょくい)上人が創建したと伝えられます。本尊の阿弥陀如来像は、信濃の善光寺の本尊を模したものと伝えられ、「相好貴奇(そうごうきき)」な魅力ある仏像として知られ、多くの仏師達が寺を訪れて如来像の御顔を拝し、製作の際の手本としたということです。
境内には、山門脇の毘沙門天石像や阿弥陀如来石仏、仏足石、「夢想の滝」等がありますが、特に、「夢想の滝」は、開山の旭移上人が、滝の音に観音経読経の響きを感じて、この地に草庵を結んだといわれる古い滝で、かつては、滝上には観音菩薩像が祀られていたと伝えられます。


寺は、今も地域の人々の信仰の場として親しまれていますが、特に八月十九日の夜、境内で行われる「上高野念仏供養踊(かみたかのねんぶつくようおどり)」が有名で、この踊りは京都市登録無形民俗文化財に登録されていいます。
「上高野念仏供養踊」は、平安時代以来、この洛北上高野に伝承されてきたと伝えられる念仏踊りですが(かつて、称名寺(廃寺)という寺院の境内で行われていたといわれます)、大正末期に中断してしまいました。その後、昭和六十三年(1988)に復活され、上高野念仏供養踊保存会によって維持管理されています。八月十九日の夜の宝幢寺境内では、三幅前垂、赤の襷、白足袋、赤緒草履という揃いの浴衣姿の女性踊り手が、右手に団扇を持って念仏を唱えながら、鉦や太鼓の囃子で円となって踊る姿を見ることができます。

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