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左京区八瀬(やせ)は、上高野と大原の間に位置し、比叡山山裾の山里といった風情の残る地域です。京都では、八瀬といえば、まず、かま風呂温泉や比叡山頂へのケーブルの乗り場として知られています。
また、かつては、京福電鉄系の「八瀬遊園」という屋外プールやスケートリンクを備えた京都では数少ないレジャー施設があったことでも知られ、昭和三十九年(1964)の開園以降、一時は年間二十万人の入場者がありましたが、その後低迷、「スポーツバレー京都」、さらに「森のゆうえんち」と改称して存続を図りますが、ついに平成十三年(2001)閉園しました。(現在、跡地には会員制ホテル「エクシブ八瀬離宮」があります)
「八瀬遊園」が人気だった頃は、毎週、地元の子供連れの家族で賑わった八瀬ですが、元々、有名な観光名所が少ないこともあり、北の大原、南の修学院や一乗寺に比べて他府県からの観光客にはあまり知られていない地域といえます。
今回は、八瀬の数少ない史跡の一つ、「源義朝公の源家再興発願所」とされる碊観音寺(かけ観音寺)を採り上げます。(尚、「かけ」は、「銭」の「金」を「石」に置き換えた変換不能文字ですが、お寺のホームページでは、「碊」を用いているので、「碊観音寺」としておきます)
さて、高野川沿いに国道367号線(通称、鯖街道・若狭街道)を大原方面に向けて北上する途中、旧国道と交差する手前の左の崖上に小さな寺院が見えてきます・・これが碊観音寺です。
碊観音寺は、山号を真山という真言宗泉湧寺派の寺院で、創建は昭和八年(1933)というかなり新しいお寺ですが、本尊碊観音大士(観音菩薩)は、かつて源義朝が源氏再興と東国への道中の安全を祈願して、石に鏃で刻んだ観音像と伝えられています。
さて、「平治物語」によると、平安時代末期の平治元年(1159)十二月下旬、「平治の乱」に敗れた源氏の棟梁・源義朝は、戦場で討ち死にしようと覚悟を決めますが、義朝の乳母子で第一の郎党・鎌田兵衛政清に、諸国の源氏を勇気付けるためにも一旦落ち延びて再起を図るべきであると強く諌められ、都を脱出して八瀬・大原から近江に逃れようと、この八瀬の千束ヶ崖を通過しました。
「平治物語」等によると、この時従う者は、義朝の長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝(十三歳)、叔父の陸奥六郎源義隆、一族の佐渡式部太夫源重成と平賀四郎義宣、乳母子鎌田兵衛政清、斉藤別当実盛、波多野次郎義通、三浦荒次郎義澄、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重、足立右馬允遠元、金子十郎家忠、上総介八郎広常、渋谷金王丸、鷲津玄光等三十余名だったようです。
しかし、義朝達が大原方面に逃亡したという噂を聞きつけた比叡山の山門大衆が、落人狩りのため、二、三百人で千束ヶ崖で義朝一向を待ち伏せしていました。「平治物語」によると、これを知った義朝が、「都でどうにかするつもりが、鎌田のつまらぬ意見など聞いたばかりに、ここまで来て山門大衆の手に掛かって無駄死にするとは口惜しいことだ。」と嘆くと、家来の斉藤別当実盛が、「私がお通ししましょう。」と馬から降りて甲を脱いで手に下げ、乱れた髪を顔に振り掛けながら衆徒らに近寄って言うには、「右衛門督藤原信頼殿、左馬頭源義朝殿その他の人々は、皆、大内裏や六波羅で討死なされた。我等は諸国から駆り集められた武者に過ぎず、恥を忍んで妻子と会うために本国に落ち延びようとしているところである。それを討ち取って罪作りに何をなさろうというのか。武具をお望みなら差し上げましょう。どうかお通し願いたい。」
衆徒らは「確かに大将達ではないようだな。木っ端武者を討ち取っても仕方がない。武具さえ脱いで渡せば通してやろうか。」と詮議したので、実盛は再び、「法師は大勢おられるが、我々は小勢なので武具の数が足りません。そこで、我らが武具を投げるので、皆さんで奪い取り合っていただきたい。」と言うので、正面の若法師達は、「お前が言うのももっともだ、そのようにせよ。」と集まり、後陣の老僧達も負けまいと押し寄せ競い争うところに、源氏の三十二騎の武士達が、この隙に、刀を抜いて兜の錏を傾けて、どっと法師の群れの中へ駆け入って蹴散らして通ったので、衆徒達は慌てて長刀を持ち直し一人も逃すまいと追いかけて来ました。
そこで、実盛は髪を振り乱し大童(おおわらわ)になって、大きな矢を取ってつがえ、「敵も相手によるぞ。わしは源義朝の郎等の、武蔵国の住人、長井斎藤別当実盛という者だ。捕らえるつもりならば寄ってくるがいい。手柄のほどを見せてくれよう。」と、取って返すと、これを見た衆徒達の中に弓矢の使い手はいないので、これは敵わないと皆引き上げて帰ったということです・・・
この斉藤実盛が機転を利かせ、山門大衆の中に鎧兜を投げ入れ、衆徒が奪い合いをしている隙に、源義朝一行が一気に駆け抜けた川の淵は、「甲ヶ淵」、「斎藤実盛甲ヶ淵」と呼ばれ、昭和十年(1935)六月二十八日の水害や近年の河川改修工事等によってその場所は不明となったようですが、現在も京都バスの停留所「甲ヶ淵」にその名を残しています。
(「山州名跡志」は、「甲ヶ淵」を「甲淵」と記し、その位置は、蓮華寺の北西四町、碊観音寺のある「千束碊(せんぞくがかけ)」の南半町としているので、「山州名跡志」の記載が正しいとすれば、現在の京都バスの停留所「甲ヶ淵」からはもう少し川下ということになりそうです。)
尚、「山州名跡志」は、碊観音寺のある崖について、この地は古来、「千束碊(せんぞくがかけ)」と称し、「甲淵(甲ヶ淵)」の北半町に位置するとし、矢背川(八瀬川=高野川の一部)に臨んで岸高く、左は山で道幅は八尺の坂道であると記しています。そして、物語ではこの崖道で戦いがあったように記載しているが、この道は大変狭く物語に記される所と違っているので、土地が広く千騎が並ぶほどである半町南の「甲淵(甲ヶ淵)」の地が戦場だっただろうと記しています。
また、京都バスの停留所「甲ヶ淵」から少し下流、碊観音寺の前の八瀬川の東岸には、幅十メートル、高さ五メートルの巨岩(バイパス道路の橋下)がありますが、この大岩は、この脱出の際、源義朝が騎乗のまま飛び越えた岩と伝わり、「義朝駒飛石(駒止岩)」と呼ばれています。(また、大石の上のバイパスの橋は「駒飛橋」と名付けられています。)
さて、碊観音寺に戻ります・・
寺伝によると、千束ヶ崖での叡山大衆との戦いの際、源義朝は、戦の疲労で駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちましたが、不思議にも、まったく怪我をする事も無く、無事に再び崖をよじ登ることが出来たということです。
義朝は、これは日頃信仰している観音菩薩の御慈悲だと感激して、峠の大岩に弓の鏃で観音菩薩を線刻し、源氏の再興を主従一同で願ったということです。以降、碊の観音様と呼ばれ、観音様の御慈悲にすがって祈願すれば何事にも成就する霊験あらたかな観音様として現在も信仰されているということです。
この絶壁の上の自然石に線彫りしたこの観音像は秘仏で、現在は、回りの岩盤が砕け落ちているために立ち入り禁止ですが、正面の本堂から参拝するようになっています。(尚、「山州名跡志」は、この像について、元々川岸にあって、自然石に仏像を刻んだもので地元の者は「観音石」と称しているが、実際は阿弥陀仏であると記しています。)
その後、昭和の初め頃、八瀬村の人々が発願して、この千束ヶ崖に寺を起こそうとしていたところ、昭和八年(1933)の秋彼岸中日に、開山善湧上人が、たまたま大原の里での托鉢行却から帰る途中、この村に立ち寄って村の長老達十数名と話しをする内に、長老達の希望を聞き入れて寺の創建を決意します。そして、この山に住居を定め山の岩盤を砕いて今日の寺域とし、源義朝が鏃で線刻した観音菩薩尊像を本尊としました。そして、終戦直後の昭和二十一年(1946)三月に歴代天皇御菩提所である真言宗泉涌寺派に属して現在に至るということです。
本堂、庫裏等の並ぶ狭い境内には、当山鎮守の碊大龍王、碊大辨財天女 水子地蔵尊の諸堂があり、他に白狐大岩 稲荷大神も祀られているということです。 年中行事としては、一月十八日の初観音・諸願成就護焚、毎月十八日の観音様護摩焚祈願法要、二月三日の節分星まつり(おでんを頒布)、三月春季彼岸法要、八月 のお盆施餓鬼法要・墓回向(そうめん流し供養)、九月の秋季彼岸法要・墓回向があります。
尚、最後の写真三枚は、「義朝駒飛石」と「甲ヶ淵」停留所付近の八瀬川(高野川の八瀬流域)になります。
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