京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市伏見区久我石原町・・桂川に架かる桂川橋(名神高速道路橋梁)西詰に位置するのが、菱妻神社(ひしづまじんじゃ)です。
一の鳥居と境内の間(境内から数十メートル南)には、名神高速道路が頭上を走っています・・このやや落ち着かない環境にある神社ですが、それ程広くない境内は緑に囲まれて、静かで趣があります。
(尚、同名の神社が、直線で約八百メートル北の南区久世築山町にあります。久我(こが)と久世(くぜ)と読みは違いますが、漢字が似ていて、神社名が同じということで、訪問の際は要注意)


さて、菱妻神社の祭神は、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)です。

神社の創建は、平安時代後期の第七十四代鳥羽天皇の永久元年(1113)二月、現在の久我地域を代々領有した久我家の祖になる右大臣源雅実(みなもとのまさざね 1058〜1127)が、奈良の春日大明神から藤原氏の祖神・天児屋根命を勧請し、村上源氏の守護神として火止津目大明神(鎮火の神)として崇め祀ったことに始まると伝えられます。
鎮座当時は広大な社領地があったということですが、桂川の大洪水に犯され縮小したと伝えられ、また、久寿元年(1154)に、菱妻大明神に改めています。以来、藤原氏や源氏の氏神であると共に、火止津目の名のごとく火災等災いを鎮め平和をもたらす神として、久我の卿の鎮守の社、久我郷の郷人達の平和と幸福を守護する鎮守の神として崇敬され、また学問文筆上達の御神徳の高い神としても有名だったということです。また、神社の案内板によると、当時、創建当時、華やかな御遷宮が行われたことは、「千種の花を手につみいれて 御所へまいらせ 御所へまいらせ」と囃された当時の古歌からも偲ばれるということです。


神社の祭事の中で、特に五月に行われる神社の氏子祭の起源は古く、室町時代の十五世紀には、ほぼ現在の形で行われていたと考えられています。また、中世には競馬、猿楽、田楽等も行われていたということです。
氏子祭では、神幸祭を「御出(おいで)」といい、かつては夜に行われ、久我村中の者が、鉢巻きにたすき掛けで、「せじゃろや(先女郎)、せじゃろや」と囃し、また、先女郎という女の子が供したということです。また、還幸祭は「千種祭(ちくさまつり)」といい、かつては牛車の供もあり、牛車は青・黄・赤・白・紫の五色の紙で作った造花で飾られ、男の子が乗って囃し言葉を歌ったということです。そして、現在も、千種祭には牛車が飾られ、神輿渡御も行われるということです。


本殿周辺には、村上源氏の祖・具平親王(ともひらしんのう たいのしんのう)を祀る具平宮をはじめ、八幡宮、住吉神社、粟島神社、虫八幡宮、稲荷神社といった多くの末社が点在し、また、参道脇には 平成12年(2000)に解体されたものを移築した久我橋欄干が置かれ、昭和五十年(1975)に度重なる桂川の豪雨災害を抑える重力式低堰堤が完成したことを記念する久我堰災害復旧工事竣工記念碑があります。また、緑豊かな境内にある大きなクスノキ、エノキは伏見区の区民の誇りの木に選ばれています。

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一般観光ガイドには、ほとんど登場しない京都市伏見区西部の久我(こが)や羽束師(はつかし)地域ですが、一見に値する注目すべき神社が幾つかあることで神社通には知られています。

まず、久我には、久我神社(久我森の宮町)や菱妻神社(久我石原町)があり、羽束師には、羽束師坐高御産日神社(羽束師神社)があります。これらに比べると、本殿が新しく魅力という点では劣るかもしれませんが、今回の神川神社も平安時代以前にも遡る古社と伝えられています。
また、これらの神社に共通するのが、周辺環境が良く緑が豊かなこと、また、割拝殿(中央を吹き抜けにして土間とし通り抜けられるようにしています。(私も訪れたことがある大阪府堺市泉北の桜井神社の拝殿(国宝)がよく知られます。)が取り入れられていることです。割拝殿は、京都市内では珍しく、周辺地域の神社に見られることから、この地域が歴史文化的に長岡京等と関連が深かったことを窺わせます。



さて、神川神社(かみかわじんじゃ 羽束師鴨川町)は、「京都府道123号水垂上桂線」と呼ばれる上桂から淀へ抜ける狭い道路に面する神川小学校と田畑の間に静かに佇んでいる小さな神社です。
祭神は、本殿に、煮底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)、上津少童命(うわつわたつみのみこと)を祀ります。

神川神社は、延喜式神名帳の山城国乙訓郡鎮座十九座(大五座、小十四座)に数えられる式内社で、古くは神川座住吉神社と称したと伝えられます。
江戸時代の文政年間(1818〜1829)の当社神主・古川為猛(羽束師神社の神官としても知られます)が記した「住吉社之略記」によると、羽束師東部周辺は、鴨川と桂川の合流地点の西岸でもあるため、度々川が氾濫して湿地帯化し、また難破船があったことから、水運交通の守護神として摂津の住吉社の御神霊を勧請したものと伝えられています。また、延暦三年(784)の長岡京の造営の際は、勅令によって大祓の神事を行ったとも伝えられます。以来、神川周辺地域の産土神として崇敬され、明治六年(1873)に村社に列し、明治十年(1877)に神川神社と改称しました。
その後、昭和五十七年(1982)六月十一日に不測の火災により本殿が焼失し、神殿造営について幾度も協議の末、浄財寄進を募って昭和五十八年(1983)十月中旬にコンクリート造の本殿が竣工、同月二十四日に遷座祭を厳修し復興しました。

さて、木立に囲まれた参道を進んで、割拝殿を抜けると、少し寂しい印象の境内が広がり、コンクリート造の本殿があります。木造本殿の焼失は残念ですが、由緒ある古社が存続できたことは幸いというべきでしょうか。また、末社として、天照大神(あまてらすおおかみ)を祀る大宮社と稲荷社があり、境内のエノキの木が区民の誇りの木に選ばれています。

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京都市伏見区西部の久我(こが)や羽束師(はつかし)は、有名史跡も少なく、鉄道網の空白地帯でもあるため、京都観光ガイド等ではほとんど採り上げられることの無い地域です。(アクセスは、向日市や長岡京市側からJRや阪急の最寄り駅・・JR(向日町・長岡京駅)や阪急電鉄(西向日・長岡天神駅)から路線バス、または、伏見区の京阪中書島から路線バスを利用しなければなりません)

今回は、この伏見区久我本町にある誕生寺(たんじょうじ)を採り上げました。
誕生寺は、道元禅師の生誕地を顕彰するために大正時代に創建、昭和になって完成した新しい寺院で、京阪国道1号線の赤池交差点の西、桂川に架かる久我橋の南袂に位置しています。



さて、鎌倉新仏教の六開祖(法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮)の中で、京都で誕生したのは親鸞と道元の二人です。親鸞は山城国宇治郡日野 (京都市伏見区日野)を根拠地とする藤原北家の流れを汲む日野氏の出身で、現在も伏見区の日野地域には、法界寺や日野誕生院(共にブログパート1に採り上げました)といった日野氏や親鸞ゆかりの史跡が残されています。

一方の道元ですが、幼少期については不明な点も多いですが、通説では、正治二年(1200)、村上天皇の孫・源師房を祖とする村上源氏の出身で、鎌倉初期の政治家として辣腕を振るった内大臣久我通親(こがみちちか 源通親、土御門通親)の子として誕生したと伝わります。また、母は摂政関白藤原基房(ふじわらのもとふさ 松殿基房)の娘、藤原伊子(ふじわらのいし 冬姫)です。
(尚、この伊子は、平家政権の下で不遇だった父基房に政治的に利用され、上洛してきた木曽義仲(源義仲)の正室とされてその寵愛を受け、義仲の戦死後は、再び政略結婚で久我通親の側室となりました。)

さて、道元禅師は、三歳の時に父を、また八歳で母を失って、異母兄の大納言堀川通具(ほりかわみちとも 久我通具)に養育されたとされます。(現在は、この堀川通具の実子説等があります)
また、生誕地についても諸説あり、一つは、藤原道長等歴代藤原氏の埋葬地として知られる宇治市木幡(現在、宇治陵があります)にあった、道元の母方の祖父とされる摂政関白藤原基房(松殿基房)の別邸、木幡山荘(現在、松殿山荘が建てられています)とされます。
これは、少年道元が木幡山荘から叡山へ赴いたという伝承(伝光録等)から推測されたもので、誕生地であるという明確な証拠があるという訳ではありません。

もう一説は、今回の誕生寺のある久我(こが)の地とされます。
久我は、かつては久我の庄と呼ばれ、道元の父・久我通親(源通親)の所領で、その別邸(久我水閣)がありました。こちらも、道元がこの地で誕生し、父の死まで過した可能性が高いということに過ぎませんが、道元禅師ゆかりの久我水閣の旧地を顕彰して誕生寺が建てられています。
(尚、親鸞ゆかりの日野と道元ゆかりの久我は、京都市伏見区の東端西端に位置しますが、伏見区という広い区域の歴史的な奥深さを感じさせます)



さて、 誕生寺は、山号を妙覚山という曹洞宗寺院です。
大正五年(1916)、当時の曹洞宗大本山永平寺の第六十六世・日置黙仙(ひおきもくせん 1847〜1920)禅師は、明治維新で東京に移り住んだ久我家当主の侯爵久我通久(こがみちつね 1842〜1925)から、この地が久我家別邸・久我水閣旧地であることを聞いて、共に久我の地の歴史を調査しました。この結果、この地こそ道元禅師の誕生地であると合議一致し、その顕彰のための寺院の建立を発願しました。
そして、田村一郎、浅野総一郎、御木本幸吉等の政財界や宗門寺院の協力を得て、大正七年(1918)に地鎮祭を修し、越前(福井県)武生小松の郷(現福井県越前市小松町)にある道元ゆかりの妙覚寺の寺号と共に、寺に安置された道元禅師の自作と伝えられる禅師尊像をこの地に移して翌八年(1919)に、誕生山妙覚寺として創建、翌九年(1920)五月に仮本堂に入仏遷座の式が行われました。

しかし、同年九月二日、日置黙仙禅師が新潟県養広寺の戒場で七十四歳で遷化したために、その後の計画は頓挫したまま昭和五十年代に至りました。その間、昭和十六年(1941)に、妙覚山誕生寺と改称し、また、豊川稲荷を勧請奉安して寺の復興を祈願しています。
そして、道元禅師の生誕八百年(平成十二年(2000))を迎えるに際し、再び復興計画が進み、本山初め全国の信者等の寄付により、昭和五十七年(1982)から十六年間をかけて本堂、稲荷堂(豊川稲荷)、山門、庫裏、座禅堂、鐘楼堂、供養塔といった全堂宇の新築完成と境内整備を行い現在に至ります。


さて、「高祖道元禅師」と記された赤い大きな提灯のある山門を潜ると、広い空間に新しい本堂、稲荷堂等の諸堂が立ち並び、道元禅師幼少像、慈母観音造像、仏足石等が安置されています。また、本堂の西には「道元禅師産湯之井戸」があり、山門前には、鐘楼や区民の誇りの木に選ばれたイチョウがあります。また、新しい五輪石塔と宝篋印塔は、禅師の両親(久我通親と母伊子)の恩に感謝するために平成九年(1997)に建造されたもので、特に母の供養塔(宝篋印塔)は、久我の地に伝わっている宝篋印塔(古くから久我では「鶴の塔」と呼んできました)」を模したものです。

宝篋印塔は、中国の五代十国時代(907〜960)の呉越国の最後の国王・銭弘俶(在位948〜978)が造った「金塗塔」の形式を模して、鎌倉時代中期から後期に建立されたものといわれますが、久我の地では、誕生寺の南にある日蓮宗・妙真寺(久我東町)境内に、道元禅師建立という伝承のある日本最古という美しい石造の宝篋印塔が安置されていました。そして、この宝篋印塔は、現在、実業家北村謹次郎(1904〜1991)の収集品を集めた私立美術館の北村美術館(京都市上京区河原町今出川下ル一筋目東入ル梶井町 特別公開のみ)の庭園に安置され、国の重要文化財に指定されています。

この塔は、元々、久我村の仏光寺という寺院にあり、道元禅師の祖父・久我雅通(1118〜1175)の塔、禅師の母の塔とも伝えられ、久我家の先祖累代の菩提を弔うために建立されたものと考えられています。
このような由来から、誕生寺では、この新しい宝篋印塔建立の際、久我伝来の「鶴の塔」を原寸復元しました・・梵字は風雨に晒されて摩滅して模写出来ませんでしたが、その他は当初造られたままの姿に再現されているということです。尚、大正時代に、日置黙仙禅師が道元禅師の両親に授与した、「桂川院源底通親大禅定門」、「鶴夢院妙覚則心大禅定尼」という戒名が両塔(五輪石塔と宝篋印塔)に刻まれています。

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