京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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前回の元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)に隣接する日吉神社(ひよしじんじゃ)も写真を増やして再掲載します。

京都市左京区浄土寺真如町にある日吉神社は、同区域にある紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の守護神で、真如堂地区の産土神になります。
祭神は、日吉山王(ひよしさんのう)、十禅師大明神(じゅうぜんしだいみょうじん)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。祭神の十禅師が地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とされるように、元々明治初期の神仏分離令までは、隣接する元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)境内で神仏一体化して祀られ、御神体で社宝の一木造木像地蔵菩薩立像(平安時代末期)はかつての神仏混交時代の名残といえます。


さて、平安時代中期の正暦五年(994)、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))が、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、自身の離宮を改めて寺院とし、真如堂(真正極楽寺)を創建しましたが、この際、同じく比叡山の守護神、日吉神を山王権現としてこの地に勧請したのが日吉神社の始まりと伝えられ、鎌倉時代には地域の鎮守神として崇敬されました。

その後、真如堂は応仁の乱で荒廃し 各地を転々としますが、この神社は永くこの地に祀られ吉田神社の吉田家とも協力しながら神事を維持していたようです。 元禄六年(1693)に、現在の真如堂が再興されると、日吉神社も産土神として広く信仰を集めたと伝わり、現在も、日吉(日々吉の暮らし)の神猿(まさる=魔が去る)として地域の氏神として信仰され、特に、家や土地、身体にふりかかるあらゆる厄魔を払い去る御神徳で知られているということです。
また、一見、境内に末社が見当たらないように思われますが、実は、石段上に鎮座する本殿の脇に小さな稲荷神社が祀られています。

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今回は、以前にブログパート1に少しだけ掲載した元真如堂(もとしんにょどう)の写真を増やして再掲載します。

紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の東北にある小さなお寺が、真如堂の境外塔頭、元真如堂(もとしんにょどう 左京区浄土寺真如町)です。「元真如堂」という名前のように、この場所は真如堂の創建時の旧地になります。また、元真如堂は、正式には「東向山蓮華院換骨堂」といい、この「換骨堂(かんこつどう)」という正式名称の方が地元では有名です。また、尼寺三十六ヶ所霊場の第二十四番でもあります。


さて、平安時代中期、この神楽岡(吉田山)には、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))の御所がありましたが、正暦三年(992)、女院が夢のお告げを受けて、院内に比叡山常行堂に安置されていた阿弥陀如来像を移し、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、同五年(994)に真如堂を建立しました。(真如堂の歴史については、またの機会とします)
以後、真如堂は長くこの地にありましたが、応仁の乱の兵火で荒廃し、後幾度か移転をした末に、元禄六年(1693)に現在の真如堂のある地(元の位置から西南)に再建され今日に至ります。

一方、創建の地には、念仏堂と呼ばれた小堂宇が残されていましたが、その後、天保元年(1830)の地震により念仏堂は一時荒廃します。しかし、同十三年(1842)、尼僧黙旨(もくじ)が尼衆の願いに応じて尼僧寺院として再興し、以後永代尼僧の住職を許されたと伝えられます。
また、「換骨堂(かんこつどう)」という別称の由来としては、寺を再興した黙旨尼の遺稿「重興記」に、「法界の群生同じく当下に換骨の霊方を証得し、一超直人、弥陀の本願を達せしめんと欲して、換骨堂と号せしもの」と記されているということです。尚、現在の境内の様子を、元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」の図会と比較してみると、それ程大きな変化は無いようです。


さて、刈り込みの間の小さな山門を入ると、正面に本堂(念仏堂)があり、その右手の小さな庭には花木が植えられていて尼寺らしい風情を感じます。
左手には「如柳庵」という茶室があり、その傍には、石仏や石塔等が置かれています。
そして、さらに左に進むと、隣接する日吉神社の境内に出ますが、その手前に、真如堂を建立した後、長保三年(1001)に亡くなった東三條院の供養塔と伝わる五輪塔があり、蓮華ヶ岡の不動尊と呼ばれる石不動を祀る祠があります。また、真如堂の開山、戒算上人が蓮華童子の教示を受けて掘ったと伝えられる閼伽井(あかい)があり、蓮華童子に因んで「蓮華水(れんげすい)」と呼ばれています。

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京都市左京区上高野(かみたかの)という地域は、高野川の上流を意味し、八瀬(やせ)の南に接する地域です。
この地域の観光寺院としては、名庭で知られる蓮華寺(上高野八幡町)が有名で、また、瑠璃光院(上高野東山町)も紅葉時期に特別公開されています。
神社では、崇導神社(上高野西明寺山町)や三宅八幡宮(左京区上高野三宅町)は地域を代表する神社で、他に御蔭神社(上高野東山町)、三明院(上高野西明寺山町)、栖賢寺(上高野水車町)等々もブログ(パート1&パート2)に採り上げてきました。

今回採り上げた宝幢寺(ほうどうじ ほうとうじ)は、観光寺院ではありませんが、上高野南部を代表する寺院で、京都市登録無形民俗文化財に登録されている「上高野念仏供養踊」が境内で行われることでも知られています。


さて、上高野の、高野川を挟んで北側は、鄙びた里の風情が残っていて散策が楽しめる地域ですが、川の南側一帯から修学院地域にかけては完全に新興住宅地化しています。宝幢寺(京都市左京区上高野釜土町)は、この一戸建てが建ち並ぶ迷路のような住宅地内にあるために、少し見つけ難い寺院ですが、境内の東側の竹林と南側にある京都市有地の山林が寺の目印になっています。

宝幢寺は、山号を霊芝山という、永観堂を本山とする浄土宗西山禅林寺派に属する寺院です。
江戸時代の寛永年間(1624〜44 寛永十一年(1634)とも)、旭移(きょくい)上人が創建したと伝えられます。本尊の阿弥陀如来像は、信濃の善光寺の本尊を模したものと伝えられ、「相好貴奇(そうごうきき)」な魅力ある仏像として知られ、多くの仏師達が寺を訪れて如来像の御顔を拝し、製作の際の手本としたということです。
境内には、山門脇の毘沙門天石像や阿弥陀如来石仏、仏足石、「夢想の滝」等がありますが、特に、「夢想の滝」は、開山の旭移上人が、滝の音に観音経読経の響きを感じて、この地に草庵を結んだといわれる古い滝で、かつては、滝上には観音菩薩像が祀られていたと伝えられます。


寺は、今も地域の人々の信仰の場として親しまれていますが、特に八月十九日の夜、境内で行われる「上高野念仏供養踊(かみたかのねんぶつくようおどり)」が有名で、この踊りは京都市登録無形民俗文化財に登録されていいます。
「上高野念仏供養踊」は、平安時代以来、この洛北上高野に伝承されてきたと伝えられる念仏踊りですが(かつて、称名寺(廃寺)という寺院の境内で行われていたといわれます)、大正末期に中断してしまいました。その後、昭和六十三年(1988)に復活され、上高野念仏供養踊保存会によって維持管理されています。八月十九日の夜の宝幢寺境内では、三幅前垂、赤の襷、白足袋、赤緒草履という揃いの浴衣姿の女性踊り手が、右手に団扇を持って念仏を唱えながら、鉦や太鼓の囃子で円となって踊る姿を見ることができます。

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今回は、京都市伏見区羽束師を代表する神社として、羽束師神社(はつかしじんじゃ 羽束師坐高産日神社)を採り上げます。
京都在住の方なら、羽束師という地名を知らなくても、京都府運転免許試験場がある地域といえば、ほとんどの人がご存知かと思います。羽束師神社は、運転免許試験場から直線で約六百メートル北、西羽束師川に沿った所にある神社で、遠くからでも鎮守の森が望まれ、地域のシンボルとして広く親まれています。それ程広い社域ではありませんが、京都市内でも最古の神社の一つとされ、歴史的にも注目すべき神社です。


さて、京都市伏見区羽束師志水町にある羽束師神社は、正式には、「羽束師坐高産日神社(はづかしにますたかみむすひじんじゃ)」といい、主祭神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)相殿に神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀ります。

神社の由緒書を引用しながら書いてみると、この両神は、天地開闢の際、高天原に現れて万物を造化したという三神の内の二神(他は天御中主神)であり、神名の「産霊(むすひ)」とは、万物の生産、生成を意味する言葉で、その成長する力を霊力とすることから、生産向上や諸縁むすび、安産の御利益があるとされます。
また、高皇産霊神は、別に高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれるように、御神木(元々、神の宿る高木=御神木を神格化したものと考えられます)や神籬(ひもろぎ)との関係が深い神だったようです。
(特定の場所に社殿が建立される以前の古代の神道では、祭事の際には、巨木(御神木)の周囲に注連縄や玉垣で囲った聖地となる場所(神籬)を造り、そこに神の降臨を招いて祭祀を行いました)

その後、特に農耕神(田の神)として信仰され、その降臨を仰ぐ様々な祭礼行事に関わりのある天神とされます。そして、五穀豊穣を祈願する人々の間に稲霊(いなだま)を崇める「産霊(むすひ)」信仰が育まれ、収穫時期に新穀を神と共に新嘗(しんじょう)する農耕行事は、その最も重要な祭儀となりました。こうして、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀る「産霊(むすひ)」信仰が発展して、弥生時代から現在まで様々な文化を融合しながら新嘗祭(しんじょうさい にいなめさい)となり、勤労感謝の日として現在まで伝承されているということです。

また、高皇産霊神は、皇室や朝廷にとって最も重要な神の一つとして宮中の神祇官西院に設けられた八神殿に祀られましたが(天照大神(あまてらすおおみかみ)が皇祖神とされる以前は、この高皇産霊神が天皇家の祖神だったという説もあります。)、この祭神を祀る神社は「延喜式神名帳」記載の古社中で数社、京都では宮中を除いて羽束師神社のみになります。



さて、桂川や旧小畑川等の諸河川が合流する羽束師周辺地域は、かつては乙訓郡羽束郷と称され、長岡京の都の東端に位置し、水上交通の要地、農耕地として古くから栄えた地域でした。
また、良質の泥土も採取されることから、土器や瓦の製作、石灰の加熱精製等も行われました・・元々、「羽束師(はつかし)」とは、土や泥を意味し、「泊橿部」「泥部」「埿部」(はつかしべ、はせつかべ、ひじべ等と読みます)等と称した瓦や土器等の製作に携わった品部(職業集団)と関係が深い地名と考えられています。

「日本書紀」には、垂仁天皇三十九年冬十月、「(中略)是時楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。并十箇品部賜五十瓊敷皇子。(・・この時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部等合わせて十箇の品部(とものみやっこ)を五十瓊敷皇子(いにしきのみこと)に賜う)」と記載され、また、「令集解」の職員令には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」と記されていますが、古代から羽束師地域には、「はつかし」と称する職業集団が居住し、長岡京の建造の際にも瓦等の製作に携わったと推測されます。実際、平成の発掘調査によって、神社の西方の長岡京の左京・四条四坊に当る旧址から、祈願の際に献上される土馬が発掘されていますが、これもこの地域の陶工集団が作ったものと思われます。そして、羽束師神社は、元々、この地の羽束氏がその祖神を祀った神社ではないかとも考えられています。


次に、羽束師神社に関する文献上の記録です・・

文政年間(1818〜29)の当社神主古川為猛の「羽束師社舊記」によると、羽束師神社は、古代の雄略天皇二十一年丁己(477)の創建と伝えられ、その後、天智天皇四年(665)に勅命によって中臣鎌足が再建、延暦三年(784)長岡京遷都の際にも再建されたと記します。
また、「続日本紀」大宝元年(701)四月三日条に「勅。山背国葛野郡月読神。樺井神。木島神。波都賀志神等神稲。自今以後。給中臣氏。(勅により月読神、樺井神、木島神、波都賀志神等の神稲は今より以後中臣氏に給へ)」とあり、この「波都賀志神」が、羽束師神社についての最古の記録になり、少なくとも大宝元年以前に遡る古社と考えられます。
この「続日本紀」の記載は、羽束師神社等四社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示していますが、中臣鎌足が再建したという伝承と合わせて、この神社と中臣氏との関係の深さが伺われます。また、「羽束師社舊記」は、大同三年(808)に、斎部広成(いんべひろなり)の奏聞によって摂社十一社を勧請したと記しています。

その後、「日本三代実録」貞観元年(859)九月八日庚申条に、「山城国月読神。木島神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神。大和国大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。広瀬神。竜田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。当麻山口神。大坂山口神。胆駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。河内国枚岡神。恩智神。和泉国大鳥神。摂津国住吉神。大依羅神。難波大社神。広田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。名次神等遣使奉幣。為風雨祈焉。」と記されるように、平安時代には祈雨の神として京都周辺の畿内四十四神の一つとして崇敬され、潤雨や風鎮(大風を鎮める)の臨時祭が行われています。
また、延長五年(927)の「延喜式神名帳」では、山城国乙訓郡十九座(大社五座、小社十四座)として式内大社に列せられ、月次祭・新嘗祭の幣に預かりました(大。月次新甞 山城国筆頭に掲載)

その後、中世から近世にかけては、羽束師周辺地域の産土神として崇敬を集め、「都鄙祭事記」には、「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」と記されていて、羽束師だけでなく、久世の南の久我方面一帯までの広い氏子区域を有していたようです。
また、「大乗院寺社雑事記」の文明十四年(1482)九月一日条には、「八月二十七日二十八日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職として盛大な神事能を演じたこと等が記され、当時の神社の隆盛や羽束石祭の賑わいが伺われます。その後、明治六年(1873)に村社、明治十五年(1882)に郷社に列しています。



さて、一の鳥居から住宅地にある参道を進むと、こんもりとした鎮守の森に突き当たります。二の鳥居の先には入母屋造の割拝殿があり、その先に神明造の本殿がありますが、これらの建物は、幕末の嘉永三年(1850)の再建です。他に、境内の右手には神輿舎や社務所が建ち並んでいます。
本殿の左右には、天照大神を祀る天照大神杜をはじめ、八幡社、春日神社、大神社、子守勝手社、貴船社、西宮社、巌島社、稲荷社、愛宕社、若王子社の十一の境内社が祀られていますが、これらは、前述したように、平城天皇の大同三年(808)、当時、諸国騒擾が多かったことを憂いて安穏を祈願するために、斎部広成(いんべひろなり)の奏聞によって造営勧請した十一社ということです。また、他に羽束師稲荷神社等が祀られています。

さらに、境外社として、一の鳥居の東には、北向見返天満宮(京都市伏見区羽束師古川町)があります。延喜元年(901)、菅原道真公の太宰府左遷の際、菅公は当社に参拝して、都のある北を向いて「君臣再び縁を結び給え」と祈念した上、「捨てられて思ふおもひのしげるをや 身をはづかしの社といふらん」という歌を詠じたとされ、このゆかりの地に菅公の遺徳を慕い奉祀されたものです。

神社の境内は、古来「羽束師の杜(森)」と呼ばれる豊かな鎮守の森で、古歌に詠まれ親しまれてきました。現在は森の面積は縮小したと考えられますが、近年、周辺環境が都市化により激変している中で、京都市内最古といわれる神社とその森の価値はたいへん高いということで、境内全域が京都市指定登録文化財の史跡に指定されています。また、境内のクスノキは区民の誇りの木に選ばれています。


他に、境内には、「治水頌功之碑」や「羽束師川」の石標がありますが、これらは、江戸時代の羽束師神社の神官古川吉左衛門為猛に関する石碑で、古川為猛は、羽束師地域の発展に努めた人物です。

古来、羽束師の地は農耕が盛んでしたが、桂川右岸には低湿地帯が広がり、度重なる川の氾濫に住民は苦しめられました。そこで、江戸時代の文化八年(1811)、土地の住民達の組合組織が中心となって治水工事が行われました。工事は費用面等の苦労からなかなか完成しませんでしたが、当時の羽束師神社の神官古川吉左衛門為猛の努力によって、十七年の歳月を経て文政八年(1825)、現在の久我から古川、樋爪、水垂、大下津、山崎を経て桂川に注ぐ、本支流合わせて総延長十二キロの人工水路「羽束師川」が完成しました。この運河の完成により、周辺は水害から免れ、荒廃した土地は耕地へと変化し現在の地域の発展に繋がりました。

昭和五十年(1975)五月に建てられた「治水頌功之碑」は、この羽束師川の堀削工事に尽くした古川為猛の功績を顕彰する石碑です。為猛は水害に苦しむ地域を憂いて、私財を投入して羽束師川の堀削工事を計画し、十数年の苦心の末にようやく完成させます。為猛は天保七年(1836)に六十七才で死去しますが、その功業を評価されて昭和三年(1928)に従五位を追贈されています。そして、昭和六年(1931)に、頌功の碑が建立されますが、この石碑が盗難に遭ったため、これを復元したのが現在の石碑ということです。

また、「羽束師川」と刻まれた石標があります。こちらも、古川為猛の功績を称えるもので、工事は官府の力ではなく、神明の加護を祈って心身を傾け、私財を投じて地域開発の素志を貫いた古川為猛翁の独力によって成し得た事業であるとし、文政八年(1825)羽束師神社の名をとって羽束師川と命名された際、古川翁の偉業を後世に伝えるために、久我綴道四ッ辻に道標が建立されたものを、由縁の深い羽束師神社境内に移し建てたものということです。

最後に、羽束師神社の年中行事としては、五月中旬の羽束師祭(羽束師の舞・こども神輿)、十月中旬の例祭(舞楽奉納)等が知られています。

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京都市伏見区の久我・羽束師地域は、古くから農業が盛んで、昭和の半ばまでは、田畑の中にぽっかりと浮かんだ久我神社や神川神社、菱妻神社、羽束師神社等の大きな鎮守の森が遠くからでも見ることが出来る長閑な田園地域だったようです。しかし、現在は宅地化が進んで人口も増え、小中学校や病院等も新設されて周辺環境は激変しました。特に、「京都府道123号水垂上桂線」と呼ばれる上桂から淀へ抜ける道路の西側には、一戸建ての数百もの新興住宅が次々と建ち並ぶようになりました。
今回の久我神社(こがじんじゃ)は、そんな住宅街に囲まれた小さな神社ですが、神社の鎮守の森の周辺のみは、今も独特の静けさが漂っていて、古代からの地域の歴史を感じさせてくれる気がします。


さて、京都市伏見区久我森の宮町にある久我神社(こがじんじゃ)は、祭神として、別雷神(わけいかづちのかみ)・建角身命(たけつぬみのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の三柱を祀ります・・・これらの祭神は、賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一(別雷神は上賀茂神社、建角身命と玉依比売命が下鴨神社の祭神)になります。

社伝によると、久我神社の創建は、八世紀の末、平安京遷都に先立って、桓武天皇が山城長岡京に遷都した延暦三年(784)頃、王城の艮角(うしとらのすみ 北東)の守護神として、この地に鎮座されたと伝わり、延喜式の神名帳では「久何神社」と記され、乙訓郡十九座(大五座、小十四座)に数えられる京都市内でも最古の神社の一つといわれています。また、祭神が賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一であることから、江戸時代には、鴨森大明神、また森大明神とも呼ばれていたと伝えられます。そして、なぜ、賀茂氏の祖神が祀られているのかという疑問点から、以下のような興味深い説があります・・


まず、一説によると、久我神社は、元々、古代に山背久我国造として北山城一帯に勢力を持っていた久我氏の祖神、興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ 「三代実録」に記載され、この祭神を祀る神社が、現在の久我神社ではないかと推定されます)を祀った神社でしたが、久我氏の衰退後に賀茂氏がこれに代わってその祖神を祀ったのではないかということです。


また、「山城国風土記」逸文から、当社は、平安・長岡京遷都以前に遡る古社で、賀茂社の前身ではないかという説もあります。(以下に、「山城国風土記」逸文を読み下し文に改めて、掲載してみます。)

賀茂御祖神社(下鴨神社)について記す中で、
「加茂の社 可茂と称ふは、日向の曽の峰に天降り坐しし神、賀茂の建の角身の命、神倭石余比古の御前に立ち坐して、宿りて大倭の葛木の山の峰に坐しき。彼より漸遷りたまひて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代の河の随に下り坐して、葛野の河と賀茂の河との会へる所に至り坐し、賀茂の川を見廻らして言りたまはく「狭小くあれど、石川の清川にあり」とのりたまふ。仍ち名けて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。

賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女を娶きて生みませる子、玉依日子と名く。次、玉依日売と曰ふ。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。

人と成りて、外祖父建の角身の命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて七日七夜楽遊したまひて、さて子と語らひて言ひたまはく「汝の父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ」といふ。即ち、酒圷を挙げて天に向きて祭らむとして、屋の甍を分き穿ち天に昇りたまひき。乃ち外祖父の名に因りて、可茂の別雷の命と号く。謂ゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火の雷の命なり。賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日売と玉依日売との三柱の神は、蓼倉の里なる三井の社に坐せり。」とあります・・


文中、「彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。(その川からお上りになられて、久我の国の北の山麓に住居を定められた。その時から賀茂というのである)」とありますが、これは、賀茂氏族の祖神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、大和から木津川を経て久我の国に移り住んで、賀茂氏を称したと解釈できます。
この「久我の国」とは、古代の葛野、乙訓地方の古称とされ、通説では、賀茂川上流の西賀茂を指すとされ、西賀茂の大宮の森の鎮守社「久我神社(ブログパート1に掲載しています)」がこの伝承に因んで祀られています。

しかし、これとは別に、賀茂氏が移り住んだのは、「久我の国」の一部に相当する乙訓(現京都市伏見区)の久我であるとする伝承があり、賀茂氏が当地「久我国」に住居を構えて祖神を祀ったのが当社であり、その後、賀茂川を北上して現在の賀茂の地に鎮座したというのです。


また、同じく、「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。(玉依日売が、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時に、丹塗り矢(赤く塗った矢)が川上から流れてきた。そこで、それを持ち帰って家の寝床の近くに挿して置くと、とうとう身ごもって男の子を産んだ。)」という文に関連して、久我の里には、久我の西方(乙訓座火雷神)から、丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、 やがて当地で別雷神が生まれたという伝承もあるということです。鴨川と桂川の合流地点付近に鎮座するこの神社が、水運を通じて上流の賀茂社と何らかの関係があったのではないかとも想像させる伝承です。


以上のような伝承や諸説があるように、謎めいた歴史が興味深い久我神社ですが、夏でもほの暗い境内にもどこか神秘的な雰囲気が漂っています。この豊かな神社の森は、 かつては、多くの歌に「久我の杜(こがのもり)」として詠まれてきたと伝えられます。
また、江戸時代の記録から、神社には社僧がいたようで、「願応寺に住職社僧となり祭祀を司り寛永十年(一六三三)蓮住院松庵卒す」 と神社の旧記に記されているということです。その後、明治時代に村社に列格し、昭和四十四年(1969)に社務所が改築され、また昭和五十九年(1984) には、御鎮座千二百年を記念する祭事が盛大に行われています。そして、現在もこの久我の郷の人々をはじめ諸人の殖産興業、五穀豊穣、厄除方除、安産育児、平和安全の守護神として崇敬されているということです。


さて、静かな森に囲まれた割拝殿の先には、江戸時代に建てられた本殿があります。
京都市の掲示板によると、現在の本殿は、天明四年(1784)に再建されたもので、棟札から大工棟梁は小嶋弥惣太源久清という人物で、この弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎(きもいり)として造営に携わったことが判明しています。
この本殿は、三間社流造で切石積の基壇上に建っていて、身舎内部は内陣と外陣に分れています。妻飾(つまかざり)は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で、密集した葉を彫刻した笈形(おいがた)が付いていますが、この地域の建造物としては、妻飾等の彫刻がやや派手なことが特徴で、これは、播磨の大工(宗左衛門や利兵衛達)が造営に関与したためと考えられています。
また、造営棟札の他に、普請願書の控えや板製の建地割図等の造営に関する資料がよく保存されていて、建築年代や播磨の大工の関与も認められる比較的大きな社殿で、また保存状態も良好ということから、平成二十年(2008)四月に京都市の登録有形文化財に指定されています。

また、本殿の左右には、末社として春日神社、稻荷神社、八幡宮、天満宮、加藤清正を祀る清正社があり、鳥居の脇には天神立命(あめのかみたちのみこと)を祀る歯神社が祀られています。また、「お唐臼」という石臼が安置されています・・傍の石碑の文字は不鮮明ですが、かつて二丁先の久我神社御旅所の社殿建造の際、この石を持ち帰った者に神異(祟り)があったことから元に戻したと伝えられ、その後、川中に埋もれていたものをこの地に祀ったもののようです。また、境内のクスノキとクロガネモチが区民の誇りの木に選ばれています

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