京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回の地蔵院は、亀岡市西町の民家の間にあって少し見つけ難い小さな御堂ですが、亀岡市の案内掲示板を参照して書いてみます。

JR亀岡駅の東南、山陰街道の西町を過ぎて、北町に入ろうとする所で、「子安地蔵尊」の道標があります。そして、そこに「寛政九年(1797)四月如意山菩提寺住本明」と記されているように、この小さな地蔵堂は、元々は、山号を如意山、寺名を菩提寺という真言宗智積院の末寺だったようです。そして、祀られているこの地蔵菩薩像は、同寺の本尊だったと伝えられます。現在地は現在の町割では西町に属していますが、「北町の地蔵」として地元では親しまれてきたということです。

ここに祀られている地蔵菩薩坐像は、明智光秀による亀山城築城以前は、追分村(現追分町、現在地の東)に祀られていましたが、築城後に現在地に移されたということです。また、この蔵菩薩像は、老ノ坂に祀られている子安地蔵と同木・同作とも伝えられています。
古くから安産祈願成就の霊験あらたかな尊像として篤く信仰されてきたようで、その霊験については、亀山藩の儒臣の中島魚(雪楼)が寛政六年(1794)に著した「地蔵院霊像記」が額装されて堂前に掲げられているということですが、判読できませんでした。

御堂内部も暗くて確認できませんが、案内板によると、この地蔵菩薩は、大雨の時に水中から現れたという伝承があり、伽羅陀山地蔵尊(からださんじぞうそん)と呼ばれているということです。
そして、地蔵尊は、両腕を曲げて胸の前で、宝珠と錫杖を持ち、左足を踏み下げて蓮台の上に半跏した優美な姿で現され、平安時代後期の洗練された定朝様式の彫技から都風の像であることが一目でわかるということです。また、この像が左手に持っている宝珠の中に納められている宇賀神は、白蛇を神として祀ったもので、一切衆生に愛福を授け菩提に至らせるという福の神とされています。

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江戸時代の寛延元年(1748)から幕末まで、丹波亀山藩(現京都府亀岡市)は、八代に渡って形原松平家(かたはらまつだいらけ)が継承しましたが、今回はこの形原松平家ゆかりの寺院です。


さて、形原松平家(かたはらまつだいらけ)は、室町時代の三河の豪族、松平信光(後に徳川家康を登場させる松平宗家の第三代とされます)の四男・松平与副を祖とする松平氏の庶流で、当初、三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原)を領したことから形原松平家と呼ばれます。

その後、四代家広、五代家忠の時代に、宗家の徳川家康に仕えて功をあげ、その子の六代家信は、元和四年(1618)に、形原藩一万石の大名となり、その後、摂津国高槻藩二万石、下総国佐倉藩四万石へと移封しました。その後、佐倉藩を継承した七代の康信が、摂津国高槻藩を経て、慶安二年(1649)に、丹波篠山藩五万石の藩主となりました。その後、典信、信利、信庸(信利弟)を経て、信岑(丹波篠山藩形原松平家五代)が、享保の大飢饉で苦しむ領民に重税を課すという失政を行って、寛延元年(1748)に丹波亀山藩五万一千石に移封されます。以降、幕末まで丹波亀山は形原松平家が八代に渡って領有しました。


形原松平家藩主の菩提寺としては、亀山城跡の東にある光忠寺(京都府亀岡市古世町北古世町)が有名で、六代家信以降の歴代藩主の墓がありますが、今回採り上げた円通寺は、亀山城跡の西に位置し、藩主の奥方の菩提寺になります。(以下、亀岡市の案内掲示板を引用)

さて、円通寺(京都府亀岡市紺屋町)は、山号を華屋山という曹洞宗寺院です。
大永二年(1523)、勅諡法輝円明(ちょくしほうきえん)禅師、白洲巌龍(しらすがんりゅう)大和尚を開山として招請し、形原松平家の奥方の菩提寺として創建されました。(開基については、藩主の正室側室等々諸説あるようです。)創建当時は、まだ形原松平家は三河国(愛知県西部)の小豪族に過ぎませんでしたが、その後、徳川家康に使えて松平家が大名になると、藩主の菩提寺である光忠寺と共に、松平氏の国替えに伴って、三河国形原、摂津国高槻、下総国佐倉、摂津国高槻、丹波篠山、丹波亀山へと再三移転を繰り返しました。
寛延元年(1748)の丹波篠山からこの丹波亀山(亀岡市)への移転の際は、当初は本町の寿仙院(円通寺の東)のある場所に移されましたが、寛政元年(1789)に、穴太道の要衝である亀山城の西の現在地に移りました。


また、円通寺に伝わる形原松平家七代の康信(大安君)の念持仏であった達磨大師像には面白い逸話があるということです・・ある時江戸藩邸で火事が起こりましたが、この時、一生懸命に防火に励む人物があり、そのおかげで藩邸は類焼を逃れたということです。康信がその者に感謝して、褒美を使わそうと探しましたが見つかりませんでした。その後、康信が厚く信仰している念持仏の達磨大師像の衣の裾が少し焦げているのが見つかり、この達磨大師像が火災から守ってくれたということがわかり、その不思議な霊力に感動したということです。

(尚、円通寺は普段一般公開はしていませんので、参拝希望の方は事前にお寺に申し出てくださいということです。)

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丹波国亀山(現京都府亀岡市)は、戦国時代末期に、明智光秀が丹波亀山城を築城して以来、山陰と京都を結ぶ交通拠点として栄えた城下町でした。
そして、今も、JR亀岡駅前の亀山城跡の周辺には、城下町時代の歴史を伝える小さな史跡が点在しています・・今回の大圓寺(だいえんじ)もその一つになります。(以下、亀岡市の案内掲示板等参照)


さて、京都府亀岡市西町にある大圓寺(大円寺)は、正式には「鏡智山瑞雲院大圓寺」という浄土宗知恩院派の寺院で、本堂に本尊阿弥陀如来像を祀ります。

大圓寺(大円寺)は、天文二十二年(1254)九月、室町幕府の第十三代将軍・足利義輝の外護を受けた、専譽周公(専譽秀光 せんよしゅうこう)上人によって創建されました。
創建当初は、保津川の北(確かな所在地は不明)に建てられ、学問所としての性格を備えていたということです。その後、明智光秀が亀山城を中心とした城下町を形成するにあたり、城下の西、穴太道の要衝となる現在地に移されました。また、小早川秀秋が文禄四年(1595)に米弐石を寄進した五箇寺の一つでもあるということです。
その後、寛永二十年(1643)と元禄十二年(1699)の二回の火災に遭って焼失再建を繰り返し、現在の本堂や山門は、宝永七年(1710)に再建されたものです。


平成十二年(2000)に建てられた新しい薬師堂に祀られている薬師如来坐像(亀岡市指定文化財)は、関西地方では非常に珍しい鋳鉄製の仏像で、鎌倉時代(平安時代末期とも)の作と考えられ、定朝様式の表情も穏やかな仏様です。(因みに関東方面には鋳鉄製の仏像は数があるようです)

この鋳鉄薬師如来は、別名を「亀山薬師」と称し、古くから霊験あらたかなる尊像として知られ、元々は、亀岡(亀山)という地名の由来になる小山「亀山」(現亀山城天守閣付近)に祀られていましたが、その地に天守閣が築かれることになった為、一旦追分村に移され、その後大圓寺に移されたものと伝わります。薬師如来像の胎内からは室町時代の応永年中(1394〜1427)の墨書やさらに古い年代と思われる墨書きも見つかっているということです。
また、この薬師如来像と同范(同じ型)で造られたと思われる鉄仏が、京都市右京区山ノ内の念仏寺(通称、水子供養寺 ブログ掲載済み)と、ドイツのケルン東亜美術館に所蔵されているということです。

他に、本堂の左前には、亀岡樹木百二十選の一つに選ばれている「三鈷の松」があります(写真)
一本の松が根元から三本に別れて仏具の三鈷に似ていることから名付けられています。

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