|
先日、円通寺について書いた際に、寛延二年(1749)に丹波篠山藩から移封され、幕末まで八代に渡って丹波亀山藩を領有した形原松平家について触れましたが、今回は、元禄十五年(1702)に、遠江浜松藩から丹波亀山藩に移封されて三代に渡ってこの地を支配し、形原松平家と領地を交換する形で丹波篠山に移った青山家ゆかりの秋葉神社(あきばじんじゃ)です。(尚、亀岡市には幾つかの秋葉神社があるようですが、今回は、紺屋町にある秋葉神社(元秋葉神社)を採り上げました。)
ただ、丹波亀山藩の青山氏といっても、どうもイメージが湧きそうにありません・・そこで、この機会に、明智光秀が亀山城を築いたあたりから、少し近世の丹波亀山の歴代領主について確認してみます・・
戦国時代末期、亀山地域(現京都府亀岡市)では、波多野氏をはじめとする諸豪族が攻防を繰り返していましたが、天正五年(1577)に、織田信長が明智光秀を派遣して丹波攻略を進めました。そして、天正七年(1579)に波多野氏を滅ぼすことに成功した光秀は、信長から丹波一国を与えられました。
その後、天正十年(1582)に、本能寺の変を起こした光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に滅ぼされると、秀吉は、信長の四男で秀吉の養子となっていた、羽柴秀勝に丹波亀山を与えます。しかし、秀勝は天正十三年(1585)に病死し、秀吉の甥で同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)が代わって丹波に入ります。
その後、天正十八年(1590)に、秀勝の甲斐国転封によって、秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が、丹波亀山を与えられました。そして、文禄四年(1595)、小早川秀秋(前年に小早川家の養子となりました)が、隠居した養父隆景の九州北部の領地を継承すると、豊臣五奉行として知られる前田玄以が亀山五万石を領有しました・・こうして、近世丹波亀山藩は前田家によって始まりました。しかし、慶長七年(1602)に玄以が死去すると、藩を継承した子の茂勝は、丹波八上藩に移封され、僅か二年で丹波亀山藩は幕府の天領となりました。
その後、慶長十四年(1609)に譜代大名の岡部長盛が下総山崎藩から三万二千石で移封され(以後、幕末まで譜代大名が続きます)、再び丹波亀山藩が誕生しましたが、大阪の陣で功績を挙げた長盛は、慶長二十年(1615)に丹波福知山藩へ加増移封されます。
代わって、元和七年(1621)、三河西尾藩より大給松平家の松平成重が二万二千石で移封され、寛永十年(1633)の成重の死後は、二代忠昭が継承しますが、翌寛永十一年(1634)に豊後亀川藩に移封されます。
その後、近江膳所藩から菅沼定芳が四万一千石で移封され、寛永二十年(1643)の定芳の死去後は、二代定昭が継承しますが、慶安元年(1648)に定昭が若くして嗣子無く死去したことから改易となります。
代わって藤井松平家の松平忠晴が三万八千石で移封され、二代忠昭を経て、貞享三年(1686)三代忠周が武蔵岩槻藩へ移封されるまで続きます。
貞享三年(1686)、久世重之が備中庭瀬藩より五万石で移封されますが、元禄十年(1697)に三河吉田藩へ移封となり、美濃郡上藩より井上正岑が四万七千石で移封されますが、元禄十五年(1702)に、常陸下館藩へ移封されます。
さらに、遠江浜松藩から青山忠重が五万石で移封され、二代俊春を経て、三代忠朝が寛延二年(1749)に丹波篠山藩へ移封されるまで続きます。そして、代わって形原松平家の松平信岑が丹波篠山藩から五万石で移封されて来ると、その後は、信直、信道、信彰、信志、信豪、信義、信正の八代百二十三年に渡って形原松平家が亀山藩を継承し幕末に至りました。
さて、秋葉神社です・・(以下、亀岡市の案内掲示板参照)
元禄十五年(1702)、青山下野守忠重(あおよましもつけのかみただしげ)が、遠江浜松藩から、丹波亀山五万石の藩主として転封してきますが、着任の翌十六年(1703)四月十六日の夜半、亀山城下では火災が発生し、家屋の多くが被災しました。また、この火災の他にも貞享・元禄の頃には、人が集まって暮らしている城下町では、度々火災が発生していたようです。
新たに藩主となった青山忠重は、前任地の浜松で防火の神様として広く信仰されていた秋葉三尺坊を城下町の紺屋裏惣堀内側の穴太口に仮宮を建立して神霊を勧請し、城下の防火を願ったということです。これが今回の亀岡市紺屋町の秋葉神社の始まりとなります。
ここで、秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)についてです・・・
秋葉三尺坊とは、赤石山脈の最南端に位置する秋葉山(静岡県浜松市天竜区)の山頂に鎮座する火伏の神です。
明治の神仏分離令以降、多くの神社と寺院は創建当初から個別のものとしてきれいに分離、整理されてしまっていますが、実際は、仏教伝来以来、両者は密接に結び付き一体化して発展してきたことはよく知られています。現在の秋葉山にある秋葉神社(社伝等によると、和銅二年(709)頃の創祀と伝えられます)は、火之伽具土神(ひのかぐつちのかみ 火産霊神=ほむすぼのかみ)を祭神としていますが、これも明治以降に仏教的要素を取り除き神道系の祭神名に改めたもので、神仏分離令と廃仏毀釈以前は、秋葉山の山岳信仰を起源にして、信州出身の修験道の行者という説のある三尺坊をその没後に大権現として祀った秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)が祀られていました。
秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)は、観音菩薩が本地仏(日本の神々は諸仏の仮の姿という、仏を主、神を従とする神仏混交思想の理論付けとなった本地垂迹説に基づいて、秋葉三尺坊大権現の本来の姿は観音菩薩ということになります)で、秋葉山を境内地とする秋葉寺(しゅうようじ)境内にあった秋葉社に祀られ秋葉寺の守護神とされました。
さて、江戸の町民は木造長屋に集まって居住していたことから、度々発生する火事を最も恐れていたので、元禄時代頃から秋葉信仰は全国的に大流行し、秋葉山山頂の秋葉寺に詣でる「秋葉詣」が盛んになり、全国各地に秋葉社が勧請されました。そして、その勢いを恐れた徳川幕府は貞享二年(1685)に禁令を出したほどだったと伝わります。また、亀岡の地では、秋葉神社の他に、もう一つの火防神として知られる愛宕信仰が広く根付いている土地でもあるということです。
亀岡の秋葉神社に戻ります・・
青山下野守忠重が、浜松から秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)を勧請したその後、「医王山三尺坊大権現小祠之記(いおうざんさんじゃくぼうだいごんげんしょうしのき)」によると、享保十七年(1732)に、亀山城下の郷長だった杉原守建という人物が、城下を眼下にすることの出来る医王谷の奥に聳える小坊主ヶ岳(下矢田村)山頂に遷宮することを願い出て、寛延三年(1750)に遷宮されたと伝わるということですが、これが、現在、下矢田町にある秋葉神社です。
そして、今回採り上げた紺屋町の秋葉神社は、遷宮後に残された小祠が元となった神社で、遷宮後も「元秋葉神社」として崇敬されているということです。
また、境内には亀岡の名木に選ばれている「秋葉神社のイスノキ」があります(胸高幹周一.五五メートル、樹高十四メートル)案内板によると、イスノキは、関東以西の本州や四国、九州、琉球、台湾、中国に分布する常緑高木で、暖帯から亜熱帯の植物で、京都府下での自生は確認されていないということです。成長が遅く、材は緻密でソロバンの玉、橋材に用いて千年ということで、灰は陶芸の釉薬に用いられます。また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」によると、葉にできる虫瘤をヒューヒューと鳴らして神輿の供奉をするということです。
|