京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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JR亀岡駅の西約五百メートル、料理旅館として知られる楽々荘(田中源太郎翁旧邸)の直ぐ北にあるのが法得寺(ほうとくじ 京都府亀岡市余部町清水)です。
少し奥まって民家に挟まれている小さな寺院ですが、明恵上人が創建したと伝わる古刹と伝わります。(観光寺院ではありませんので、参拝希望者は事前にお寺に申し出てくださいということです。以下、亀岡市の案内掲示板を引用します)


さて、法得寺(ほうとくじ)は、山号を住心山という高野山真言宗寺院で、本尊弘法大師像を大師堂内に祀ります。鎌倉時代初期の建暦元年(1211)三月頃、明恵高弁上人により創建されたと伝えられ、大聖院南光坊と称して、明恵上人を開山としています。

京都栂尾(とがのお)高山寺の開山としても有名な明恵高弁上人については、ここでは簡単な略歴のみとしますが、平安時代末期の承安三年(1173)一月、紀伊国有田郡の伊勢平氏の出身という平重国と地元の有力豪族湯浅宗重の娘の間に誕生したとされます。治承四年(1180)、八歳で両親を失ったことから、京都の高雄山神護寺にいた文覚上人の弟子、上覚を師匠として出家し、十六歳で東大寺において受戒を受け、仁和寺や東大寺等畿内各地で顕光諸学を学びました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇から山城国栂尾を下賜されて高山寺を開き、華厳興隆の道場としました。また、法然上人の浄土宗が起こり念仏が広まると、これに対して、戒律を重んじ顕密諸宗の復興に努力しました。また、臨済宗の開祖、明庵栄西禅師が宋から伝来した茶の種を譲り受け、栂尾山に撒いてその繁殖を図ったことも有名です。そして、寛喜四年(1232)一月に六十歳で遷化しました。
尚、亀岡にある明恵上人ゆかりの寺院としては、今回の法得寺の他に、宮前町宮川にある神尾山金輪寺が上人を中興開山としているということです。


さて、法得寺に戻ります・・・
明恵上人の創建から三百年を経た江戸時代初期に、衰退していた寺院を尭永法印が再興して中興開山となっています。また、江戸時代には下町にあり、現在の安町通から雑水川(ぞうすがわ 桂川の支流)付近までが境内地だったと伝えられ、旧町内唯一の真言宗寺院として広く亀山城下の商人の信仰を集めていたということです。また、江戸時代初期、中興後の二世となった真照法印が、渇水に苦しむ里人のために、境内地の東に田地を潤すための池を掘ったといわれ、里人が感謝も意を込めて「真照池(しんしょういけ)」と呼んでいたということですが、この池は現在は残っていません。

現在の狭い境内には、大師堂と庫裏のみが現存している状態ですが、法得寺に伝わる虚空蔵菩薩坐像は、明恵上人伝来の仏像と伝えられています。また、大師堂には、本尊宗祖弘法大師と大聖不動明王が祀られ、その他、地蔵菩薩立像や千手観音立像等が伝わります。また、境内鎮守社の天満宮社には、妙法院法親王御筆の天満宮御影が祀られているということです。

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西光寺(京都府亀岡市安町)は、JR亀岡駅の西約一キロにある小さな寺院です。観光寺院ではないため一般公開していないお寺ですが(参拝希望者は事前にお寺に申し出て欲しいということです)、興味深いエピソードもあるので、少し書いてみます。(亀岡市の案内掲示板から引用します)


さて、西光寺は、山号を安行山という浄土宗寺院です。
寺伝によると奈良時代の天平勝宝元年(749)、東大寺の建立や社会福祉事業に活躍した行基菩薩が、阿弥法師と共に勧進して、現在地の西、蓍山(しばやま 安行山=西山)の麓に庵を建立し、基行院と称したのが始まりということです。
その後、治承元年(1177)、藤原成親や俊寛僧都等の後白河法皇の近臣が平家討伐を謀議した事件として知られる鹿ケ谷の変の首謀者の一人として死罪となった藤原師光入道西光法師の遺骨を、後白河法皇の命によって同庵に埋葬して、西光寺として一宇を建立、開山を西光法師としました。

さて、西光(さいこう ?〜1177)は、平安時代後期の官人・僧で、俗名は藤原師光(ふじわらのもろみつ)といい、元々は、阿波国の豪族麻植為光の子として誕生しました。やがて、中納言藤原家成の養子となって、乳兄弟とも伝わる少納言藤原通憲(信西)の臣下となり、その推挙によって左衛門尉に任じられました。その後、平治の乱で通憲(信西)が亡くなると、出家して西光と称しました。
側近・信西の死を惜しんでいた後白河法皇は、西光を抜擢して信頼し、西光は伝奏として活躍、「院の第一の近臣」と呼ばれる存在となりました。

さて、西光の子の藤原師高は加賀守、その弟の師経はその目代となっていましたが、安元三年(1177)、比叡山の末寺・白山涌泉寺と紛争を起こし、その末寺宇河寺を焼くという騒動となりました。これに激怒した白山の僧は比叡山に訴えます。そこで、三月二十二日、比叡山大衆は、藤原師高の流刑を求めて神輿を担いで強訴する騒ぎとなり、御所を警備していた平重盛の兵と比叡山大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たるなどして、大衆は神輿を放置して帰山する騒動となります。(尚、この放置された神輿を祀ったのが、ブログパート1に掲載した京都市中京区の白山神社です。)

結局、事件の張本人、藤原師高は尾張国に流罪、弟の師経は禁獄となりましたが、その後、師高の流刑を嘆いた父の西光が訴えたこともあって、後白河法皇は五月、天台座主明雲を検非違使に逮捕させて解任、伊豆国へ配流しました。ところが、比叡山大衆が、配流途中の明雲を奪回して比叡山に匿います。西光から厳罰を進言された後白河法皇は、平清盛に比叡山攻撃を命じましたが、その直後、北面の武士、多田行綱(源行綱)が、鹿ケ谷の陰謀を清盛に密告します。そこで、清盛は比叡山攻撃を取りやめ、集結していた平氏の大軍に陰謀参加者を捕縛させました。

「平家物語」によると、西光は、法皇の庇護を受けようと院御所に向かう途中、平家の兵に捕らえられます。清盛は西光の顔を踏みつけて責めますが、豪胆な西光は顔色一つ変えず、逆に清盛を嘲笑し罵倒したといわれます。激怒した清盛は西光を拷問にかけ、無礼な言葉を発したその口を裂き、五条西朱雀で斬首させました。また、西光の子、藤原師高も流刑先の尾張で殺害、弟の師経・師平も京都で処刑されたということです。

また、「源平盛衰記」等によって、西光法師は、京都のお盆の「六地蔵めぐり」で知られる六地蔵(伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵))ゆかりの人物としても知られます。六地蔵は、保元二年(1157)、後白河法皇が平清盛に命じて、洛中の入口六ヶ所に一体ずつ祀ったものと伝えられますが、この時、清盛は西光法師に命じて供養させたということです。



さて、西光寺に戻ります・・・
その後、江戸時代の慶長年間(1596〜1615)に、学同和尚によって現在地に移されましたが、元和年間(1615〜1624)に火災に遭って焼失し、寛永年間(1624〜44)、当山二十九世・恵譽圓霊(けいよえんれい)上人により再建されました。しかし、その後も、月日と共に荒廃していったようです。その後、江戸中期に、ようやく鏡譽恢源(きょうよかいげん)和尚が再興したことから、和尚は中興上人と呼ばれています。

また、境内にある地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、恵心僧都源信が感得して自ら彫ったと伝えられるもので、元々は、京都の誓願寺(中京区新教極 ブログ参照)に祀られていましたが、元禄七年(1694)五月二十三日の夜、誓願寺の僧、超然(ちょうぜん)上人と、当山の鏡譽上人の二人が同時に霊夢を見て、それに従って、当山に招来されたと伝えられ、氷上地蔵尊と呼ばれているということです。

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