京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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鍬山神社その2

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鍬山神社の続きです・・

今回は、鍬山宮本殿・八幡宮本殿の側面や背後の写真を中心に、境内の小さな末社の写真を掲載します。
鍬山神社は、境内がそれ程広くないのがやや残念な気もしますが、両本殿は京都市内の中堅神社クラスよりも立派で、山を背にした堂々とした姿は一見に値します。

写真の末社は、心字池の中島にある厳島社、二の鳥居の右にある金山社、樫船社、高樹社、日吉社、熊野社、疱瘡社(疱瘡稲荷社)、安産石、愛宕社、天満宮。そして、参道の入口付近には百太夫社です。

また、拝殿の左手から小さな鳥居を潜って山道を登ると小祠等が点在していて、山道の先には「銀鈴の滝」と呼ばれる小さな滝もあります(この山道は非常に暗くて、写真は不鮮明なものになっていますが、よろしくお願いします。)

鍬山神社その1

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JR亀岡駅から府道6号線(高槻街道とも呼ばれ大阪府高槻市へと続きます)を南に約三キロ、亀岡市上矢田町にある鍬山神社(くわやまじんじゃ)は、紅葉の名所として知られます。
亀岡市の紅葉の名所としては、他に出雲大神宮、神蔵寺、龍潭寺等が有名ですが、中でも鍬山神社は市内中心部に近いこともあって、紅葉時期には市外から訪れる人も多いようです。また、十月に行われる神社の秋季大祭「亀岡祭」は、「丹波の祇園祭」とも呼ばれ、亀岡を代表する大祭です。


さて、鍬山神社の祭神は、本社鍬山宮に主神として大己貴神(おおなむちのみこと 大国主命)を、境内社八幡宮に客神として誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)を祀ります。
大己貴神は、農業及び諸産業・商売繁盛・縁結び・学業・医療の神として信仰され、誉田別尊は、武運長久、勝運の神として知られます。両祭神は仲が悪かったという伝承もあって、本社鍬山社と境内社八幡社は共に同規模・同形式の立派な社殿で競い合うように祀られています。


社伝等によると、古代の神代の昔、丹波の国(現在の亀岡盆地)は泥沼の湖の底に沈んでいて、里人の生活はたいへん厳しいものでした。大己貴神(大国主命)は、大山咋神(おおやまくいのかみ)以下八柱の神を黒柄山(京都府南桑田郡樫田村=現大阪府高槻市)に集めて話し合い、一艘の樫船に乗って、一把の鍬を挙げ、保津浮田(請田)辺りの峡を切り開いて湖水を干拓して肥沃な農地にしたと伝えられます。里人は、この神徳を称えて天岡山の麓に祀ったのが神社の創建になり、また、神々が開削に使った鍬が山積みになったことから鍬山大明神と名付けられたと伝えられます。

この伝承のように、天岡山の社地は、古代から神代鎮座の霊場として信仰されてきたようで、その後、和銅二年(709)にはじめて社殿を建立し神社として創祀されたと伝えられます。また、鍬山大明神は、八田(やだ)社、矢田社とも呼ばれ、平安時代の延喜式神名帳にも、丹波国桑田郡十九座(大二座 小十七座)の一つとして記載されています。

また、鍬山大明神の横に祀られている八幡宮は、永万元年(1165)五月八日、天岡峰(面降山)上に戒衣を着、弓矢を持つ誉田神が降臨し、その託宣によって本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられます。しかし、それ以降、毎夜雷雨が起こり、戦闘殺伐の声が空中に聞こえ、鳩と兎が争って明け方の境内には死骸が散乱するといった不思議な事が起こったために、里人は両神の不仲のためと考え、それぞれ二棟の本殿に分けて祀った所、騒ぎは鎮まったと伝えられています。
また、八幡大神の影向石(天下り岩 阿闍梨寛純師が建立、三上竜山銘文を記す)が、天岡山北の赤子谷上にあるということです。



神社には寛正年間(1461〜66)の棟札が現存しているということですが、この時建てられた社殿も、戦国末期の明智光秀の丹波攻めの戦乱で衰退しました。その後、慶長十四年(1609)に丹波亀山藩主となった岡部長盛が、翌十五年(1610)に再興して、現在地に社殿が建立されました。現在の桧皮葺き権現造の社殿は、共に文化十一年(1814)に、当時の藩主松平信志が建立したもので、鍬山宮本殿・八幡宮本殿共に京都府登録文化財に指定されています。

また、境内には多くの小さな末社があります・・拝殿の右にある心字池の中島に厳島社があり、二の鳥居の右には、金山社、樫船社、高樹社、日吉社、熊野社、稲荷疱瘡社(稲荷&疱瘡社合祀)、安産石、愛宕社、天満宮が祀られています。そして、参道の入口付近には百太夫社が祀られています。さらに、拝殿の左手から、小さな鳥居を潜って山道を登ると、小祠等が点在していて、その先には「銀鈴の滝」と呼ばれる小さな滝があります。
また、神社周辺は「矢田の紅葉」と呼ばれる紅葉の名所として知られ、秋は、参道付近と心字池周辺を中心に鮮やかな椛を楽しめます。緑も豊かで、神社の森一帯が昭和六十年(1985)に京都府の文化財環境保全地区に指定されています。また、神社は亀岡市の自然百選にも選ばれています。


他に、当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つともなっている丹波猿楽があります。かつては、鍬山神社を拠点として、平安京はもとより摂津、河内等各地に出向いて活躍していたということですが、天正四年(1576)の明智光秀の丹波進攻の混乱により廃れたと言われています。
また、創建間もない頃から行われてきたという例大祭(亀岡祭)も、戦国時代の戦乱で一旦中断します。しかし、その後、歴代の丹波藩主が、神領等を寄進するなど保護に努めたため、徐々に神事祭礼が復興しました。
京都府登録無形民俗文化財、亀岡市指定無形文化財に指定されている例大祭(亀岡祭)は、延宝年間(1673〜81)に、地元古世の住人の発起によって再興され、以後、亀山藩主の庇護のもと、町衆の祭りとして現在まで継承されてきました。毎年、十月二十日から五日間にわたって行われ、二十五日の還幸祭(本祭)では、神輿の巡行と共に十一基の山鉾が町内を巡行し、「丹波の祇園祭」と呼ばれています。


その他、主な年間行事としては、

「元旦祭」・・元日に氏子の繁栄を祈願します。
「節分祭」・・二月三日、祭儀の後、修験者による護摩焚きが行われます。
「花祭」・・四月十五日、御旅所(形原神社)の例祭です。
「八ケ日祭」・・五月八日、 八幡宮の大祭です。
「水無月祭」・・七月二日、半年間の穢れ疫除けを祈願して人形流しが行われます。
「秋季大祭」・・十月二十〜二十五日、前述したように、「亀岡祭」と呼ばれます。
「紅葉祭り」・・十一月中、境内の紅葉は、矢田の紅葉として有名です。
「七五三詣」、十一月中、男女三才、男五歳、女七歳の子供のお祝い
「御火焚祭」・・十二月三日、大篝火を焚き厄を祓います。
「月次祭」・・毎月1回、早朝から氏子の参拝があり、その安泰を祈願します。

等があります。



次回に本殿の続きと末社の写真を掲載します。

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