京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)今回の特別公開二十一社寺の中でも、特に目玉として注目されるのが初公開の西方寺(さいほうじ)です。

西方寺(京都市左京区東大路通二条下ル北門前町)は、前にブログに掲載した「関西身延」こと妙伝寺(妙傳寺)の南西に位置し、東大路通沿いに建つあまり目立たないお寺です。しかし、今回初公開された秘仏の本尊の重文阿弥陀如来坐像は、丈六のボリューム感のある仏様で、仏像ファンには必見といえます。
一部の観光寺院だけが注目されている観光都市京都ですが、西方寺のような一般には全くと言って良いほど知られていない小寺院に、このような優れた仏像が秘蔵されていることには驚かされ、改めて京都の文化的な奥深さを感じます。(以下、古文化保存協会発行「拝観の手引」より引用)



さて、西方寺は、正式には、「願海山法性覚院西方寺」という浄土宗知恩院派に属する寺院です。
元々、現在寺院のある東山二条や岡崎の地は、平安時代末期の院政期に、六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と呼ばれた六つの大寺が建ち並んでいた地域で、現在も町名(法勝寺町・最勝寺町・円勝寺町・成勝寺町)が残っています。そして、西方寺の本尊阿弥陀如来坐像も法勝寺の遺仏と伝えられて、西方寺もこの地域の歴史を今に伝える寺院の一つといえます。


さて、寺院の開基は、平安時代の関白藤原師実の孫、左大臣藤原経宗(大炊御門経宗 1119〜1189)とされます・・・藤原経宗は、大納言藤原経実の子で、母の藤原公子が鳥羽天皇の中宮、待賢門院(藤原璋子)と姉妹だったこともあって、久寿二年(1155)に、従兄弟に当たる後白河天皇が即位すると出世を重ね、さらに姉の藤原懿子(後白河天皇妃)が産んだ守仁親王(後の二条天皇)が立太子されると、春宮権大夫に任じられ、二条天皇の外戚としての地位を得ます。

保元三年(1158)、二条天皇が即位すると、朝廷では後白河院政派と二条親政派との対立が起こりますが、二条親政派の中心人物となった経宗は、台頭してきた後白河法皇の側近、少納言藤原通憲(藤原信西)を失脚させるために、通憲(信西)の政敵で、院政派の権中納言藤原信頼らと結んで「平治の乱」を起こしました。そして、「平治の乱」の結果として、後白河法皇側近の通憲(信西)と院政派の信頼が滅んだことによって、経宗ら二条親政派の勢力が強まることになりました。

その後、後白河法皇へ圧力をかけ過ぎたこともあって、永暦元年(1160)、経宗は後白河法皇の怒りをかって、信西殺害の責任者の一人として阿波に流刑にされました。しかし、応保二年(1162)に帰京を許されると、左大臣に就任して、後白河法皇、平家一門双方に信頼される存在となり、平家一門の都落ち、源義仲(木曽義仲)や源義経と頼朝の対立期には法皇を補佐して難局を乗り切りました。そして、文治五年(1189)二月に、病により官職を辞して法然上人のもとで出家して法性覚と称し、同月二十八日に七十一歳で死去しました。

西方寺は、出家して亡くなった経宗の邸宅を寺院に改めて創建したと伝えられ、初めは一条新町(上京区)にあり、その後、両替町竹屋町通上がる西方寺町(中京区の烏丸丸太町)を経て、桃山時代に豊臣秀吉の命によって、御所に近い寺町椹木町東(上京区)に移転し、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により現在地に移りました。藤原一門の大炊御門家(開基藤原経宗の父藤原経実を祖とする)や、宇多天皇の一門の綾小路家と五辻家の菩提寺でもあり、公家の寺院として知られた寺院だったようです。



さて、西方寺は、山門を潜ると地蔵堂があり、その先に本堂、本堂の左には書院、奥には新しい茶室があります。一見して極ありふれた小さな寺院といった印象で、境内の鎮守の稲荷社の鳥居等は少し荒廃しているようです。そこで、あまり期待もしないで本堂に上がってみると、そこには、意外にも(失礼ながら)狭い本堂には似つかわしくない見事な仏像が安置されています・・・

この今回初公開された秘仏の本尊阿弥陀如来坐像は、平安時代の木造寄木造り、像高二百三十六センチの丈六の量感ある堂々とした坐像で、平安時代の承保二年(1075)に白河法皇が建立した法勝寺の遺仏とも伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
また、光背は、十三個の化仏の他に、さらに小さな無数の化仏で隙間無く覆われた円光背です。多くの化仏で覆われた光背は「千仏光背」といわれますが、西方寺のものは、さらに多くの化仏を有する「三千仏光背」になります。(尚、宝永の大火の際、この丈六の仏様は、真下に空けられた大穴にすっぽりと収まって火難を逃れたということです。)また脇侍として観音菩薩、勢至菩薩を配し、他に、本堂左手には、西方寺が寺町にあった時代からの豊臣秀吉の坐像が納められています

また、本堂の正面には地蔵堂があり、衣通姫地蔵(そとおりひめじぞう)が祀られています。
寺伝によると、古代の第十九代・允恭天皇の妃の妹、弟姫(衣通姫)が七歳の時に疫病で亡くなり、冥土で生身の地蔵を拝して蘇生し、その報恩のために作られたのがこの地蔵尊と伝えられ、古来より疫病除け、安産守護の信仰があり、洛陽四十八地蔵願所の二十五番霊場となっています。

その他、墓地内にあるため、今回は公開されませんでしたが、赤穂義士の小野寺十内招魂碑があります。墓石の表面には、小野寺秀和(十内)と、その甥の小野寺秀富(幸右衛門)、同じく甥の岡野包秀(金右衛門)、同じく甥で秀富(幸右衛門)の兄・大高忠雄(源吾)の名が刻まれています。この招魂碑は、西方寺が小野寺十内の母の菩提寺だったことから、十内の妻の丹女が供養塔として建立したものと伝えられているということです。

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