京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

鍬山神社その1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

イメージ 29

イメージ 30

イメージ 31

イメージ 32

イメージ 33

JR亀岡駅から府道6号線(高槻街道とも呼ばれ大阪府高槻市へと続きます)を南に約三キロ、亀岡市上矢田町にある鍬山神社(くわやまじんじゃ)は、紅葉の名所として知られます。
亀岡市の紅葉の名所としては、他に出雲大神宮、神蔵寺、龍潭寺等が有名ですが、中でも鍬山神社は市内中心部に近いこともあって、紅葉時期には市外から訪れる人も多いようです。また、十月に行われる神社の秋季大祭「亀岡祭」は、「丹波の祇園祭」とも呼ばれ、亀岡を代表する大祭です。


さて、鍬山神社の祭神は、本社鍬山宮に主神として大己貴神(おおなむちのみこと 大国主命)を、境内社八幡宮に客神として誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)を祀ります。
大己貴神は、農業及び諸産業・商売繁盛・縁結び・学業・医療の神として信仰され、誉田別尊は、武運長久、勝運の神として知られます。両祭神は仲が悪かったという伝承もあって、本社鍬山社と境内社八幡社は共に同規模・同形式の立派な社殿で競い合うように祀られています。


社伝等によると、古代の神代の昔、丹波の国(現在の亀岡盆地)は泥沼の湖の底に沈んでいて、里人の生活はたいへん厳しいものでした。大己貴神(大国主命)は、大山咋神(おおやまくいのかみ)以下八柱の神を黒柄山(京都府南桑田郡樫田村=現大阪府高槻市)に集めて話し合い、一艘の樫船に乗って、一把の鍬を挙げ、保津浮田(請田)辺りの峡を切り開いて湖水を干拓して肥沃な農地にしたと伝えられます。里人は、この神徳を称えて天岡山の麓に祀ったのが神社の創建になり、また、神々が開削に使った鍬が山積みになったことから鍬山大明神と名付けられたと伝えられます。

この伝承のように、天岡山の社地は、古代から神代鎮座の霊場として信仰されてきたようで、その後、和銅二年(709)にはじめて社殿を建立し神社として創祀されたと伝えられます。また、鍬山大明神は、八田(やだ)社、矢田社とも呼ばれ、平安時代の延喜式神名帳にも、丹波国桑田郡十九座(大二座 小十七座)の一つとして記載されています。

また、鍬山大明神の横に祀られている八幡宮は、永万元年(1165)五月八日、天岡峰(面降山)上に戒衣を着、弓矢を持つ誉田神が降臨し、その託宣によって本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられます。しかし、それ以降、毎夜雷雨が起こり、戦闘殺伐の声が空中に聞こえ、鳩と兎が争って明け方の境内には死骸が散乱するといった不思議な事が起こったために、里人は両神の不仲のためと考え、それぞれ二棟の本殿に分けて祀った所、騒ぎは鎮まったと伝えられています。
また、八幡大神の影向石(天下り岩 阿闍梨寛純師が建立、三上竜山銘文を記す)が、天岡山北の赤子谷上にあるということです。



神社には寛正年間(1461〜66)の棟札が現存しているということですが、この時建てられた社殿も、戦国末期の明智光秀の丹波攻めの戦乱で衰退しました。その後、慶長十四年(1609)に丹波亀山藩主となった岡部長盛が、翌十五年(1610)に再興して、現在地に社殿が建立されました。現在の桧皮葺き権現造の社殿は、共に文化十一年(1814)に、当時の藩主松平信志が建立したもので、鍬山宮本殿・八幡宮本殿共に京都府登録文化財に指定されています。

また、境内には多くの小さな末社があります・・拝殿の右にある心字池の中島に厳島社があり、二の鳥居の右には、金山社、樫船社、高樹社、日吉社、熊野社、稲荷疱瘡社(稲荷&疱瘡社合祀)、安産石、愛宕社、天満宮が祀られています。そして、参道の入口付近には百太夫社が祀られています。さらに、拝殿の左手から、小さな鳥居を潜って山道を登ると、小祠等が点在していて、その先には「銀鈴の滝」と呼ばれる小さな滝があります。
また、神社周辺は「矢田の紅葉」と呼ばれる紅葉の名所として知られ、秋は、参道付近と心字池周辺を中心に鮮やかな椛を楽しめます。緑も豊かで、神社の森一帯が昭和六十年(1985)に京都府の文化財環境保全地区に指定されています。また、神社は亀岡市の自然百選にも選ばれています。


他に、当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つともなっている丹波猿楽があります。かつては、鍬山神社を拠点として、平安京はもとより摂津、河内等各地に出向いて活躍していたということですが、天正四年(1576)の明智光秀の丹波進攻の混乱により廃れたと言われています。
また、創建間もない頃から行われてきたという例大祭(亀岡祭)も、戦国時代の戦乱で一旦中断します。しかし、その後、歴代の丹波藩主が、神領等を寄進するなど保護に努めたため、徐々に神事祭礼が復興しました。
京都府登録無形民俗文化財、亀岡市指定無形文化財に指定されている例大祭(亀岡祭)は、延宝年間(1673〜81)に、地元古世の住人の発起によって再興され、以後、亀山藩主の庇護のもと、町衆の祭りとして現在まで継承されてきました。毎年、十月二十日から五日間にわたって行われ、二十五日の還幸祭(本祭)では、神輿の巡行と共に十一基の山鉾が町内を巡行し、「丹波の祇園祭」と呼ばれています。


その他、主な年間行事としては、

「元旦祭」・・元日に氏子の繁栄を祈願します。
「節分祭」・・二月三日、祭儀の後、修験者による護摩焚きが行われます。
「花祭」・・四月十五日、御旅所(形原神社)の例祭です。
「八ケ日祭」・・五月八日、 八幡宮の大祭です。
「水無月祭」・・七月二日、半年間の穢れ疫除けを祈願して人形流しが行われます。
「秋季大祭」・・十月二十〜二十五日、前述したように、「亀岡祭」と呼ばれます。
「紅葉祭り」・・十一月中、境内の紅葉は、矢田の紅葉として有名です。
「七五三詣」、十一月中、男女三才、男五歳、女七歳の子供のお祝い
「御火焚祭」・・十二月三日、大篝火を焚き厄を祓います。
「月次祭」・・毎月1回、早朝から氏子の参拝があり、その安泰を祈願します。

等があります。



次回に本殿の続きと末社の写真を掲載します。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

JR亀岡駅の西約五百メートル、料理旅館として知られる楽々荘(田中源太郎翁旧邸)の直ぐ北にあるのが法得寺(ほうとくじ 京都府亀岡市余部町清水)です。
少し奥まって民家に挟まれている小さな寺院ですが、明恵上人が創建したと伝わる古刹と伝わります。(観光寺院ではありませんので、参拝希望者は事前にお寺に申し出てくださいということです。以下、亀岡市の案内掲示板を引用します)


さて、法得寺(ほうとくじ)は、山号を住心山という高野山真言宗寺院で、本尊弘法大師像を大師堂内に祀ります。鎌倉時代初期の建暦元年(1211)三月頃、明恵高弁上人により創建されたと伝えられ、大聖院南光坊と称して、明恵上人を開山としています。

京都栂尾(とがのお)高山寺の開山としても有名な明恵高弁上人については、ここでは簡単な略歴のみとしますが、平安時代末期の承安三年(1173)一月、紀伊国有田郡の伊勢平氏の出身という平重国と地元の有力豪族湯浅宗重の娘の間に誕生したとされます。治承四年(1180)、八歳で両親を失ったことから、京都の高雄山神護寺にいた文覚上人の弟子、上覚を師匠として出家し、十六歳で東大寺において受戒を受け、仁和寺や東大寺等畿内各地で顕光諸学を学びました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇から山城国栂尾を下賜されて高山寺を開き、華厳興隆の道場としました。また、法然上人の浄土宗が起こり念仏が広まると、これに対して、戒律を重んじ顕密諸宗の復興に努力しました。また、臨済宗の開祖、明庵栄西禅師が宋から伝来した茶の種を譲り受け、栂尾山に撒いてその繁殖を図ったことも有名です。そして、寛喜四年(1232)一月に六十歳で遷化しました。
尚、亀岡にある明恵上人ゆかりの寺院としては、今回の法得寺の他に、宮前町宮川にある神尾山金輪寺が上人を中興開山としているということです。


さて、法得寺に戻ります・・・
明恵上人の創建から三百年を経た江戸時代初期に、衰退していた寺院を尭永法印が再興して中興開山となっています。また、江戸時代には下町にあり、現在の安町通から雑水川(ぞうすがわ 桂川の支流)付近までが境内地だったと伝えられ、旧町内唯一の真言宗寺院として広く亀山城下の商人の信仰を集めていたということです。また、江戸時代初期、中興後の二世となった真照法印が、渇水に苦しむ里人のために、境内地の東に田地を潤すための池を掘ったといわれ、里人が感謝も意を込めて「真照池(しんしょういけ)」と呼んでいたということですが、この池は現在は残っていません。

現在の狭い境内には、大師堂と庫裏のみが現存している状態ですが、法得寺に伝わる虚空蔵菩薩坐像は、明恵上人伝来の仏像と伝えられています。また、大師堂には、本尊宗祖弘法大師と大聖不動明王が祀られ、その他、地蔵菩薩立像や千手観音立像等が伝わります。また、境内鎮守社の天満宮社には、妙法院法親王御筆の天満宮御影が祀られているということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

西光寺(京都府亀岡市安町)は、JR亀岡駅の西約一キロにある小さな寺院です。観光寺院ではないため一般公開していないお寺ですが(参拝希望者は事前にお寺に申し出て欲しいということです)、興味深いエピソードもあるので、少し書いてみます。(亀岡市の案内掲示板から引用します)


さて、西光寺は、山号を安行山という浄土宗寺院です。
寺伝によると奈良時代の天平勝宝元年(749)、東大寺の建立や社会福祉事業に活躍した行基菩薩が、阿弥法師と共に勧進して、現在地の西、蓍山(しばやま 安行山=西山)の麓に庵を建立し、基行院と称したのが始まりということです。
その後、治承元年(1177)、藤原成親や俊寛僧都等の後白河法皇の近臣が平家討伐を謀議した事件として知られる鹿ケ谷の変の首謀者の一人として死罪となった藤原師光入道西光法師の遺骨を、後白河法皇の命によって同庵に埋葬して、西光寺として一宇を建立、開山を西光法師としました。

さて、西光(さいこう ?〜1177)は、平安時代後期の官人・僧で、俗名は藤原師光(ふじわらのもろみつ)といい、元々は、阿波国の豪族麻植為光の子として誕生しました。やがて、中納言藤原家成の養子となって、乳兄弟とも伝わる少納言藤原通憲(信西)の臣下となり、その推挙によって左衛門尉に任じられました。その後、平治の乱で通憲(信西)が亡くなると、出家して西光と称しました。
側近・信西の死を惜しんでいた後白河法皇は、西光を抜擢して信頼し、西光は伝奏として活躍、「院の第一の近臣」と呼ばれる存在となりました。

さて、西光の子の藤原師高は加賀守、その弟の師経はその目代となっていましたが、安元三年(1177)、比叡山の末寺・白山涌泉寺と紛争を起こし、その末寺宇河寺を焼くという騒動となりました。これに激怒した白山の僧は比叡山に訴えます。そこで、三月二十二日、比叡山大衆は、藤原師高の流刑を求めて神輿を担いで強訴する騒ぎとなり、御所を警備していた平重盛の兵と比叡山大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たるなどして、大衆は神輿を放置して帰山する騒動となります。(尚、この放置された神輿を祀ったのが、ブログパート1に掲載した京都市中京区の白山神社です。)

結局、事件の張本人、藤原師高は尾張国に流罪、弟の師経は禁獄となりましたが、その後、師高の流刑を嘆いた父の西光が訴えたこともあって、後白河法皇は五月、天台座主明雲を検非違使に逮捕させて解任、伊豆国へ配流しました。ところが、比叡山大衆が、配流途中の明雲を奪回して比叡山に匿います。西光から厳罰を進言された後白河法皇は、平清盛に比叡山攻撃を命じましたが、その直後、北面の武士、多田行綱(源行綱)が、鹿ケ谷の陰謀を清盛に密告します。そこで、清盛は比叡山攻撃を取りやめ、集結していた平氏の大軍に陰謀参加者を捕縛させました。

「平家物語」によると、西光は、法皇の庇護を受けようと院御所に向かう途中、平家の兵に捕らえられます。清盛は西光の顔を踏みつけて責めますが、豪胆な西光は顔色一つ変えず、逆に清盛を嘲笑し罵倒したといわれます。激怒した清盛は西光を拷問にかけ、無礼な言葉を発したその口を裂き、五条西朱雀で斬首させました。また、西光の子、藤原師高も流刑先の尾張で殺害、弟の師経・師平も京都で処刑されたということです。

また、「源平盛衰記」等によって、西光法師は、京都のお盆の「六地蔵めぐり」で知られる六地蔵(伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵))ゆかりの人物としても知られます。六地蔵は、保元二年(1157)、後白河法皇が平清盛に命じて、洛中の入口六ヶ所に一体ずつ祀ったものと伝えられますが、この時、清盛は西光法師に命じて供養させたということです。



さて、西光寺に戻ります・・・
その後、江戸時代の慶長年間(1596〜1615)に、学同和尚によって現在地に移されましたが、元和年間(1615〜1624)に火災に遭って焼失し、寛永年間(1624〜44)、当山二十九世・恵譽圓霊(けいよえんれい)上人により再建されました。しかし、その後も、月日と共に荒廃していったようです。その後、江戸中期に、ようやく鏡譽恢源(きょうよかいげん)和尚が再興したことから、和尚は中興上人と呼ばれています。

また、境内にある地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、恵心僧都源信が感得して自ら彫ったと伝えられるもので、元々は、京都の誓願寺(中京区新教極 ブログ参照)に祀られていましたが、元禄七年(1694)五月二十三日の夜、誓願寺の僧、超然(ちょうぜん)上人と、当山の鏡譽上人の二人が同時に霊夢を見て、それに従って、当山に招来されたと伝えられ、氷上地蔵尊と呼ばれているということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

先日、円通寺について書いた際に、寛延二年(1749)に丹波篠山藩から移封され、幕末まで八代に渡って丹波亀山藩を領有した形原松平家について触れましたが、今回は、元禄十五年(1702)に、遠江浜松藩から丹波亀山藩に移封されて三代に渡ってこの地を支配し、形原松平家と領地を交換する形で丹波篠山に移った青山家ゆかりの秋葉神社(あきばじんじゃ)です。(尚、亀岡市には幾つかの秋葉神社があるようですが、今回は、紺屋町にある秋葉神社(元秋葉神社)を採り上げました。)


ただ、丹波亀山藩の青山氏といっても、どうもイメージが湧きそうにありません・・そこで、この機会に、明智光秀が亀山城を築いたあたりから、少し近世の丹波亀山の歴代領主について確認してみます・・

戦国時代末期、亀山地域(現京都府亀岡市)では、波多野氏をはじめとする諸豪族が攻防を繰り返していましたが、天正五年(1577)に、織田信長が明智光秀を派遣して丹波攻略を進めました。そして、天正七年(1579)に波多野氏を滅ぼすことに成功した光秀は、信長から丹波一国を与えられました。
その後、天正十年(1582)に、本能寺の変を起こした光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に滅ぼされると、秀吉は、信長の四男で秀吉の養子となっていた、羽柴秀勝に丹波亀山を与えます。しかし、秀勝は天正十三年(1585)に病死し、秀吉の甥で同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)が代わって丹波に入ります。

その後、天正十八年(1590)に、秀勝の甲斐国転封によって、秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が、丹波亀山を与えられました。そして、文禄四年(1595)、小早川秀秋(前年に小早川家の養子となりました)が、隠居した養父隆景の九州北部の領地を継承すると、豊臣五奉行として知られる前田玄以が亀山五万石を領有しました・・こうして、近世丹波亀山藩は前田家によって始まりました。しかし、慶長七年(1602)に玄以が死去すると、藩を継承した子の茂勝は、丹波八上藩に移封され、僅か二年で丹波亀山藩は幕府の天領となりました。


その後、慶長十四年(1609)に譜代大名の岡部長盛が下総山崎藩から三万二千石で移封され(以後、幕末まで譜代大名が続きます)、再び丹波亀山藩が誕生しましたが、大阪の陣で功績を挙げた長盛は、慶長二十年(1615)に丹波福知山藩へ加増移封されます。
代わって、元和七年(1621)、三河西尾藩より大給松平家の松平成重が二万二千石で移封され、寛永十年(1633)の成重の死後は、二代忠昭が継承しますが、翌寛永十一年(1634)に豊後亀川藩に移封されます。

その後、近江膳所藩から菅沼定芳が四万一千石で移封され、寛永二十年(1643)の定芳の死去後は、二代定昭が継承しますが、慶安元年(1648)に定昭が若くして嗣子無く死去したことから改易となります。
代わって藤井松平家の松平忠晴が三万八千石で移封され、二代忠昭を経て、貞享三年(1686)三代忠周が武蔵岩槻藩へ移封されるまで続きます。
貞享三年(1686)、久世重之が備中庭瀬藩より五万石で移封されますが、元禄十年(1697)に三河吉田藩へ移封となり、美濃郡上藩より井上正岑が四万七千石で移封されますが、元禄十五年(1702)に、常陸下館藩へ移封されます。

さらに、遠江浜松藩から青山忠重が五万石で移封され、二代俊春を経て、三代忠朝が寛延二年(1749)に丹波篠山藩へ移封されるまで続きます。そして、代わって形原松平家の松平信岑が丹波篠山藩から五万石で移封されて来ると、その後は、信直、信道、信彰、信志、信豪、信義、信正の八代百二十三年に渡って形原松平家が亀山藩を継承し幕末に至りました。



さて、秋葉神社です・・(以下、亀岡市の案内掲示板参照)

元禄十五年(1702)、青山下野守忠重(あおよましもつけのかみただしげ)が、遠江浜松藩から、丹波亀山五万石の藩主として転封してきますが、着任の翌十六年(1703)四月十六日の夜半、亀山城下では火災が発生し、家屋の多くが被災しました。また、この火災の他にも貞享・元禄の頃には、人が集まって暮らしている城下町では、度々火災が発生していたようです。
新たに藩主となった青山忠重は、前任地の浜松で防火の神様として広く信仰されていた秋葉三尺坊を城下町の紺屋裏惣堀内側の穴太口に仮宮を建立して神霊を勧請し、城下の防火を願ったということです。これが今回の亀岡市紺屋町の秋葉神社の始まりとなります。


ここで、秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)についてです・・・
秋葉三尺坊とは、赤石山脈の最南端に位置する秋葉山(静岡県浜松市天竜区)の山頂に鎮座する火伏の神です。
明治の神仏分離令以降、多くの神社と寺院は創建当初から個別のものとしてきれいに分離、整理されてしまっていますが、実際は、仏教伝来以来、両者は密接に結び付き一体化して発展してきたことはよく知られています。現在の秋葉山にある秋葉神社(社伝等によると、和銅二年(709)頃の創祀と伝えられます)は、火之伽具土神(ひのかぐつちのかみ 火産霊神=ほむすぼのかみ)を祭神としていますが、これも明治以降に仏教的要素を取り除き神道系の祭神名に改めたもので、神仏分離令と廃仏毀釈以前は、秋葉山の山岳信仰を起源にして、信州出身の修験道の行者という説のある三尺坊をその没後に大権現として祀った秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)が祀られていました。
秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)は、観音菩薩が本地仏(日本の神々は諸仏の仮の姿という、仏を主、神を従とする神仏混交思想の理論付けとなった本地垂迹説に基づいて、秋葉三尺坊大権現の本来の姿は観音菩薩ということになります)で、秋葉山を境内地とする秋葉寺(しゅうようじ)境内にあった秋葉社に祀られ秋葉寺の守護神とされました。


さて、江戸の町民は木造長屋に集まって居住していたことから、度々発生する火事を最も恐れていたので、元禄時代頃から秋葉信仰は全国的に大流行し、秋葉山山頂の秋葉寺に詣でる「秋葉詣」が盛んになり、全国各地に秋葉社が勧請されました。そして、その勢いを恐れた徳川幕府は貞享二年(1685)に禁令を出したほどだったと伝わります。また、亀岡の地では、秋葉神社の他に、もう一つの火防神として知られる愛宕信仰が広く根付いている土地でもあるということです。


亀岡の秋葉神社に戻ります・・
青山下野守忠重が、浜松から秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)を勧請したその後、「医王山三尺坊大権現小祠之記(いおうざんさんじゃくぼうだいごんげんしょうしのき)」によると、享保十七年(1732)に、亀山城下の郷長だった杉原守建という人物が、城下を眼下にすることの出来る医王谷の奥に聳える小坊主ヶ岳(下矢田村)山頂に遷宮することを願い出て、寛延三年(1750)に遷宮されたと伝わるということですが、これが、現在、下矢田町にある秋葉神社です。
そして、今回採り上げた紺屋町の秋葉神社は、遷宮後に残された小祠が元となった神社で、遷宮後も「元秋葉神社」として崇敬されているということです。

また、境内には亀岡の名木に選ばれている「秋葉神社のイスノキ」があります(胸高幹周一.五五メートル、樹高十四メートル)案内板によると、イスノキは、関東以西の本州や四国、九州、琉球、台湾、中国に分布する常緑高木で、暖帯から亜熱帯の植物で、京都府下での自生は確認されていないということです。成長が遅く、材は緻密でソロバンの玉、橋材に用いて千年ということで、灰は陶芸の釉薬に用いられます。また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」によると、葉にできる虫瘤をヒューヒューと鳴らして神輿の供奉をするということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

今回の地蔵院は、亀岡市西町の民家の間にあって少し見つけ難い小さな御堂ですが、亀岡市の案内掲示板を参照して書いてみます。

JR亀岡駅の東南、山陰街道の西町を過ぎて、北町に入ろうとする所で、「子安地蔵尊」の道標があります。そして、そこに「寛政九年(1797)四月如意山菩提寺住本明」と記されているように、この小さな地蔵堂は、元々は、山号を如意山、寺名を菩提寺という真言宗智積院の末寺だったようです。そして、祀られているこの地蔵菩薩像は、同寺の本尊だったと伝えられます。現在地は現在の町割では西町に属していますが、「北町の地蔵」として地元では親しまれてきたということです。

ここに祀られている地蔵菩薩坐像は、明智光秀による亀山城築城以前は、追分村(現追分町、現在地の東)に祀られていましたが、築城後に現在地に移されたということです。また、この蔵菩薩像は、老ノ坂に祀られている子安地蔵と同木・同作とも伝えられています。
古くから安産祈願成就の霊験あらたかな尊像として篤く信仰されてきたようで、その霊験については、亀山藩の儒臣の中島魚(雪楼)が寛政六年(1794)に著した「地蔵院霊像記」が額装されて堂前に掲げられているということですが、判読できませんでした。

御堂内部も暗くて確認できませんが、案内板によると、この地蔵菩薩は、大雨の時に水中から現れたという伝承があり、伽羅陀山地蔵尊(からださんじぞうそん)と呼ばれているということです。
そして、地蔵尊は、両腕を曲げて胸の前で、宝珠と錫杖を持ち、左足を踏み下げて蓮台の上に半跏した優美な姿で現され、平安時代後期の洗練された定朝様式の彫技から都風の像であることが一目でわかるということです。また、この像が左手に持っている宝珠の中に納められている宇賀神は、白蛇を神として祀ったもので、一切衆生に愛福を授け菩提に至らせるという福の神とされています。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事