京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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江戸時代の寛延元年(1748)から幕末まで、丹波亀山藩(現京都府亀岡市)は、八代に渡って形原松平家(かたはらまつだいらけ)が継承しましたが、今回はこの形原松平家ゆかりの寺院です。


さて、形原松平家(かたはらまつだいらけ)は、室町時代の三河の豪族、松平信光(後に徳川家康を登場させる松平宗家の第三代とされます)の四男・松平与副を祖とする松平氏の庶流で、当初、三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原)を領したことから形原松平家と呼ばれます。

その後、四代家広、五代家忠の時代に、宗家の徳川家康に仕えて功をあげ、その子の六代家信は、元和四年(1618)に、形原藩一万石の大名となり、その後、摂津国高槻藩二万石、下総国佐倉藩四万石へと移封しました。その後、佐倉藩を継承した七代の康信が、摂津国高槻藩を経て、慶安二年(1649)に、丹波篠山藩五万石の藩主となりました。その後、典信、信利、信庸(信利弟)を経て、信岑(丹波篠山藩形原松平家五代)が、享保の大飢饉で苦しむ領民に重税を課すという失政を行って、寛延元年(1748)に丹波亀山藩五万一千石に移封されます。以降、幕末まで丹波亀山は形原松平家が八代に渡って領有しました。


形原松平家藩主の菩提寺としては、亀山城跡の東にある光忠寺(京都府亀岡市古世町北古世町)が有名で、六代家信以降の歴代藩主の墓がありますが、今回採り上げた円通寺は、亀山城跡の西に位置し、藩主の奥方の菩提寺になります。(以下、亀岡市の案内掲示板を引用)

さて、円通寺(京都府亀岡市紺屋町)は、山号を華屋山という曹洞宗寺院です。
大永二年(1523)、勅諡法輝円明(ちょくしほうきえん)禅師、白洲巌龍(しらすがんりゅう)大和尚を開山として招請し、形原松平家の奥方の菩提寺として創建されました。(開基については、藩主の正室側室等々諸説あるようです。)創建当時は、まだ形原松平家は三河国(愛知県西部)の小豪族に過ぎませんでしたが、その後、徳川家康に使えて松平家が大名になると、藩主の菩提寺である光忠寺と共に、松平氏の国替えに伴って、三河国形原、摂津国高槻、下総国佐倉、摂津国高槻、丹波篠山、丹波亀山へと再三移転を繰り返しました。
寛延元年(1748)の丹波篠山からこの丹波亀山(亀岡市)への移転の際は、当初は本町の寿仙院(円通寺の東)のある場所に移されましたが、寛政元年(1789)に、穴太道の要衝である亀山城の西の現在地に移りました。


また、円通寺に伝わる形原松平家七代の康信(大安君)の念持仏であった達磨大師像には面白い逸話があるということです・・ある時江戸藩邸で火事が起こりましたが、この時、一生懸命に防火に励む人物があり、そのおかげで藩邸は類焼を逃れたということです。康信がその者に感謝して、褒美を使わそうと探しましたが見つかりませんでした。その後、康信が厚く信仰している念持仏の達磨大師像の衣の裾が少し焦げているのが見つかり、この達磨大師像が火災から守ってくれたということがわかり、その不思議な霊力に感動したということです。

(尚、円通寺は普段一般公開はしていませんので、参拝希望の方は事前にお寺に申し出てくださいということです。)

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丹波国亀山(現京都府亀岡市)は、戦国時代末期に、明智光秀が丹波亀山城を築城して以来、山陰と京都を結ぶ交通拠点として栄えた城下町でした。
そして、今も、JR亀岡駅前の亀山城跡の周辺には、城下町時代の歴史を伝える小さな史跡が点在しています・・今回の大圓寺(だいえんじ)もその一つになります。(以下、亀岡市の案内掲示板等参照)


さて、京都府亀岡市西町にある大圓寺(大円寺)は、正式には「鏡智山瑞雲院大圓寺」という浄土宗知恩院派の寺院で、本堂に本尊阿弥陀如来像を祀ります。

大圓寺(大円寺)は、天文二十二年(1254)九月、室町幕府の第十三代将軍・足利義輝の外護を受けた、専譽周公(専譽秀光 せんよしゅうこう)上人によって創建されました。
創建当初は、保津川の北(確かな所在地は不明)に建てられ、学問所としての性格を備えていたということです。その後、明智光秀が亀山城を中心とした城下町を形成するにあたり、城下の西、穴太道の要衝となる現在地に移されました。また、小早川秀秋が文禄四年(1595)に米弐石を寄進した五箇寺の一つでもあるということです。
その後、寛永二十年(1643)と元禄十二年(1699)の二回の火災に遭って焼失再建を繰り返し、現在の本堂や山門は、宝永七年(1710)に再建されたものです。


平成十二年(2000)に建てられた新しい薬師堂に祀られている薬師如来坐像(亀岡市指定文化財)は、関西地方では非常に珍しい鋳鉄製の仏像で、鎌倉時代(平安時代末期とも)の作と考えられ、定朝様式の表情も穏やかな仏様です。(因みに関東方面には鋳鉄製の仏像は数があるようです)

この鋳鉄薬師如来は、別名を「亀山薬師」と称し、古くから霊験あらたかなる尊像として知られ、元々は、亀岡(亀山)という地名の由来になる小山「亀山」(現亀山城天守閣付近)に祀られていましたが、その地に天守閣が築かれることになった為、一旦追分村に移され、その後大圓寺に移されたものと伝わります。薬師如来像の胎内からは室町時代の応永年中(1394〜1427)の墨書やさらに古い年代と思われる墨書きも見つかっているということです。
また、この薬師如来像と同范(同じ型)で造られたと思われる鉄仏が、京都市右京区山ノ内の念仏寺(通称、水子供養寺 ブログ掲載済み)と、ドイツのケルン東亜美術館に所蔵されているということです。

他に、本堂の左前には、亀岡樹木百二十選の一つに選ばれている「三鈷の松」があります(写真)
一本の松が根元から三本に別れて仏具の三鈷に似ていることから名付けられています。

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京都府亀岡市には、紅葉の名所として知られる鍬山神社(くわやまじんじゃ)がありますが、今回は、JR亀岡駅方面から鍬山神社に向かう途中にある小さな史跡を採り上げてみます。

さて、JR亀岡駅から府道6号線を南下し、下矢田の交差点を超えてさらに進むと、右手の小山(法楽寺山)に向かって細い参道が続いていることに気付きます。また、道路脇には「那須与市堂」と記された案内板があります・・この那須与市堂(亀岡市下矢田町)と呼ばれるお寺は、今では少し荒れた雰囲気の小寺院に過ぎませんが、法楽寺という霊験あらたかな寺院の旧跡と伝えられます。(尚、与一は、「与市」とも記されますが、「与一」で統一しておきます)

寺伝によると、平安時代の一条天皇の時代、陰陽師・天文博士として有名な安倍晴明が、亀岡市の下矢田町にあるこの安行山(西山=法楽寺山)の麓に、法楽寺という寺院を建立し、恵心僧都作の阿弥陀如来像を本尊として深く信仰したと伝えられます。
その後、約二百年が経った源平の時代、平家が陣を置く一の谷に攻め込むために源義経が丹波路に入った際、従軍していた那須与一宗高は、亀岡のこの地で俄かに病になり動けなくなりました。しかし、たまたま法楽寺の阿弥陀如来に病気回復を祈願した所、その霊験で快復したということです。
喜んだ与一は一行の後を追い、その後の屋島の戦いでは、この阿弥陀如来の霊符を身に付けて戦い、再び霊験により有名な扇の的の武勲が立てられました。そして、その後は、武士を捨てて法楽寺を再興し、阿弥陀如来への信仰に余生を過したということです。

江戸時代の享保元年(1716)の火災で法楽寺は焼失しましたが、信者達が駆けつけた時には、焼け落ちた御堂の跡に、まばゆい金色の光に輝く本尊が立っていたと伝えられます。その後、明治二十六年(1893)になって見晴らしの良い現在地に地元の人々の手で再建され、火災で焼けた仏像を安置、那須与一が法楽寺を再興したとう伝承から「那須与市堂」と名付けられました。
そして、現在も延命長寿や老病、尿の悩みをはじめ、学問や武術を志す若い人々にも霊験あらたかな阿弥陀如来様として信仰されているということです。
境内には、本堂の他に那須与一の供養塔、地元の老人会の集会所等があります。

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)悲田院は通常非公開ですが、泉涌寺山内の「泉山七福神巡り」の第六番毘沙門天を祀ることでも知られ、また宿坊として他府県の観光客にも知られています。かなり前に少しだけブログパート1に採り上げましたが、今回の特別公開の機会に、再度書いてみます。


真言宗泉湧寺派大本山・泉湧寺の塔頭、悲田院(京都市東山区今熊野悲田院山町)は、東山三十六峯の月輪山の支峯になる悲田院山にあります。
寺のすぐ南には日吉ヶ丘高校、東には月輪中学校があって、元気な中高生の声が絶えない地域に位置していますが、樹木に囲まれた境内は静けさが漂っています。また高台にあるために、京都市街の風景が一望できることでも知られ、さらに、ここから約二百メートル余り進むと泉湧寺総門に至ります。
(以下、泉湧寺のホームページ、古文化保存協会発行「拝観の手引」を引用)


さて、悲田院(ひでんいん)という名前は、日本史の参考書等にも出てくると思いますが、元々は、仏教思想に基づいて、身寄りの無い老人や貧民、放置された孤児等を救済するための収容施設を意味します。日本では聖徳太子が四天王寺に造らせた「悲田院」がその始まりとされ、奈良時代の養老七年(723)に光明皇后によって作られたものが有名です。その後、平安時代になると、京都の東西二カ所(九条三坊)に設けられたようです。
当悲田院も当初はこのような肉体の安全を守る施設でしたが、その後、精神の安定を求める寺院となり、鎌倉時代末期の延慶元年(1308)に、無人如導(むにんにょどう)和尚が、一条安居院(上京区堀川通上御陵。悲田院は扇町、上天神町、天神北町、瑞光院前町一帯に跨ってあったと思われます。)に移して再興し、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の道場にしました。

その後、室町時代中期の第百二代・後花園天皇は悲田院を勅願寺とし、以降、悲田院の歴代住職は代々の天皇の綸旨を賜わって紫衣参内が許されたということです。
また、文明二年(1470)十二月に後花園天皇が崩御した際は、翌文明三年(1471)正月三日に当寺で葬儀や荼毘が行なわれました。(応仁の乱で泉涌寺が破壊されていたために、悲田院で葬礼が行われたということです。尚、後花園天皇の火葬塚は、以前にブログに掲載した大応寺(上京区堀川通上御陵前上る扇町)の北にあります)

しかし、その後、織田信長の元亀天正の兵乱で衰退し、江戸時代の正保三年(1646)、高槻城主の永井直清(ながいなおきよ)が、泉涌寺山内の現在地に移建し、帰依していた泉湧寺第八十世・如周恵公(にょしゅうけんこう)和尚を迎えて住持としたのが、現在の悲田院になります。
明治維新まで、境内は四方三町近くあり、御朱印三十二石、別朱印九石余、高槻藩からは年々二百石の玄米と八十石の布施米が寄せられ、堂宇の営繕は全て高槻藩が行っていたということです。その後、明治十八年(1885)、塔頭寿命院と合併して再興しています。


現在の本堂は、正保三年(1646)の再興時の建物で、本尊は阿弥陀如来立像です。その他、庫裏、客殿、玄関、披月庵等の建物があり、戦後は「泉山毘沙門天」としても知られ、除災招福の祈願道場となっています。また、煎茶茶道東仙流の総司所として煎茶茶道の普及に努めているということです。
寺宝としては快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像や逆手の阿弥陀如来立像があり、また土佐光起・光成等の土佐派と、橋本関雪の襖絵があります。

さて、快慶作と伝えられる宝冠阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)は、悲田院に客仏として安置されている尊像で、本堂の右側手前に安置されています。頭部に宝冠を付ける冠座がある阿弥陀如来像で、上品上生の印を結ぶ姿で、中国宋様式の影響が見られるということです。
以前から、快慶作と推測されてきましたが、本年のファイバースコープを用いた内部調査で、像内部から「安阿弥陀仏(アンアミダ仏)」の文字が発見され、これが快慶が用いていた名前であることから、快慶の作である可能性がより高まりました。そして、造仏に快慶と署名することが多くなった建仁二年(1203)以前の作と考えられています。

また、本堂中央の本尊の阿弥陀如来像(鎌倉時代)は、右手を与願印とする逆手の阿弥陀仏で、寄木造の漆箔、南宋風の尊像ということですが、残念ながら、今回の拝観時は宝物庫に収納されていて、代わりの阿弥陀如来像が祀られていました。また、その横には、悲田院を寺院に改めた無人如導(むにんにょどう)和尚の像が祀られています。
尚、無人如導は、悲田院の他にも北野観音寺(寺に無人如導が書写した「往生要集鈔」が保存)、法音院(泉湧寺塔頭)等九ヶ寺を再興、建立したことで知られます。また、その右には弘法大師空海や善導大師像も祀られています。

他に東の間には、悲田院を移築再建した高槻城主・永井直清(1591〜1671)の像が祀られています。直清は、二代将軍徳川秀忠の小姓として大阪の陣で活躍し、山城国長岡藩主を経て、慶安二年(1649)に三万六千石の高槻藩主となりました。そして、悲田院の再建を始め、優れた統治で藩政の基礎を固め、寛文十一年(1671)に八十歳で亡くなりました。


また、土佐光起・光成等の土佐派の襖絵が本堂の三つの間を飾ります。
土佐光起(1617〜91)は、土佐光則(1583〜1638)の子として生まれ、延宝九年(1681)に六十五歳で法橋となって剃髪後、「常昭」と称し、貞享二年(1685)に法眼に叙せられました。平安時代以来、大和絵の作風で宮廷絵所預の職を世襲してきた土佐派は、中世末期の土佐光元(?〜1569)が織田信長に従軍し但馬で戦死したことで一旦中断しますが、寛永十一年(1634)に至って、土佐光則・光起父子が堺から帰洛して土佐派の復興に努め、承応三年(1645)、光起が三十八歳の時に従五位下左近衛将監に叙されようやく絵所預に復帰しました。
光起は、土佐派の棟梁として大和絵に専念するだけでなく、ライバルの狩野派や宋元画の筆法も学んで時代の要求に応じた斬新な画風を生み出し、また、「本朝画法大全」を著しました。

光起作の悲田院本堂の襖絵としては、西の間に走獣図「松に群猿図」。東の間に唐人物図の「杜甫観郭公図」「李白観瀑図」「林和靖愛梅図」「周茂叔愛蓮図」「陶淵明愛菊図」がありますが、何れも漢画といわれるジャンルに属します。
東の間の「陶淵明愛菊図」と西の間の「松に群猿図」の落款には、「行年七十二土佐法眼常昭筆」と署名、また朱文方形の「藤原」印が用いられていることから、両作が七十二歳の時、元禄元年(1688)の作と判明。また、中の間の「紅葉に芦雁図」の落款には、「土佐左近将監光成筆」という署名があることから、子の土佐光成(1646〜1710)が四十三歳の時、父の光起と共同製作したものと考えられています。
また、橋本関雪の「四皓帰山図」が西の間西壁を飾り、西の間の前には、水琴窟のある坪庭が設けられています(写真)

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)、今回は、特別公開中の臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭、東光寺(とうこうじ 京都市東山区本町十五丁)を採り上げます。

東光寺は、東福寺山内の東南、六波羅門の西に位置する塔頭で、これまでも特別公開されたことがありますが、一般にはほとんど知られていないと寺院と思われます。
東福寺は修行第一の禅宗本山にしては珍しく観光客を広く受け入れている寺院として知られますが、その塔頭寺院の幾つかも通常公開もしくは特別公開を行っているため、(芬陀院、霊雲院、同聚院、光明院が通常公開。龍吟庵と天得院が毎年特別公開。勝林寺は近年特別公開開始。他に退耕庵は予約制・特別公開、即宗院は過去に特別公開あり)
東光寺のようなあまり知られていない地味な塔頭は、時間の無い観光客にとっては他の塔頭の後回しになるか、忘れられがちになるように感じます。(以下、古文化保存協会発行「拝観の手引き」より引用)


さて、臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭、東光寺(とうこうじ)は、鎌倉時代末期の応長元年(1311)、東福寺第七世・無為昭元(むいしょうげん 大智海禅師)によって創建されました。創建時は現在地よりも少し北に位置していたことが図会で確認され、その後一時期、衰退か廃寺となったようですが、その間の記録が失われているため詳細は不明のようです。その後、中興開山となった古林智教(こりんちきょう)禅師によって寺域が復興し、明治元年(1868)、それまでの堂宇を長慶院(現在は廃寺)に譲り、東光寺を曹渓院と合併して現在に至ります。

開山の大智海禅師(無為昭元)は、寛元三年(1245)に誕生し、東福寺開山・聖一国師(円爾 しょういちこくし えんに)のもとで修行して正安二年(1300)に京都三聖寺の住持に、さらに、嘉元三年(1305)に東福寺の住持となって東福寺第七世となりました。
また、徳治二年(1307)四月に、鎌倉円覚寺の住持となり、応長元年(1311)二月に円覚寺を退いて相州宝満寺に寓し、同年五月十六日に相州宝福寺で示寂しました。そして、その後、東福寺塔頭東光寺に埋葬し、「大智海禅師」と朝廷から諡号を賜りました。

大智海禅師(無為昭元)に関する詳しい資料は少ないようですが、「正安二年三聖寺無為昭元の会下百七十七人あり」と伝わるように、当代一の高僧として知られました。そして、「元亨釈書」を著すなど内外の典籍に通じた虎関師錬(こかんしれん 1278〜1346)、後に「東福四哲」の一人に数えられた無徳至孝(むとくしこう 1284〜1363)、臨済宗永源寺派の開祖となった寂室元光(じゃくしつげんこう 1290〜1367)等々の多くの僧が大智海禅師(無為昭元)のもとに参じていて、禅師は東光門派の祖としても知られています。

また、無為昭元には始め諡号が無く、正中三年(1326)三月に、「智海」の二字を賜る事になりましたが、無徳至孝がこの二字の前に大の字を加えるように主張したという記録があるということです。時の後醍醐天皇は、当時としては前例の無い三字の諡号に難色を示しましたが、中国において「大法眼禅師」の諡号があることを例として、嘉歴四年(1329)、無為昭元に「大智海禅師」の諡号を賜ったということです。


さて、東光寺の山門を潜ると、正面に庫裏と本堂があります。本堂の建築年代は不明ですが、全六室で構成された典型的な禅宗様の方丈建築で、仏間には本尊の文殊菩薩像を祀り、開山の大智海禅師(無為昭元)像、中興開山の古林智教禅師像をその左右に配しています。

本尊の文殊菩薩半跏像は、像高二十二.八センチの木造寄木造りで、像の形態や玉眼嵌め入れの技法から室町時代後期の、院派系の仏師による作と考えられています。また、東光寺の創建当初は、観音菩薩を本尊としていたようですが、その後、本尊が現在の文殊菩薩像に変わった理由等は記録が残っていないために不明ということです。

また、同じく須弥壇に祀られている開山の大智海禅師(無為昭元)像は、針葉樹林を用いた像高八十三.二センチの寄木造りの玉眼嵌入の尊像です。法衣の上に袈裟をかけ、椅子(曲ろく)に座った等身大の量感ある作で、元々は、右手には払子(ほっす)か竹篦(しっぺい)を持っていた推測されています。尚、頭部には補修跡があって体部とは別の時期に作られた可能性があり、截金(きりかね)彩色が残る体部は室町時代の作、頭部は江戸時代と推測されます。
また、中興開山の古林智教像は、像高三十一.八センチで木造寄木造りで玉眼嵌入、江戸時代の作と伝わります。さらに、須弥壇の左には、現在の東光寺の寺域にあり廃絶した長慶寺の開山・直山(じさん)和尚像が祀られています。この像は像高七十二.七センチ、桧材の寄木造りで玉眼嵌入の等身大の坐像で、製作は室町時代と推測されています。

また、方丈を囲むように南と東に広がる庭園は、松や楓等の多くの木々が配され、苔とのコントラストが美しい枯山水庭園です。専門の庭師ではなく数代に渡る住職や副住職が丹精込めて造った庭ということで、東福寺山内に多い重森三玲作のアート系の庭とは違う、どこか天徳院の庭と似た優しげな庭園です。
訪れた際は、黄色いツワブキや赤くなり始めた楓等が苔や松等の常緑樹によくマッチしていました。

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