京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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前回の続きです・・・


さて、有栖館は、敷地面積が約二千百五十平方メートル(約六百五十坪)、建物部分は約三百九十二平方メートル(約百十九坪)で、構造は木造瓦葺き平屋建てになります。旧宮邸、表門(青天門)、長屋門など幕末から大正にかけての公家屋敷や高級官僚官舎の様相を今に伝えています。

邸宅は、書院造りの屋敷で、中庭を囲む「玄関棟」「住居棟」「客間棟」の三つの棟で構成されています。客間棟の西側には、床の間と付書院を備えた二畳の「上段の間」のある十二畳半の座敷があり、この間の隣には、床下に音響効果を上げるために大きな甕を埋め、「能舞台」としても使用出来る十五畳の板張りの間が続いています。

烏丸通に面した表門は、銅板と真鍮板で葺かれた豪壮な趣を持つ平唐門です。
三井一族の総長三井高保が、明治四十五年〜大正元年(1912)に邸宅の表門として新築したもので、その後、別の場所に移築したものを京都地方裁判所が購入し、昭和二十七年(1952)に、京都地方裁判所長官舎表門として現在地に移築したものです。また、同年仲秋の名月の夜、当時の裁判所所長石田寿と親交のあった歌人吉井勇が、李白の詩から字をとって「青天門」と命名したといわれていて、左右の塀と共に大正時代の門建築の作例として高い価値を持っているとされます。(門札は、今年三月二十九日、青天門門札掲揚式で掲げられた、裏千家千玄室大宗匠の筆によるものです。)

また、下立売通沿いの白い漆喰塗りの長屋門は、向かって右手に居住の出来る部屋、左手に納屋等に利用されていたと思われる部屋を抱えています。長屋門の築年月は不明ですが、長屋門形式としては最上級の構えで、築地塀と共に所長官舎屋敷の外見を構成する要素として不可欠な建築といわれているということです。

さらに、邸内にある二本の大きな枝垂桜は、まるで一本の木のように広がった枝振りを見せ、塀を越えて烏丸通に大きく張り出しています。この枝垂桜は、昭和二十七年(1952)三月、日本画家・堂本印象の発案により、醍醐寺三宝院内にあった実生(みしょう)の桜を、当時の三宝院門跡・岡田戒玉の快諾を得て移植したもので、太閤秀吉が「醍醐の宴」を催した当時の桜の孫にあたるといわれています。


さて、庭園は、平成二十一年(2009)、造園業「植治」十一代目小川治兵衞氏が「平成の植治の庭」として作庭したものです。
小川治兵衞氏の有栖川庭園作庭記というパンフレットによると、作庭前の玄関前庭は、ロータリーの中央島は小山のような樹木で覆われ石灯篭や大岩も見えない状態で、砂利が敷かれたロータリー部分は芝生や雑草が繁茂する平野地状態だったということです。

元々、かつては、馬や馬車で出入りする場合は、長屋門から玄関に着いて、中央島・車馬回しを転回して長屋門西横の馬小屋に入っていました。また、一般には、客は正門(青天門)から出入りし、その場合は、客に直接車寄せ玄関が見えないように、中央島が目隠しの役割を果たしていました。
そこで、今回の作庭では、中央島に客土を行い、埋まっていた縁石を上げ石を補足し、また、繁茂していた木々を移植し、代わりにサツキや這柏槙、黒松を植栽しました。さらに、青天門の南側の楓島、北側の桜島に各々一株を植栽して客土と土地改良を行い、青天門を中心に左右対称となるようにサツキとツツジを植栽し、砂利部分の雑草を取り除き洗砂利を全体に撒きました。
全体として、新しい時代を先取りした有栖川家の玄関に相応しいように、明治という時代の偉人達の度量や公家の品格と空間をイメージして作庭したということです。また、青天門の両側の桜と楓の丘には、治兵衞氏自身が「立ち話ではなんですさかい」と命名した、かつては石橋だったベンチ代わりの景石が据えられました。


書院庭は、高床の縁側で横幅が広く奥行きが狭い平面庭のために、奥の土塀や見え隠れする外の建物が視界に入ってしまうので、出来るだけ目線を手前の庭でどこまで留められるかが作庭における主要なポイントになったようです。
元の庭は雑草で覆われていましたが、作庭された当時の公家の暮らしぶりが理解出来る庭で、配置されていた石類はどれも自然石ではなく加工された切石や廃材を苦心して再利用したものでした。材料不足から中途半端に終わっている個所が多かったようですが、大振りの飛び石が豪胆に配置されているなど、幕末から明治維新にかけての力強い歩みが感じられるものだったということです。

そこで、まず、庭の半分以上を独占していた萩を撤去移植し、庭全体の地面の高さを客土して二十五〜三十センチ上げ、以前から配置されていた石や飛び石はそのまま上に上げて配置し直しました。また、滝や振り蹲踞の未完成の部分を出来るだけ当時の手法で補足しました。以前から植栽されていた紫蘭、春蘭、藪蘭、熨斗目蘭、クチナシ、姫クチナシ、サツキ、流水を表す白川砂、キリシマ等を補植し、また、建物と庭の一体化として袖垣を東西に新たに設け、縁使いの蹲踞と振り蹲踞に水道を配管して水の流れを造り実際に使えるようにし、全体として明るく優しい庭園として生まれ変わったようです。

また、中庭には、昨年平安女学院が源氏物語千年紀として育てたフジバカマを十株玄関庭からこの中庭で育てるために、中庭に花壇庭を造りました。東征大総督として江戸城を無血開城させた、いわば日本における最後の武将ともいうべき有栖川熾仁親王をイメージして、桃の節句に因んでシダレモモ(垂桃)を中央に植樹し、また殿上人の花壇というところから、雲の上の人にかけて雲型壇を造ったということです。

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京都御苑の下立売御門の西、京都市上京区烏丸通下立売西入ル五町目町には、南側の平安女学院京都キャンパスと通りを挟んで古い公家屋敷の風情が残る建物があります・・これが平安女学院の教育施設「有栖館(ありすかん)」です。

この「有栖館(ありすかん)」は、江戸時代に京都御所の建礼門前に建てられていた有栖川宮邸の建物を母体としています。明治維新の後、有栖川宮旧邸は、明治六年(1873)から一時、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月に現在地に移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所所長官舎として使用されていました。そして、平成二十年(2008)八月、隣接する平安女学院が大学の教育施設として所得して庭園等を整備し、今年(平成二十一年)の春から期間限定で特別公開されるようになりました。(今回は秋十一月一日〜八日の特別公開)

(尚、平安女学院といえば、赤レンガの聖アグネス教会(明治三十一年(1898)に、アメリカ人建築家ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーの設計によって建造された明治時代の教会で、京都市指定有形文化財に指定されています)も有名です・・数年前にブログパート1で京都御苑周辺の建物として少し写真を掲載した記憶があります)


さて、有栖川宮家は、寛永二年(1625)十月、第百七代・後陽成天皇の第七皇子・好仁親王(よしひとしんのう 1603〜38)によって創設されました。
当初は親王の祖母になる新上東門院の御所高松殿に由来して、高松宮と称しました。高松宮好仁親王には嗣子が無かったため、甥の良仁親王(ながひとしんのう 後水尾天皇の皇子で、後の後西天皇)に娘の明子女王を嫁がせて養嗣子とします。寛永十五年(1638)、好仁親王は三十六歳で薨去し、高松宮第二代を継承した良仁親王は、花町宮(はなまちのみや)と号しましたが、兄の第百十一代・後光明天皇が二十二歳で崩御すると、良仁親王は、同帝の養子になっていた弟の識仁親王(後の霊元天皇)が生後間もないことから、承応三年(1654)、識仁親王が成長し即位するまでの中継ぎとして即位します。(後西天皇)

そのため、寛文七年(1667)、天皇は自分の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう 1656〜1699)に高松宮を継がせました。幸仁親王は寛文十二年(1672)に有栖川宮に改称し、元禄十二年(1699)薨去します。その後、王子の正仁親王(ただひとしんのう 1694〜1716)が有栖川宮を継承しますが、享保元年(1716)に嗣子の無いまま二十歳で早世し、霊元天皇第十七皇子の職仁親王(よりひとしんのう 1713〜1769)が有栖川宮を継承しました。以後、第六代・織仁親王(おりひとしんのう 七代・韶仁親王(つなひとしんのう 1785〜1845)、八代・幟仁親王(たかひとしんのう、1812〜86)と継承されます。


さて、有栖川宮家といえば、幕末から明治時代にかけて九代・熾仁親王(たるひとしんのう 1835〜95)や十代・威仁親王(たけひとしんのう 1862〜1913)が歴史の表舞台で活躍したことで知られます。特に、九代・熾仁親王は、明治新政府の総裁、東征大総督として江戸を無血開城させ、和宮の元婚約者でもあったことでも有名です。

熾仁親王は、天保六年(1835)二月に、第八代幟仁親王の第一王子として誕生し、幼名を歓宮(よしのみや)といいました。
嘉永二年(1849)二月に、四歳年上の第百二十一代・孝明天皇より、熾仁(たるひと)の名(諱)を賜って親王宣下を受けました。親王は、嘉永四年(1851)、十七歳の時、孝明天皇の命で、皇妹・和宮親子内親王(十一歳)と婚約しますが、万延元年(1860)、幕府と朝廷の関係強化を図る公武合体政策を進める幕府大老・井伊直弼が、朝廷に関白・九条尚忠を通じて和宮の将軍家降嫁を願い出ます。当初、孝明天皇は和宮が関東に行くのを嫌っている、また既に有栖川宮家と婚約していること等を理由に却下しますが、幕府はその後も重ねて奏請します。
悩んだ孝明天皇は、侍従・岩倉具視の意見を採り上げ、攘夷を実行することを条件に、和宮降嫁を認めるという勅書を出し、幕府がこれを受け入れたことから、和宮は十四代将軍・徳川家茂と結婚することになりました。そして、同年八月、九条関白が有栖川宮邸で父・幟仁親王と面談し、婚約の猶予(婚約辞退)が決定されました。こうして、兄帝に説得された和宮は、文久元年(1861)十月に江戸へ向かって出立しました。

さて、尊攘論者の熾仁親王は、この頃から、朝廷における親長州派の中心人物となっていきます。特に、八月十八日の政変の前後から、親王は、宮家家臣を通じて長州藩士達と度々接触して関係強化を図り、元治元年(1864)五月には、熾仁親王は父・幟仁親王と共に国事御用掛に任命されて朝政に参画しました。しかし、過激な尊王攘夷論を主張する親王は、公武合体派の中川宮朝彦親王らと対立し、幕府との融和を図る孝明天皇からも警戒されていきます。そして、文久三年(1863)の八月十八日の政変によって、尊攘派公家や長州藩が京都を追われ、禁門の変で長州軍が敗退すると、親長州派の熾仁親王も父・幟仁親王と共に国事御用掛を解任され謹慎・蟄居を命じられました。

その後、慶応三年(1867)に、明治天皇が即位すると、幟仁・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれました。また、この年、熾仁親王は徳川貞子(徳川斉昭十一女、慶喜の妹)と婚約しています。親王は、王政復古のクーデターにより新政府が樹立されると、最高職の総裁に就任じられ、慶応四年(1868)の幕府軍との開戦後は、討伐軍の総司令官である東征大総督となる事を自ら願い出て勅許を得ます。

西郷隆盛等を従えた親王率いる新政府軍は、東海道を幕府軍の抵抗を受けることなく進軍して、四月十一日に江戸の無血開城に成功しました。また、この進軍の際、長州藩の品川弥二郎の作詞、大村益次郎の作曲の日本初の軍歌といわれる「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」が歌われたことは有名です。「宮さん(=有栖川宮熾仁親王)宮さん、お馬の前に ひらひらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレ トンヤレナ・・・ (以下略)」

その後、熾仁親王は、明治三年(1870)に兵部卿に就任、この年、徳川貞子と結婚します。翌四年(1871)に福岡藩知事に就任しますが、明治五年(1872)福岡赴任中に、貞子が二十三歳で病死し、親王は明治六年(1873)、旧越後新発田藩主溝口家養女・薫子と再婚します。
明治九年(1876)に元老院議長に就任し、明治十年(1877)の西南戦争では征討総督として反乱を鎮圧し、その功によって西郷隆盛に次ぐ史上二人目の陸軍大将に任命されました。その後も皇族内野の重鎮として崇敬されて、各国を歴訪するなどし、明治二十七年(1894)の日清戦争の際には、陸海軍の総司令官に就任します。しかし、腸チフスを発病し、兵庫県神戸市垂水区の有栖川宮舞子別邸で静養し、明治二十九年(1896)一月十五日に六十一歳で薨去し、国葬が行われました。


その後、栖川宮家を継承したのは、異母弟にあたる威仁親王(たけひとしんのう、1862〜1913)です。威仁親王は、文久二年(1862)に、宮家八代・幟仁親王の第四王子として誕生し、幼名は稠宮(さわのみや) といいました。十二歳の時、明治天皇から海軍軍人となるように命じられ、明治七年(1874)に海軍兵学寮予科に入学します。明治九年(1876)に加賀前田家の前田慰子と婚約します。

兄の熾仁親王には未だ継嗣が無く、明治十一年(1878)、熾仁親王は、十六歳の稠宮(威仁親王)を養子として有栖川宮家の後継者にすることを明治天皇に願い出ます。こうして、同年八月、稠宮は威仁の名(諱)を賜って親王宣下を受け、兄熾仁親王と親子の儀式を取り交わしています。海軍士官の道を歩んだ親王は、明治十三年(1880)に少尉に任ぜられ、前田慰子と結婚しました。その後、明治十三年(1880)からイギリスのグリニッジ海軍大学校に三年間留学して明治十六年(1883)に帰国し、その後大佐に昇進。明治二十八年(1895)に、兄・熾仁親王の薨去によって有栖川宮家を継承します。明治三十七年には海軍大将に進級しますが、明治四十一年(1908)、父に倣って海軍軍人を目指していた長男の栽仁王(たねひとおう)が、二十歳で病死した衝撃もあって体調を崩し、その後は、兵庫県神戸市垂水区の宮家の舞子別邸で静養に入り、大正二年(1913)七月、五十二歳で薨去し、元帥府に列せられました。

威仁親王には、生後間もなく早世した績子女王(いさこじょうおう)、二十歳で独身のまま亡くなった栽仁王(たねひとおう)の他に、実枝子女王(みえこじょうおう 徳川実枝子)がありましたが、男系の後継者が絶えたことにより、有栖川宮家は皇室典範の定めによって断絶が確定しました。そして、大正十二年(1923)二月に熾仁親王妃董子、同年六月に威仁親王妃慰子が相次いで薨去したことにより、有栖川宮家は正式に絶家となりました。

尚、威仁親王の次女・実枝子女王は、明治四十一年(1908)公爵・徳川慶久(十五代将軍徳川慶喜の七男)に降嫁し、高松宮宣仁親王妃となった喜久子や徳川慶光らを産んでいます。そして、その後の有栖川宮家の祭祀は、喜久子が嫁いだ大正天皇の第三皇子・光宮宣仁親王に継承され、宣仁親王は有栖川宮の旧称である高松宮の宮号が与えられました。



さて、初代好仁親王の時代以降、有栖川宮家の邸宅は、現在の京都御所の北東、猿ヶ辻付近に位置していましたが、幟仁・熾仁親王父子が蟄居を命じられていた慶応元年(1865)に、御所の拡張用地として召し上げられ、代わりに、京都御所の建礼門前、御苑の中央近い地(現在、この地には「有栖川宮邸跡」の碑があります・・ブログパート1の京都御苑を参照)に移りました。

その後、明治五年(1872)に、幟仁親王が東京へ移ることになったため、宮家邸宅の土地家屋は京都府に引き渡され、明治六年(1873)から一時、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、明治二十四年(1891)三月に民有地だった現在地を買い上げて移築され、平成十九年(2007)まで京都地方裁判所の一部、所長官舎として使用されました。そして、宿舎が移転したことに伴って、平成二十年(2008)八月、隣接する平安女学院が大学の教育施設として所得しました。
平安女学院では、今年(2009)から、茶道、華道、香道、着付けの授業や市民講座の開催、観光センターの設置など国際観光学部としての取り組みとともに、他の学術・文化分野を代表する機関や組織と連携しながら、広く学生・市民を対象とした京都文化と日本の伝統文化の研究・教育・情報発信を行う拠点として活用していくということです。

次回に続きます・・・

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