京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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岩屋寺その2

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さて、岩屋寺の続きです・・


岩屋寺では、拝観料を払うと、係の女性の案内で本堂や収蔵庫等の寺宝を拝観できます。
本堂に安置されている秘仏の本尊・不動明王立像(五十年に一度の開帳で、平成二十年に開帳しています)は、智証大師円珍作と伝えられるもので、大石良雄の念持仏だったといわれています。
また、本尊の横には浅野内匠頭他、四十七士の位牌を祀っています。義士達の戒名には「刃」と「剣」の文字があり、「刃」は切腹、「剣」は討ち入りに参加した事を表しているということです。


本堂と軒続きの収蔵庫には、浅野内)匠頭長矩肖像画、大高源吾が使用した木刀、源吾直筆の竹図掛軸、大石良雄と子の主税が用いた二つの机、大石の銭函、大石直筆の書状、大石使用の膳椀、討ち入りに用いられた槍、等の多くの赤穂義士の遺品を所蔵しています。
これらの大石良雄の遺品の一部は、大石が討ち入りのため江戸へ向かった際に、死を覚悟して旧邸に残していた遺品分配に関する目録に基づいて、後に岩屋寺と大石の親類で山科の土地を世話した進藤家に分配されたものということです。


また、毘沙門堂(木像堂)は、明治三十四年(1901)に建立されたもので、毘沙門天の前に安置されている四十七士の木像は、討ち入り前に大石良雄の指示で作られたとされ、討ち入りの数十年後に大石良雄の縁者によって奉納されたといわれます。(案内の方によると、大石は討ち入りの同志たちの死後のことまで考えることの出来る優れた人物で、義士達の行いを後世に伝えるためにこの木造を作らせたということです。そして、これが、後に多く作られた赤穂義士像の基となったオリジナルの像ということです)また、東郷平八郎元帥書「赤穂義士」扁額が架けられています。


境内にある茶室「可笑庵」は、この地にあった大石の旧邸の約三百年前の古材を用いて昭和五十八年(1981)に建造されたもので、水屋を含めて四室で構成された茶室の梁や鴨居の一部がこの古材の再利用で造られています。その後、茶室周辺は拡張整備され、茶庭三日庭が作られ、露地には鞍馬石が用いられています。この茶室は、現在も毎週土曜日の裏千家流庵主指導のもとに茶道教室が開かれるなど茶会で用いられています。また、「可笑庵」の前にある老いた梅の木は、大石良雄が討ち入り前に植えたお手植のものとされます。

さらに、「可笑庵」の横には、大石がこの地に祀ったという弁財天社があり、ふと傍の灯篭を見ると、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん 1873〜1916)の名前が刻まれています。
大石神社創建に関わった吉田奈良丸と並んで、明治時代の浪曲師として一世を風靡した雲右衛門は、宮崎滔天(私が大学時代に非常に関心が有った人物でもあります)が弟子入りしていていたことでも知られる人物で、現在の浪曲スタイルを確立しました。雲右衛門も赤穂義士伝を得意としていたこともあり、赤穂義士の偉業を讃えて灯篭を奉納したもののようです。(写真)



本堂手前の石段下には、左(南)に大石稲荷大明神社があり、門前から参道にかけて広い敷地が広がります。敷地の北端にあるのが、討ち入り後に一人生き延びたと伝わる足軽・寺坂吉右衛門が持ち帰った大石良雄の遺髪を祀ったと伝わる大石良雄遺髪塚です。
討ち入りの後、大石の命を受けた寺坂吉右衛門は、討入の報告や大石の遺品の処置を伝えるために山科に戻ったとされ、その際に大石の遺髪も届けられたと伝えられます。現在の大石良雄遺髪塚は、元々は大石良雄旧址碑として安永四年(1775)に大石の信奉者の宮部義正・上田正並によって建てられたものですが、後に遺髪塚として転用されたようです。

また、敷地の大部分は寺域から外れ公園化していますが、かつて宅地化していたのを、史跡保存のため市が所得し整備したもののようです。大石は、この敷地の一町四方に邸宅を造成したとされ、敷地内の新しい十三重塔の傍に明治三十四年(1901)に建てられた「大石良雄君隠棲旧址」の石標があります。
また、この広場には数多く歌碑や句碑が点在しています。


最後に、岩屋寺の行事としては、四月十四日に浅野内)匠頭・義士追善法要が行われます。
また、大石神社を採り上げた時により詳しく書きましたが、十二月十四日には義士祭が盛大に行われ、「山科義士まつり」として知られる討ち入り当時を再現した行列一行が岩屋寺に参拝に訪れ、収蔵庫の遺品も一般公開されます。

岩屋寺その1

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前回に採り上げた大石神社のすぐ南、なだらかな坂道の上に位置するのが、山科区の数少ない観光寺院の一つ、岩屋寺(いわやじ)です。
岩屋寺は、別名「大石寺(おおいしでら)」とも呼ばれる尼寺で、近畿三十六不動尊の第二十四番霊場、三十六尼寺めぐりの一寺でもあります。境内に忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)の住居跡があることで知られます。
(山科区には毘沙門堂、勧修寺、随心院といった四季の花々を楽しめる京都を代表する有名観光寺院がありますが、岩屋寺は観光地としての知名度ではまだ地域限定かもしれません。しかし赤穂義士関連としては全国でも必見クラスの史跡の一つでしょう。)

山門を入った本堂周辺はそれ程広くは感じませんが、境内の総面積は、約七万九千二百平方メートルあり、その大部分は山門前の敷地や竹林等が占めているようです。
この広場の中にあるのが、大石良雄が討ち入りまでの一年余りの間、住居としていた屋敷跡で、大石良雄遺髪塚、大石良雄山科閑居址等の数多くの石碑が点在しています。また、この周囲には、桜や梅、椛も多く、長閑な里の風情を楽しめる空間となっています。そして、山裾の高台に位置しているために、山科の夜景を楽しむことも出来るということです。(以下、岩屋寺の案内表示その他で記載されている通り、本名の「大石良雄」に統一して書いてみます)



さて、京都市山科区西野山桜ノ馬場町にある岩屋寺は、正式には「神遊山金地院岩屋寺」という曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺です。
元々は、平安時代に創建され、比叡山三千坊の一つに数えられる天台宗寺院だったということですが、火災により古記録を喪失したために、寺院の詳しい歴史は不明のようです。また、かつては、隣接する山科神社(やましなじんじゃ)の神宮寺だったと伝えられています。

その後、赤穂義士・大石良雄がこの地に隠棲したことで、大石の住居に隣接する岩屋寺は、赤穂義士ゆかりの寺院として知られるようになっていきます。
(大石と山科との関わりは、大石神社を採り上げた際に書きましたが、一応、一部再掲載しておきます。)


元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内の松の廊下で、 高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷におよんだことから、将軍・徳川綱吉の命により内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶、領地没収となりました。この時、赤穂藩の城代家老・大石内蔵助良雄は、浅野家家中の意見をまとめて四月十九日に無血開城し、残務処理の後、五月十二日に赤穂を去って六月二十八日に山科の里に住居を構えました。

この山科の地には、大石良雄より先に赤穂を去っていた親類の浅野家家臣・進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしもと)が移り住んでいて、その世話でこの地を選んだと思われます。(当時、山科は近衛家の領地で、進藤源四郎の親類・進藤刑部大輔長之(しんどうぎょうぶたいふながゆき)が近衛家の家司として山科の地を管理していたことから、源四郎を通じてその援助を受けたと考えられています。)


こうして、大石良雄は、討入り前の一年有余、山科に住居を構えて、山科や京都で、しばしば同志達と会合を開いて、浅野家再興の方法を模索し、その後は吉良上野介討ち入りの準備を進めました・・・大石は、当初は討ち入りを強行しようとする江戸の急進派同志を抑えて、亡内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を立てて播州赤穂藩浅野家の再興を謀りますが、翌元禄十五年(1702)七月に、幕府が浅野長広に安芸広島藩浅野本家への預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは絶たれました。
こうして、大石は最終方針を本所吉良邸討入りに決定し、江戸の同志達と計画を進めます。大石は五月に妻子を離縁し、八月には山科を引き上げて京都四条寺町に移り、十月には江戸へと出発しました。


さて、元禄十五年(1702)十二月十四日(討ち入り決行は十五日の午前四時頃)大石内蔵助良雄以下、元赤穂藩の浪士四十七士は吉良邸へ突入しました。表門から大石良雄を大将として、片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは長男・大石主税を大将として、堀部安兵衛ら二十三名が襲撃し、約二時間の激闘の末、午前六時頃に吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げました。その後、四十七士は高輪泉岳寺の主君長矩の墓前に、その首を捧げ仇討ち達成の報告をしたのでした。
討ち入り後の赤穂義士四十六士(足軽の寺坂吉右衛門を除く)は、細川、松平、毛利、水野の四大名家に預けられ、 翌、十六年(1703)二月四日、幕府の命により、全員が切腹しました。時に大石良雄は四十五歳、義士達の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。


吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げた後、大石は、この山科の邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したと伝えられます。その後、岩屋寺は、一時は荒廃して、その後、大石の旧宅も取壊されたようですが、幕末の嘉永年間(1848〜54)に、当時の住職・堅譲尼(けんじょうに)が、京都町奉行・浅野長祚(あさのながとし)等の寄付を受けて再興しました。



次回に続きます・・・尚、今回は山門内の諸堂の写真を掲載しました、次回は大石良雄山科閑居址等、山門の外の様子を掲載します。

大石神社その2

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大石神社の続きです・・

さて、明治元年(1868)十一月、明治維新によって、京都を出発し東京に向かった明治天皇の一行は、江戸入城に先立って高輪泉岳寺前に勅書と金一封を贈りましたが、その勅書は、大石内蔵助以下の赤穂義士を表彰したもので、「汝良雄等 固ク主従ノ義ヲ執リ仇ヲ復シテ法ニ死ス 百世ノ下人ヲシテ感奮起セシム 朕深ク嘉焉賞ス」と記されていました。
これは、江戸の庶民に人気のあった赤穂義士を顕彰することで、明治天皇以下の新政府に対して、人々が忠誠心(内蔵助らを模範とした)を表明することを期待するというメッセージが込められていました。

元々、赤穂義士の討ち入りは、江戸時代から人形浄瑠璃・歌舞伎の人気題材として「仮名手本忠臣蔵」等「忠臣蔵物」と言われる人気ジャンルとなっていたのですが、幕府を憚って登場人物を太平記の歴史上の人物に置き換えていました。しかし、明治以降は、幕府を憚る必要が無くなって実名での上演が可能となり、明治天皇のお墨付きをもらったこともあって、益々民衆に支持されて上演回数を重ね、講談や浪曲、映画、文芸等の題材にもなっていきます・・・今回の大石神社の創建も、この内蔵助らの人気が背景にあったことは言うまでもありません。

そして、現在でも忠臣蔵はたいへん人気があることから、大石神社には一年を通して多くの参拝者があります。近年では、平成十一年(1999)には、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」放映に合わせ儀式殿を宝物殿に改築し、平成十三年(2001)より十五年(2003)にわたる「大石神社忠臣蔵三百年記念祭」の記念事業として、平成十四年(2002)に拝殿の銅板葺き替えを行い、参道の整備や神木の枝垂桜の整備等を行っています。



さて、本殿の左にあるのが、天野屋利兵衛を祀る末社の義人社です。
忠臣蔵に登場する天野屋利兵衛(あまのやりへい)は、大阪の本町橋に店を構えていた北組惣年寄の豪商といわれます。(京の呉服商・安田善右衛門、または綿屋善右衛門がモデルともいわれます)

利兵衛は討入りの際に赤穂義士に武器を調達し資金面でも援助しましたが、討ち入り前に準備していた武器を発見され、奉行所に捕まって拷問を受けます。しかし、赤穂義士が本懐を遂げるまでは決して白状しなかったといわれ、「天野屋利兵衛は男でござる」 の名ゼリフで知られています。
前述したように、この末社は、昭和十三年(1938)に大石神社創建に関わった吉田大和之丞が、赤穂義士を助けた義商・利兵衛を祀るために創建したもので、「商売の神様」 と言われ、現在も商売繁盛のご利益があるとして信仰されています。

(尚、前にブログに登場した地蔵院(通称「椿寺」 北区大将軍川端町)には「法正院空誉上斉善士」と刻まれた利兵衛の墓があります。また、これもかなり前にブログに掲載した「赤穂義士の寺」こと本妙寺(左京区北門前町)には、綿屋善右衛門が建立したという赤穂義士の吉田忠左衛門・子の沢右衛門と貝賀弥左衛門(吉田忠左衛門の実弟)夫妻の墓(三名の遺髪を納めます)があり、さらに、聖光寺(下京区寺町綾小路上ル かなり前に訪問したのに未だブログ登場待ち状態)には、大石内蔵助の実母・お熊の墓と共に「安田善右衛門好時」の名前で利兵衛の墓があり、寺の山門横には「天野屋利兵衛は男でご座る」の石碑があります)



さて、本殿の右にある枝垂桜は、神社の建設が認可された昭和八年(1933)から、この地に生育していた枝垂桜を整備して境内に定植させたもので、昭和十年(1935)の御鎮座の際に御神木としたものです。戦後は、その美しさで参拝者や地域の人々に親しまれ、「大石桜」と呼ばれるようになり、毎年四月の第一日曜日には「さくら祭」が催されています。「さくら祭」では、琴の演奏、武者小路千家による献茶式等が行われ、そば席や子供たちへの露店等もあります。(今回の訪問時は、桜はピーク過ぎでしたが)


また、境内にある宝物殿(無料)には、大石内蔵助良雄、小野寺十内秀和、大原源吾忠雄、中村勘助正辰の各書や、内蔵助の山科隠棲宅の欄間片、浅野内匠頭長矩の肖像画、享保十四年筆の義士四十七士図(三幅軸)、忠臣蔵横幟、四十七士図屏風、堂本印象画の山桜図陶板、吉田大和之丞(奈良丸)画の富士の図衝立、東映歴代大石内蔵助役の俳優写真等が展示されています。

大石神社の祭典・神事としては、元旦の「初詣 (歳旦祭)」、二月四日の「自刃命日祭(祭神の大石公以下四十六義士の切腹した二月4日に自刃命日祭として、慰霊神事が斎行されます)」、
四月の第一日曜日の「さくら祭」、四月十四日の春季大祭、七月の最終日曜日の「大石公山科隠棲祭(大石公が赤穂を離れ、二十八日京都山科、西野山の里に住いした日を記念するもので、平成三年より新暦に改め七月最終日曜日に夏祭として行われ、夕涼み落語会、子供たちへの露店などがあります。)そして、十二月十四日には「義挙大祭 (義士祭)」、大晦日に「大祓式」があります。


最後に、大石神社だけでなく、山科区を代表する年中行事として知られる「山科義士まつり」について書いてみます・・昭和四十九年(1574)に始まったこの行事は、山科区全学区の自治連合会と山科区地域女性連合会、山科経済同友会を中心にした実行委員会が運営し、討ち入りのあった毎年十二月十四日に行われています。

メインになるのは、華麗な時代行列です。
討入り当時を再現する四十七士による「義士行列」は、義士表門隊、義士裏門隊と二体で構成され、また、幼稚園児による四十七義士(幼児達の行列なので、距離は山科駅から三条通周辺のみ)、浅野内匠頭の妻・遥泉院をはじめとする女人列、祇園一力亭での様子を再現する婦人舞踏列等の総勢二百五十人のボランティアによる華麗な行列が、山科北山麓の毘沙門堂(以前のブログの記事を参照ください)を出発し、約六キロ先の最終目的地・大石神社へと向かいます。
また、行列途中の舞台では、東映太秦映画村の協力を得て、「刃傷松の廊下」や「切腹」「連判状改め」「討ち入り」などの芝居が行われ、女性陣による「大石音頭」、「元禄花見踊り」が華やかに行われます。

さて、行列は、午前十時に毘沙門堂を出発します。また、行列に先駆けて大石内蔵助、大石主税、遥泉院らの行列代表者が、大石内蔵助が建立した浅野内匠頭長矩の墓のある瑞光院で墓前に礼拝を行います。瑞光院の代表者と合流した行列は、山科の市街地中心部のJR山科駅や市役所を経て、西野山方面に移動し、岩屋寺で再び大石内蔵助、大石主税、遥泉院ら行列代表者が礼拝をし、最後の大石神社に午後3時頃に到着し神社に参拝します。
大石神社境内でも義挙大祭が催行され、献茶や献花、浪曲、剣舞、剣道などが行われ、参道にも多くの屋台が出て賑わいます。

大石神社その1

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京都の山科は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)が隠棲した地として知られます。(忠臣蔵には必ず山科の場面が出て来ますが、全国的にも山科といえば、大石内蔵助しか思い浮かばない人も多いと思われます。)
実際、山科区には、大石内蔵助が建立した主君の浅野長矩の墓や赤穂義士の遺髪塔のある瑞光院(ずいこういん 以前ブログに採り上げています)、大石内蔵助の隠棲地に建つ岩屋寺(いわやじ)など幾つかの史跡が残っていますが、今回の大石神社(おおいしじんじゃ)は、岩屋寺と共に山科西部を代表する観光地の一つに数えられる神社です。

大石神社は、昭和初期に創建された比較的新しい神社ですが、境内地は約二千三百坪あり、桜やもみじ等も多く植えられていて四季夫々の風情が楽しめます。特に、春には本殿前の枝垂桜「大石桜」が美しい花を咲かせることでも知られ、討入りのあった十二月十四日に行われる「山科義士まつり(山科義士祭)」も、山科を代表する観光行事として有名です。



さて、京都市山科区西野山桜ノ馬場町にある大石神社は、赤穂義士として有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)公を祭神とする神社で、赤穂義士・大石内蔵助良雄の義挙を顕彰するために、昭和十年(1935)に山科の大石隠棲の地に創建されました。

神社の創建に際して、当時の支援団体や全国の崇敬者からの援助がありましたが、特に、当時浪曲界の重鎮だった吉田大和之丞(二代目吉田奈良丸)の助力が大きかったようです。吉田大和之丞は、赤穂義士の熱心な崇敬者で、浪曲や講演等を通じて赤穂義士の義挙を称え、その武士道精神の宣揚に努力しました。そして、全国の浪曲師に働きかけて、大石内蔵助隠棲の山科に神社建設を計画しました。
これに賛同した京都府も、府庁内に京都府知事を会長とする大石神社建設会を設立し、地元にも山科義士会等の組織が作られました。そして、これら各団体や全国の崇敬者の募金活動によって、昭和十年(1935)十二月十三日に鎮座祭が斎行され、その後、昭和十二年(1937)四月に府社に昇格しています。また昭和十三年(1938)に吉田大和之丞は、大石神社境内に末社の天野屋利兵衛社を創建しています。


あまりにも有名な忠臣蔵の詳細については省略しますが、山科との関わりを中心に少し触れてみます・・・
さて、元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内の松の廊下で、 高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷におよんだことから、将軍・徳川綱吉の命により内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶、領地没収となりました。
事件の知らせで浅野家家中には動揺が走り、家臣達は篭城と開城に意見が対立しますが、城代家老・大石内蔵助良雄は、浅野家家中の意見をまとめて四月十九日に無血開城し、残務処理の後、五月十二日に赤穂を去りました。

そして、六月二十八日、内蔵助より先に赤穂を去って、山科に田地・屋敷を得て移り住んでいた親類の浅野家家臣・進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしもと)の世話で、山科に移り住みました。(当時、山科は近衛家の領地で、進藤源四郎の親類・進藤刑部大輔長之(しんどうぎょうぶたいふながゆき)が近衛家の家司として山科の地を管理していたことから、源四郎を通じてその援助を受けたと考えられています。)


大石内蔵助が隠棲したのは、山科西部の西野山の山裾の地(西野山桜ノ馬場町 大石神社の南にある岩屋寺付近)で、閑静な山里で人目につきにくいという利点がありました。また、山科は東海道の街道町として京や江戸との行き来にも便利な地で、事件の善後策を考えるのにも適していたようです。東海道は、山科北部を通っていて、西に日ノ岡を越えると京都の三条大橋に連結し、東は大津を経由して遠く江戸に至ります。また、滑石街道で京都の東山今熊野へ、稲荷山の南を抜ける大岩街道(伏見街道)で伏見へ繋がっていました。

史実かどうかについては諸説あるようですが、忠臣蔵では大石内蔵助は、吉良側の警戒の目を欺き、また情報を集めるために祇園一力亭(祇園四条花見小路)や伏見撞木町の遊郭等で遊興にふけったとされます。京都の祇園へは東海道で、伏見へは大岩街道(伏見街道)で向かうのが便利だったかもしれません・・
実際には、内蔵助が頻繁に利用したのは、すぐ東へ山を越える滑石越だったようで、遊里からの帰り道に泥酔した内蔵助がこの石で休憩したと伝えられる腰掛石(こしかけいし)が峠道に残っています。(また、今熊野にある真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺の塔頭・来迎院(前にブログに採り上げました)も内蔵助ゆかりの寺院で、境内には内蔵助が作った茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、内蔵助はこの茶室で浪士たちと密談したといわれます。こちらへも滑石街道を使って通っていたのでしょう。)

こうして、内蔵助は討入り前の一年有余、山科に住居を構えて、山科や京都で、しばしば同志達と会合を開いて、浅野家再興の方法を模索し、その後は吉良上野介討ち入りの準備を進めました・・・
内蔵助は、当初は討ち入りを強行しようとする江戸の急進派同志を抑えて、亡内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を立てて播州赤穂藩浅野家の再興を謀りますが、翌元禄十五年(1702)七月に、幕府が浅野長広に安芸広島藩浅野本家への預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは絶たれました。
こうして、内蔵助は最終方針を本所吉良邸討入りに決定し、江戸の同志達と計画を進めます。内蔵助は五月に妻子を離縁し、八月には山科を引き上げて京都四条寺町に移り、十月には江戸へと出発しました。


さて、元禄十五年(1702)十二月十四日(討ち入り決行は十五日の午前四時頃)大石内蔵助良雄以下、元赤穂藩の浪士四十七士は吉良邸へ突入しました。表門からは内蔵助を大将として、片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは長男・大石主税を大将として、堀部安兵衛ら二十三名が襲撃し、約二時間の激闘の末、午前六時頃に吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げました。
その後、四十七士は高輪泉岳寺の主君長矩の墓前に、その首を捧げ仇討ち達成の報告をしたのでした。
討ち入り後の赤穂義士四十六士(足軽の寺坂吉右衛門を除く)は、細川、松平、毛利、水野の四大名家に預けられ、 翌、十六年(1703)二月四日、幕府の命により、全員が切腹しました。時に内蔵助は四十五歳、義士達の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。



次回に続きます・・

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