京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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坂上田村麻呂の墓

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平安時代初期の武将として知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、奈良時代の天平宝字二年(758)に、武将の坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子として誕生しました。
坂上氏は渡来系の氏族で、中国の前漢(西漢)やその傍系の後漢(東漢)の流れを引くとされます。「続日本紀」「日本後紀」等によると、先祖は後漢末期の霊帝の曾孫とされる阿智王で、王は応神天皇の時代に一族を率いて日本に渡来し、大和に領地を与えられたと伝えられます。以後、武人の家系として朝廷に仕え、田村麻呂の父・苅田麻呂は、藤原仲麻呂の乱の鎮圧や道鏡の追放にも功を立て正四位下に叙せられています。


さて、若き田村麻呂は、当時、国家的な重大事となっていた陸奥国での蝦夷との戦争に加わって軍人としての名声を得ていきます。延暦八年(789)、紀古佐美(きのこさみ)率いる第一次征討軍が、阿弖利為(阿弖流為 あてるい)率いる蝦夷軍に大敗したという知らせは朝廷に衝撃を与え、大軍を動員した第二次遠征が計画されます。延暦十二年〜十三年(793〜794)、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍として十万の軍を動員した第二次遠征に、田村麻呂は征東副使として軍を指揮することになりました。この戦役の詳細は不明ですが、田村麻呂が中心となって一定の成果を挙げたようで、その功によって、田村麻呂は、延暦十五年(796)に、陸奥出羽按察使兼陸奥守、鎮守府将軍に任じられました。そして、翌延暦十六年(797)十一月に、征夷大将軍に任じられて、第三次征遠征の主将として遠征を準備します。


延暦二十年(801)、田村麻呂は、約四万の軍を率いて蝦夷の抵抗拠点となっていた陸奥国胆沢地方に遠征し、翌二十一年(802)正月に、同地に胆沢城を築きました。やがて、拠点を制圧された蝦夷軍は抵抗を断念し、同年四月、蝦夷首長の大墓公(おおものきみ)阿弖利為(阿弖流為)と盤具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)ら五百余人がついに降伏しました。七月に田村麻呂は、降伏した阿弖利為と母礼を従えて京へ戻りました。
田村麻呂は、「今回は、阿弖利為達の希望をかなえて帰郷を許し、まだ帰属していない蝦夷を懐柔させようと思います。」と申し出ますが、公卿らは、「蝦夷らは、野蛮で約束を守らない。たまたま朝廷の威厳で捕らえたこれら族長を、彼らの願いを聞き入れて陸奥へ帰すのは、所謂、虎を養って禍を後にもたらすのと同じです。」と主張し、結局、八月、阿弖利為と母礼は、河内国植山(椙山・杜山とも)で斬られました。

その後、田村麻呂は、延暦二十三年(803)正月に再び征夷大将軍に任じられて、同年、志波城を造営しますが、長年に及ぶ東北遠征は、完成途上の平安京造営と共に、国家財政を悪化させ、多くの人民の疲弊を招いていました。延暦二十四年(805)十二月七日、今後の国家政策について参議・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがのまみち)が論議し、緒嗣は、「現在の天下の人民が苦しんでいるのは、軍事(東北遠征)と造作(平安京造営)なので、両方を中止すれば、百姓は安楽となりましょう。」と提案します。これに対して、菅野眞道は反対しますが、桓武天皇は、緒嗣の意見を採用して、軍事と造作を停止しました。

こうして、新たな東北遠征は中止となりましたが、田村麻呂は、延暦二十四年(805)六月に参議に列し、大同元年(806)三月の桓武天皇の崩御の際は、ショックを受けて立つことが出来ずにいた皇太子(平城天皇)を支えて付き従っています。さらに、同年四月に中納言、大同二年(807)に中衛府改めた右近衛府の大将、弘仁元年(810)に平城上皇から平城遷都のための造宮使に任じられます。また、同年の「薬子の変(平城太上天皇の変)」では、嵯峨天皇より大納言に任じられて、兵を集めるために東国へ向かおうとする平城上皇軍を美濃道で阻止して乱の鎮圧に功を挙げています。また、仏教への信仰も深く、清水寺を創建したという伝承でも知られます。


さて、田村麻呂は弘仁二年(811)五月二十三日に、晩年を過ごした粟田別業で五十四歳で病死しました。嵯峨天皇は一日喪に服し、従二位を贈りました。二十七日、嵯峨天皇は、山城國宇治郡栗栖村に墓所を造営させ、葬儀の際は、勅命により遺骸は、甲冑兵仗等武具を身に付けた姿で、都のある東を向いて立ったまま葬られたと伝えます。これは、死後も田村麻呂が都を鎮護することを期待したものと考えられ、「群書類従」は、その後、国家の非常時には田村麻呂の塚の中で、鼓を打つか雷電のような大きな音がしたと記し(將軍塚鳴動といわれたという)、将軍に任命されて征伐に向かう者は、この墓に参詣して誓願したということです。



「日本後紀」によると、田村麻呂は、赤ら顔で黄色っぽい鬚を生やし、勇気や力は人に優れて将軍としての力量が有り、桓武天皇から勇壮な人物だと評されて征夷大将軍に任命されました。ただ、夷地と京との往復の間は無数の従者が付き従ったため、路次となる諸国は人馬を提供しきれず経費は莫大なものであったとも記し、辺境の軍事活動では、出陣する度に功があり、寛容な態度で兵士を処遇し兵に死力を尽くさせたということです。

「群書類従」は、その身体特徴等を詳細に記します・・大将軍は身長が丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸あり、目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸のようだったとします。その行動は機に応じて敏捷で判断力に優れ、怒って眼を廻らせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐに懐くほどであり、真心に溢れ、強い意思があったと記します。武勇は人を超え、辺境でその武を輝かせ、さらに、「帷帳(とばり)の中で策をめぐらせ、千里の外に勝ちを決する」と「史記」から引用し、漢の張良・簫何の軍略奇謀を持っていたと賞賛しています。

こうした伝承からか、田村麻呂は、生前だけでなく後世にも多くの崇敬を集め、日本史上で最初の伝説的な名将といえる存在となりました。田村麻呂以前にも、古代の戦乱で武人達が活躍しましたが、田村麻呂のように、様々な伝説を生んで武人のシンボル的な存在として讃えられた人物はいなかったようです。
平安時代以降の軍記物等には、田村麻呂の名前は、まず勇将の嚆矢として出てきます(「本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊獪、張良は武勇といへども名をのみ聞きて目には見ず」(義経記)、「馬の上、歩射、弓矢、打ち物取つてはすべて上古の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣といふとも、これにはいかでか勝るべきとぞ人申しける」(平家物語)、「異朝のことは伝聞計なり。わが朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ばず・・」(梅松論読み下し)等・・




さて、近年、京大大学院文学研究科の吉川真司准教授の文献調査によって、山科区にある「西野山古墓(にしのやまこぼ)」が、坂上田村麻呂の真墓であることが判明したというニュースが伝えられました。

それによると、田村麻呂が創建したと伝えられる清水寺に残る「清水寺縁起」の中に墓の位置を特定させる文言があったということです・・縁起にある弘仁ニ年(811)十月十七日付の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題中に、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言が記されていて、この場所を平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合してみると、現在の山科盆地西部の西野山岩ケ谷町にあたることがわかりました。
この地には、「西野山古墓」があり、この古墳は、大正八年(1919)に偶然墓穴が発見され、木棺内部から純金で装飾された大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土していました。古墳の建造時期は、八世紀後期〜九世紀前期と考えられ、時代的にも坂上田村麻呂の時代と一致し、また被葬者が高位の武人であることを推定させる豪華な副葬品からも、坂上田村麻呂の墓と特定したということです。


これまで、西野山古墓は、周辺が中臣氏の根拠地という点からその一族の墓と推定されてきましたが、一部に坂上田村麻呂の墓という説も出されていたようです。そして、今回の調査により、田村麻呂の真墓の可能性が高くなったのかもしれません。ただ残念なことに、この古墓は、竹薮に覆われて近寄ることも出来ず、京都から山科に抜ける滑石街道の急カーブ地点の道路脇に僅かに「この付近、西野山古墓」と記す石標があるのみで、ブログに採り上げるには難しいという印象です。




さて、この西野山古墓から南東約一.五キロ、山科区勧修寺東栗栖野町にある今回の「坂上田村麻呂の墓」についてです。

京都市営地下鉄東西線の椥辻駅から西へ向かうと、勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂公園」という児童公園があり、公園の面積の約半分が坂上田村麻呂の伝承墓として整備されています。
この墓は、明治二十八年(1895)四月に京都市が開催した「遷都千百年紀念祭」行事の一環として整備されたものです。

「遷都千百年紀念祭」は、桓武天皇を顕彰する祭典で、桓武天皇が平安京の大極殿で始めて正月の拝賀を受けた延暦十五年(796)から千百年目に当たることを記念して企画されたもので、幕末の戦争の影響と明治の東京奠都で人心が沈みがちだった京都の人々の誇りを取り戻すための大イベントでもありました。記念祭は、有栖川宮熾仁親王((ありすがわのみやたるひとしんのう)を総裁(後に小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)と交替)に迎え、全国から莫大な寄付を集めて国家的な行事として行われました。
この時に、平安宮朝堂院正殿の大極殿を模した平安神宮が創建され、紀念祭の余興として行われた時代行列は、翌年以降「時代祭」として京都の三大祭へと発展していきます。また、実測によって羅城門遺跡(南区唐橋羅城門町)や大極殿遺跡(上京区千本丸太町上る)の位置を特定して石標が建てられ。その他三十一件の桓武天皇ゆかりの寺社や史跡の整備保存が行われました。今回の坂上田村麻呂の墓もこの時に修繕整備されたものです。


「坂上田村麻呂公園」にある建碑の当時の京都府知事・渡邊千秋筆の碑文によると・・
古来、創業や中興の業績高い天皇は、天皇自身の聰明さだけはなく必ず有能な側近がいるとして、神武天皇に可美真手命(うましまでのみこと)と道臣(みちのおみ)が、天智天皇には藤原鎌足と阿部比羅夫がいたように、桓武天皇には、三代の天皇に仕えた老臣・和気清麻呂と、蝦夷鎮圧により東国の防禦を確固たるものにした坂上田村麻呂がいたと記します。

そして、坂上将軍が没した時、嵯峨天皇は哀悼のあまり一日政治を廃し、山城国宇治郡栗栖のこの地に墓地を賜い、棺の中に立たせ平安京を向いて埋葬し、以後、将軍達は出陣の時にこの墓に参詣し武運を祈った・・後世東山の將軍塚が有名となるが、本来の將軍塚はこの墓である。その墓も歳月を経て、わずかに塚が残るだけになった。そして、遷都千百年紀念祭の開催に際し、宇治郡民は将軍の偉業を懐しんで墳墓を整備し参道を造り、これを知った宮内省を通じて明治天皇から助成が寄せられた。宇治郡民は感激し、記念の石碑を建立し坂上将軍の偉業を後世に伝えようと考えた・・と記しています。


石の玉垣に囲まれた高さ約一.五メートルの円墳「坂上田村麻呂の墓」からは、田村麻呂の生きた平安時代というよりも明治時代を感じます。明治は、過去の歴史上の人物を顕彰して、多くの史跡を整備した時代です。現在の整備された天皇陵と同様、この墓にも明治という時代の要求が生んだ近代史跡の雰囲気がどことなくあります。ただ、もし現在の天皇陵より学術的に証明された真陵が発見されても、現在の天皇陵が無くならないように、西野山古墓が本物の田村麻呂の墓だとしても、この墓も地域のシンボル的な史跡として残っていくでしょう。

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