京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市右京区嵯峨朝日町、観光名所として知られる車折神社の東にある正定院(しょうじょういん)は、本尊歯仏阿弥陀如来を祀る浄土宗捨世派寺院です。
創建は、室町時代末期の天文年間(1532〜2-55)で、 称念上人を開基とし、この洛西下嵯峨の豊かな大材木商・福田三郎左衛門家久が、同じくこの地を領していた大八木家と共に建立したということです。幕末に関心がある方には、長州藩のために尽くした幕末の勤皇家、福田理平衛の墓があることで知られるお寺です。ただ、墓地には歴代福田家の墓が多く、福田理兵衛の戒名「養源院理誉治徳湛和居士」を目当てにしないと見つけることは難しいと思われます。


福田理兵衛(ふくだりへい 1814〜1872)は、文化十一年(1814)、この洛西下嵯峨の裕福な材木問屋の家に誕生し、村の庄屋・総年寄として村を治めました。その後、文久二年(1862)、理兵衛が天竜寺の御用達商人でもあったことから、長州藩が理兵衛に天竜寺の借用の仲立ちを依頼してきました。理兵衛は親しくなった長州藩のために便宜を図り、天龍寺と交渉して全山塔頭二十四ヶ寺を借入することが出来ました。この功から、文久三年(1863)以後、理兵衛は長州藩御用達人として京都の藩の経理一切を任されるようになります。この時、理兵衛は「長(州)に奉ずるは 即ち国に奉ずるの道なり」と長州藩と運命を共にする決意をしたといわれ、私財を投入して経済面で長州藩を支援しました。

薩摩藩・会津藩等の公武合体派が長州藩の尊皇攘夷派を京都の政界から追放した同年「八月十八日の政変」が起こると、京都に潜伏した桂小五郎等を支援します。元治元年(1864)六月の蛤御門の変の際は、理兵衛は子の信太郎と共に長州軍に加わり食料や武器などを調達しますが、長州軍は敗北し、理兵衛は大阪を経由して海路長州へ逃れました。その間、理兵衛の下嵯峨の家は、薩摩兵等によって家屋敷を破壊されて火をつけられて燃やされ、家産道具一切は没収されて競売にかけられました。


慶応元年(1865)、理兵衛は長州藩士に列せられ、隠居後は子の信太郎が藩士に取り立てられました。そして、明治元年(1868)、理兵衛は、ようやく四年ぶりに京都の下嵯峨の里に立ち寄りましたが、旧家は既に無く、明治五年(1872)になって、京都に戻って家を再興しようと計画しますが、計画を果たせないまま同年四月に防府宮市(山口県防府市宮市町)の自宅で亡くなりました。
その後、明治政府は、明治維新での理兵衛の功績を顕彰して、明治四十四年(1911)に理平衛に従五位を贈っています。また、大正時代に理兵衛の旧宅地に理兵衛を祀る社殿が建立されました。その後、車折神社の境内に社殿を移転して葵忠社(きちゅうしゃ)と称し、現在も、毎年、理兵衛の命日の四月十三日に「葵忠祭(きちゅうさい)」が催されています。

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