京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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嵯峨の「油掛蔵地」

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今回は、嵯峨野散策の際に寄ってみたい小さなお地蔵様です。
JR山陰本線の嵯峨嵐山駅から北東、または京福電鉄(嵐電)の鹿王院駅から真っ直ぐ北へ、それぞれ約三百メートル進むと、有栖川沿いの道路脇に小さな地蔵堂があります。これが油掛地蔵尊です。(京都市右京区嵯峨天龍寺油掛町)

京都市内では、西岸寺 (さいがんじ 伏見区下油掛町 ブログパート1参照)境内の油掛地蔵、右京区梅津の油掛地蔵等もありますが、西岸寺の油掛地蔵が京都と大阪との中継地として発展した江戸期の伏見商人の熱心な信仰を感じさせるのに対し、この嵯峨の油掛地蔵は、現在の嵯峨野の風情にマッチしていて、どこか長閑な印象があります。


この地蔵尊は、地蔵菩薩ではなく実際は阿弥陀如来像で、光背の左右に梵字で観音・勢至の両菩薩を表している阿弥陀三尊像になります。また、調査によって、鎌倉後期の延慶三年(1310)、平重行の願主で建立されたという在銘があることが判明しています(正面右上に年号月、正面左上に願主名あり)
また、大きさは、石高は約百七十センチ、石横約八十四センチ(中心幅約五十センチ)石の厚さ約四十センチあり、その中心に像高約九十センチ(頭部約二十七センチ、台座三十一センチ)の像が刻まれています。

この石仏は、石の両肩を斜めに大きく切り落とした珍しい形をしていて、厚肉彫りで胸の張りも豊かで、両肩から両腕にかけての重厚さは、鎌倉石仏の風格が感じられるということです。京都で鎌倉時代の在銘のある石仏はこの他に二体しかなく、何れも重要文化財、重要美術品に指定されていて、この油掛地蔵も重要文化財級の貴重な石仏といえます。
また、この石仏に油を掛けると祈願成就するという言い伝えは、江戸時代初期の医者で、歴史家としても知られる黒川道祐が、その著「嵯峨行程」に中に、「油掛地蔵此辺にあり 凡そ油を売る人この所を過るときは必ず油をこの像に灌いで過ぐ云々」と記していることから、約三百以上前から当時は貴重な御油(当時は行灯等のために菜種油が必要不可欠でした)を掛けて祈願した風習があったようです。

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今回は、京都市右京区の嵯峨野地区の小さな神社を掲載します。
右京区嵯峨野神ノ木町、京福電鉄(嵐電)嵐山本線の帷子ノ辻駅と有栖川駅の間の線路沿いにある神ノ木弁財天社は、電車の窓からも眺めることが出来るこの神ノ木町周辺の鎮守社です。社地は非常に狭いですが、高い木のある鎮守の森が遠くからでも目立ちます。


さて、神ノ木弁財天の由緒書き(海老名庄左座衛門の子孫、海老名正次郎書)によると、今から約三百数十年程前、この山城国(城州)葛野郡生田村の庄屋の海老名庄左座衛門という人物が、当時の比叡山無動寺の官長から霊験灼(あらた)かなる木像弁財天像を授けられて家宝として祀り、日々拝礼して誠意を込めて尽くしたということです。
その後、次代の庄左座衛門の夢枕に弁財天が現れ、目が覚めた庄左座衛門が神棚の木像を見ると、御像の指が三本折れて損なわれていました。不思議なことだと思った庄左座衛門は、弁財天像を付近の寺で払い清めた後、御性念を祓って貰うために(所謂、修理の為に御像の魂を一時抜く儀式)、嵯峨の徳林寺法主に依頼し、その後、中京通辺りの仏師に修復を依頼しましたが、仏師は、魂を抜かれたと思えない御像の霊験灼かな様子に驚いて修理を断わってしまいました。仕方なく庄左座衛門は、再び御像を持ち帰ると、今度は大本山天龍寺の官長に懇願し、御性念を祓って貰った後、前の仏師に再び修復を依頼すると、仏師は今度は快く修復を引き受けたということです。

修復された御像は再び神棚の元の位置に祀られましたが、その後、神ノ木に遷座したいという夢のお告げがあり、明治二十二年(1889)秋に、同村の安井仙之助という人物の尽力により、地主北村利一郎から私地を寄進され、神ノ木弁財天と称してこの地に祀られたということです。その後、健康増進、除災招福等に霊験灼かなことから人々に崇拝され、大正時代には、神春龍神を神ノ木地神として合祀しました。また、毎年十一月第一日曜日に御火炊祭が斎行されるということです。



さて、同じ右京区嵯峨野神ノ木町の、神ノ木弁財天から北へ約百五十メートルの所には、小竹稲荷大明神という稲荷神社があります。小さな神社ですが、境内は近くの蜂ケ丘中学の生徒の休憩時間の隠れ家的遊び場にもなっているようです。

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京都市右京区嵯峨野宮ノ元町にある阿弥陀寺(あみだじ)は、京福電車(嵐電)の有栖川駅の南東、有栖川と西高瀬川の交差する辺りにある小さな浄土宗寺院です。
阿弥陀寺では、毎年の八月の地蔵盆の際、嵯峨野六斎念仏保存会によって、重要無形民俗文化財の嵯峨野六斎念仏が本堂で奉納され、一般に公開されます。


さて、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(8、14、15、23、29、30日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。


尚、ついでですが、阿弥陀寺の直ぐ傍には、小さな大竹大明神が祀られています。(写真)

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