京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

観光名所で溢れる嵯峨野嵐山ですが、大覚寺の西側には空白地帯のように長閑な田園風景が広がり、観光客もほとんど見かけません。この広い地域一帯には、「嵯峨観空寺」という地域名(嵯峨観空寺明水町・岡崎町・久保殿町)が付けられていますが、これはかつてこの地に観空寺(かんくうじ)という大寺院があったことを表しています。

嵯峨嵐山周辺には、観空寺と同じく、大覚寺周辺を「嵯峨大覚寺門前」、天龍寺周辺を「天龍寺」、二尊院周辺を「嵯峨二尊院門前」、清涼寺(嵯峨釈迦堂)周辺を「嵯峨釈迦堂」というような大寺院の名前が取られた地域名が付けられていますが、これらの寺院が現在も観光名所として非常に有名なのに対し、今回の観空寺のみは、その地域名は残っていても実際の寺院はほとんど知られていません。


さて、大覚寺の西の田畑の中に、ぽつんと佇んでいるような小さな御堂のみが残る観空寺(京都市右京区嵯峨観空寺久保殿町)は、真言宗大覚寺派の寺院です。
平安時代の初期に第五十二代嵯峨天皇が創建し、貞観十二年(870)に官寺(定額寺)に指定されて以来、嵯峨天皇の後裔となる嵯峨源氏の菩提寺として信仰されてきたということですが、嵯峨源氏の衰退もあって、その後、中世になると荒廃しました。その後、慶長年間(1596〜1615)に後水尾天皇が一時再建しますが再び衰退して、現在は大覚寺の境外仏堂として、行基作と伝わる大寺院時代の本尊十一面観音像を祀っています。この十一面観音像は、江戸時代には洛西三十三観音巡礼の札所の一つに数えられたこともあったようです。また、江戸時代の住友家初代の住友政友(すみともまさとも)は、かつてこの地に住んで十一面観音を深く信仰していたところ、観音の夢のお告げによって、その後、住友家の財源となる伊予別子銅山を発見したという伝承があるということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

京都市右京区太秦椙ケ本町・・有名な広隆寺から南へ約三百メートル程度進むと、住宅地に挟まれて空き地のようながらんとした境内の神社があります・・これが市川神社です。
本来なら、コメントする程の神社でもないのですが、境内に由緒書きがあるので引用して書いてみます。

市川神社の祭神は、速秋津日子神 (はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)で、山王社を合殿として祀ります。
速秋津日子神と速秋津比売神は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)の御子神で、共に海の神、水戸の神で、夫婦神になります。水戸とは、水の出入りする門口、つまり港や河口等を意味していて、かつて、桂川・大堰川が何度も氾濫していたのを渡来系氏族の秦氏が太秦一帯の治水灌漑を行って農業地へと変えた際、水に縁のある二神を秦氏がこの地の守り神として祀ったといわれています。(神社は、その後、貞観十三年(871)四月従五位を授かったとします)そして、やや意味が不明な所がありますが、太秦小字大石中里の神(恐らく市川神社の意)は、山王大権現を祀り、木島神社(蚕の社)祭礼の五社の鉾の二番であるとしています。
ただ、水の神も力が及ばなかったのか、太秦村誌によると、この神社は常に泥沼の中にあって、洪水でいつも水の上に浮かんでいるような様子だったと伝えられます。また、かつては、境内の中央東南に御神木の大杉があって、注連縄が張ってあり大人五名が手を広げても及ばないほど太く、高さは三十メートルあったそうですが、大正時代後期に雷が落ちて枯れてしまったようです。また、現在の神社の形は昭和中期になってからのものということです。



また、市川神社から東南に、西高瀬川に沿って三百メートル程度歩くと、太秦藤ケ森町周辺の鎮守社、春日神社があります。
春日神社の周辺は新興住宅地で、現在も社域の右と後ろに接して住宅建設中なので、春日神社はその内、住宅に埋もれて、現在より見つけるのが難しくなりそうなりそうです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

京都市右京区山之内御堂殿町にある角坊(すみのぼう)は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が、親鸞上人が往生した地とする旧跡で、近年まで角坊別院の名前で知られてきましたが、平成二十年(2008)十一月に本願寺が吸収合併して現在は飛地境内になりました。山門周辺から境内にかけて桜が植えられ、春は華やかな雰囲気になります。


さて、鎌倉時代の弘長二年(1262)十一月二十八日(太陽暦換算1263年1月16日 浄土真宗諸派により、生没年日時を新暦に換算、若しくは旧暦の日付をそのまま新暦の日付としているので注意)親鸞上人は九十歳で入滅しました。入滅の地は、押小路(おしこうじ)南・万里小路(までのこうじ)東にある善法院(善法坊)とされます。この善法院(善法坊)の位置については諸説があり、現在の本願寺派角坊別院(京都市右京区山ノ内御殿堂町)のある地とも、中京区御池通柳馬場上る虎石町付近ともいわれています。


浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、江戸時代末期の安政四年(1857)の宗祖聖人六百回大遠忌法要にあたって、西の万里小路に当たる山ノ内の地を往生地と考証して善法院を再興しました・・これが現在の角坊(角坊別院)になります。
一方、真宗大谷派(東本願寺)は、かつて「親鸞ヶ原」と呼ばれ、江戸時代に建立された法泉寺の跡地に当たる、京都市立柳池(りゅうち)中学校付近を往生地として、柳池中学校内に「見真大師遷化之旧跡」の石標を建立しています。日本初の小学校として明治二年(1896)に創立した上京二十七番組小学校(現・柳池中学校)は、法泉寺とその墓地に建てられたものでした。また、上人ゆかりの光円寺(下京区西洞院松原右入る藪下町 花園御殿旧地)や大泉寺(下京区西洞院万寿寺上る月見町)が入滅地という説もあるようです。


その後、親鸞上人の遺体は、翌二十九日、本願寺第三世・覚如上人の「御伝鈔」よると「洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺」において荼毘にされたと伝えられますが、この場所についても諸説があります。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、鳥辺山南辺に「延仁寺」があったとして、清水寺の南、現在の大谷本廟(西大谷)北東にある「御荼毘所」で荼毘に付されたとしています。
一方、真宗大谷派(東本願寺)は、前にブログに採り上げた延仁寺(京都市東山区今熊野総山町)で荼毘に付されたとしています。遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」に簡素な石塔を建てて納められましたが、文永九年(1272)に上人の末娘の覚信尼や門弟達が、大谷の西に廟堂を建てて遺骨を移し御影像を安置しました・・これが大谷廟堂(おおたにびょうどう 大谷影堂)で、その後、本願寺へと発展します。(廟堂は、江戸初期の本願寺分立によって、清水寺の南に位置する本願寺派(西本願寺)の大谷本廟(西大谷)と、円山公園の南に位置する大谷派(東本願寺)の大谷祖廟(東大谷)に分立)



尚、今回、角坊の写真を掲載しましたが、真宗本願寺では、宗祖親鸞の七百五十回大遠忌を控えて、早ければ今年から角坊の旧建物を取り壊し、境内地を整備する予定ということです。そうなると旧建物はこの写真が見納めになると思われます。
予定では、僅かにに現在の山門、鐘楼を残して、老朽化した本堂、元本堂、寺務所、客殿、書院等七件の建造物の取り壊しを予定していて、その後、本瓦葺きの本堂、寺務所・集会所と渡廊下といった三棟の建物を新築し、また参道と境内地を整備するということです。

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事