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大悲閣(千光寺)の続きです。
さて、最晩年になって、了以は大悲閣(千光寺)に隠棲しました。この頃には既に病気を患っていたようです。ただ、実現しませんでしたが、琵琶湖の水位を下げることによる新田開発や、琵琶湖と京都間の水路の開削、勢多川と宇治川間の水路の開削等を計画していたとも伝えられます。そして、慶長十九年(1614)三月、富士川の河岸が崩れ舟の運搬にきたしたために、幕府から了以に河岸修繕の命が下りますが、了以は病気のために動けず、子の素庵を代理として派遣します。そして、素庵が富士川の工事を完了する直前、同年七月十二日に、了以は六十一歳で亡くなりました。
尚、父の協力者だった長男の素庵(すみのくらそあん 1571〜1632)も、実務に専念して家業の業績を上げる傍ら、儒学を藤原惺窩に、書を本阿弥光悦に学んで、儒学者・芸術家としても活躍し、光悦と共に「寛永の三筆」のひとりにも数えられました。家業を子に譲って引退した晩年には、古活字の嵯峨本(角倉本)を制作したことでも知られ、江戸時代でも屈指の文化人の一人とされます。(尚、角倉家宗家は、素庵の息子(玄紀・巌昭)の代に、高瀬川の舟運を管轄する京角倉家と、大堰川の舟運を管轄する嵯峨角倉家に分れて明治に至ります。)
また、角倉家の一族の和算家、吉田光由(よしだみつよし、1598〜1672)は、寛永五年(1628)に、日本初の算術書「塵劫記」を出版した人物として知られ、この「塵劫記」は、日本の数学入門の模範書として、その改訂版や類書は明治時代まで続くベストセラーとなりました。
この関係で、大悲閣(千光寺)は、そろばん上達の寺ともいわれ、最近では数学理数上達の寺としても知られるということです。
さて、大悲閣(千光寺)は、本堂が十数年前の台風で倒壊して以来、境内は長らく荒れ放題な状態が続いていました。元々、大悲閣(千光寺)には檀家が無く有名な観光寺院でも無いために、その維持管理は大変だったのですが、さらに台風の大被害が追い討ちとなってしまったのでした。
当時の御住職が高齢で病気がちなこともあって、再建はほとんど進まず、拝観も中止となってしまいましたが、その後、現在の若い御住職が引き継いで、痛みの目立つ客殿に諸仏を移して拝観も再開され、今はさらに仮本堂に諸仏を移して本堂再建を目指して取り組んでおられるようです。
大悲閣(千光寺)の見所としては、まず、登り口に松尾芭蕉が大悲閣を訪れて詠んだという「花の山 二町のぼれば大悲閣」という句碑があります。江戸時代には花の名所として知られ、多くの文人達が寺を訪れたようです。ここから約百メートル石段を登れば、中門、鐘楼があり、その上の狭い空間に客殿と仮本堂があります。
仮本堂の中央に安置されているのが、本尊の千手観世音菩薩です。
この千手観音像は、恵心僧都源信の作と伝えられ、了以の念持仏だったといわれます。また、脇侍として右に毘沙門天、左に不動明王が安置されています。
有名な了以翁等身坐像は、以前は客殿に安置されていましたが、現在は仮本堂内の右側に安置されているようです。この像は、了以が病気で亡くなる前に、自身の像を作って大悲閣側に安置するようにと遺言したと伝えられる像です。眼光鋭い法衣姿で、手に石割斧(いしわりおの)を持ち片膝を立てた坐像で、今も眼下に流れる保津川の安全を見守っているということです。
その他、境内には、寛永七年(1630)の了以の十七回忌に、儒学者でもあった子の素庵が林羅山に撰文を依頼し、素庵の弟長因が書いた石碑「角倉了以行状記(近年有志の寄進で修復)」や夢窓国師の座禅石等があります。
また、客殿には、位牌の他に、写経道具やガイドブック、パンフレット、眺望を楽しむための双眼鏡等がやや雑然と置かれていて、勉強部屋か休憩所のような寛いだ雰囲気です。
この客殿からの眺望が、この寺院の最大(或いは、了以に関心の無い方にはほとんど唯一)の魅力といわれ、眼下には保津川の流れ、遠くは京都市外が一望できます。
尚、対岸の亀山公園には角倉了以像(右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園内)があり、了以や素庵の墓は二尊院にあります(共に以前にブログに掲載)
また、渡月橋の下流南岸にある公立学校共済組合嵐山保養所「花乃家(はなのいえ)」の前には、「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址(右京区嵯峨天龍寺角倉町の石標があります。この石標は、前述したように、桓武天皇がこの地に「角倉」を定めたという伝承と、角倉了以の先祖がこの「角倉」の地で土倉を営んで「角倉」を家号とし、了以・素庵父子が舟運管理のためにこの場所に邸宅を設けていたことを表したものです。また、平安初期鋳銭司は嵐山の麓辺りにあったという伝承もあり、石標にはその旧跡であることも記されています。
また地域は違いますが、高瀬川沿いにも了以ゆかりの史跡が多く、高瀬川一之船入(中京区木屋町通二条下る西側)、二之船入跡(中京区木屋町通御池下る西側)、三之船入跡(中京区木屋町通三条上る西側)、角倉氏邸址(中京区木屋町通二条下る西側)、角倉了以別邸跡(中京区木屋町通二条下る東側 がんこ寿司二条店前)等の石標が建てられています。
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