京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市右京区峨天竜寺造路町、嵐山渡月橋の北詰、細い路地の奥にあるのが大井神社(おおいじんじゃ)です。鳥居の前は、嵐山観光の人力車の客引き場やレンタサイクルの置き場になっているので、いつも観光客でいっぱいです。社殿の前も、自転車やバイク等が並んでいて鎮座環境としては宜しくないのが残念です。


神社の掲示板を参照して書いてみると・・、大井神社の祭神は、宇賀霊神(うがみたまがみ)で、神社の創建年代は不明ですが、大堰川(桂川)の守り神、また商売繁盛の神として古来住民の信仰が厚く、かつてこの大堰川(桂川)周辺を領していた秦氏や角倉了以の信仰も信仰していた神社ということです。

前に大悲閣(千光寺)を採り上げた時にも少し書きましたが、現在は「保津川下り」やトロッコ列車が行き来する観光名所として知られる保津川(ほづがわ)は、古くは、葛野川(かどのがわ)とも呼ばれました。(尚、河川法では、上流から淀川に合流する全流域を「桂川(かつらがわ)」で統一していますが、一般的には、流域によって、丹波高原から亀岡盆地までを大堰川(おおいがわ 大井川)、亀岡市盆地から保津峡や嵐山あたりまでを保津川(ほづがわ)、それ以下の淀川の合流点までを桂川(かつらがわ)と呼ぶことが多いです。)
葛野川(かどのがわ)が、大堰川(大井川)とも呼ばれるようになったのは、五、六世紀頃以降から葛野川流域の嵯峨・松尾一帯を支配していた渡来系氏族の秦氏が、八世紀初期頃に、先進土木技術を用いて渡月橋付近に「葛野大堰(かどのおおい)」という大きな堰(せき)を築いて以来といわれています。葛野大堰は、堰で川水を貯水して、別の水路を使って取水するためのもので、堰で川の水量を調整して洪水を防ぐ一方、水路に水を導いて周辺地域の農業用水を確保するというものでした。こうして秦氏は、周囲一帯を農業の可能な地域へと変えていきました。


大井神社は、大堰川(大井川)につながるその名前からも、この秦氏による葛野大堰造営と関係が有ると考えられていてます。また大井神社では、「三代実録」の貞観十八年(876) 七月二十一日条に「山代大堰神」が並従五位下を授けられたという記載があり、延喜式神名帳(九百二十七年)の乙訓郡十九座中に「大井神社」の名が記されるなどから、由緒ある元式内社としています。
(但し、この「山代大堰神」や「式内・大井神社」が現在の大井神社と結びつくかという点では疑問視されているようで、全国に残る式内社についての調査をまとめた「式内社調査報告(式内社研究会編)では、かつての乙訓郡の式内・大井神社は廃社となったと推測し、鎮座地の違う現在の大井神社(鎮座地は旧葛野郡)は、それとは別に川の守護神として堰神を祀った松尾大社の末社だったとしているようです。)
ともかく、その後、大井神社は、明治十年(1877)三月二十六日に村社に列格され今日に至っています。また、現在の社殿は野宮神社の旧社殿を移築したものということで、現在は主に商売繁盛、交通安全の神様としてご利益があるとされています。


尚、前に大悲閣(千光寺)を採り上げた時に書きましたが、大井神社の直ぐ南にある公立学校共済組合嵐山保養所「花乃家(はなのいえ)」の前には、「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址(右京区嵯峨天龍寺角倉町の石標があります。(写真)
この石標は、桓武天皇がこの地に「角倉」を定め、その後、角倉了以の先祖がこの地で土倉を営んで「角倉」を家号とし、了以・素庵父子が舟運管理のためにこの場所に邸宅を設けていたことを表したものです。また、平安初期鋳銭司は嵐山の麓辺りにあったという伝承もあり、石標にはその旧跡であることも記されています。

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