京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた熊野神社の写真を増やして再掲載します。

京都市左京区聖護院山王町、丸太町通東大路交差点の北西角にある熊野神社は、それ程大きな神社ではありませんが、熊野神社前というバス停留所があることや、交通量の多い交差点に位置していることもあって、地元の左京区南部では、例えば、平安神宮や吉田神社とそれ程変わらない高い知名度があるように感じます。
また、熊野神社は、新熊野神社、熊野若王子神社(共にブログに採り上げています)と共に「京都の熊野三山」の一つとして知られ、(尚、熊野神社は熊野速玉大社に相当、熊野若王子神社は熊野那智大社に相当、 新熊野神社は熊野本宮大社に相当します)、京都の有名中堅神社が揃った「京都十六社朱印めぐり」の神社でもあります。


さて、熊野神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を主祭神とし、相殿に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおかみ)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、事解男尊(ことさかのおのみこと)の四神を配祀しています。

創建は、平安時代初期、嵯峨天皇の弘仁二年(811)修験道の始祖・役小角(えんのおづぬ)の十世という僧日圓が、平安京の国家護持のために、紀州熊野から熊野大神を勧請したのに始まると伝えられ、熊野神社と改称することになった明治の神仏分離令までは、白川熊野社とか熊野権現社と呼ばれていたということです。

寛治四年(1090)に白河上皇の勅願により、この地に聖護院を創建した増誉僧正は、嘉承年間(1106〜1108)に、この熊野社を聖護院の鎮守社として別当職を置いて管理させました。
さらに、平安時代末期の後白河法皇は、熊野詣を三十四回も行ったと伝えられるほど熊野信仰に熱心で、京都に熊野神を勧請し熊野若王子神社や新熊野神社を創建しましたが、この熊野神社も法皇の篤い信仰を受け、熊野若王子神社や新熊野神社と共に「京都の熊野三山」として社殿が新たに修造され、当時は金彩を鏤めた豪華な社殿がそびえていたということです。また、承治二年(1178)には、高倉天皇の中宮徳子(建礼門院)の安産祈願として、この熊野社にも勅旨が遣わされ、その結果、無事に安徳天皇が誕生したということです。以後、歴代天皇の厚い崇敬を受け、さらに、熊野信仰の高まりと共に庶民の信仰も集めていきました。


その後、室町時代の応永三年(1396)には、将軍足利義満から、広大な土地を寄進され、当時の社域は、東西南北約六百メートル四方を誇ったと伝えられます。(南北は、近衛通付近〜東竹屋町通。東西は現在の熊野神社境内のさらに東一町=約百十メートル東から鴨川河原まで)しかし、応仁の乱で社殿は焼失して荒廃、社地も徐々に侵食されて私有地化し、その大部分は畑地に変わってしまったようです。

小さな社殿が残るのみとなっていた神社は、ようやく江戸期の寛文六年(1666)、聖護院の宮道寛法親王(後水尾天皇皇子)により再興されますが、かつての盛時に比べるとかなり規模が縮小することとなりました。その後、天保六年(1835)に大修造が行われましたが、この際、賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年遷宮の年(二十一年毎に社殿を造営)に当たることから、旧社殿が熊野神社に下げ渡されました。これが現在の熊野神社の代表的な流れ造桧皮葺の本殿になり、礎石は全て白川石材を重積しているということです。


江戸時代末期の元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」では、「聖護院の森」に囲まれた神社の境内は、一の鳥居が、鴨川河原の丸太町條川端にあると記し、そこから長い参道が本社まで続いていた事がわかります。そして、二の鳥居を潜った境内には、行者堂、稲荷社、准胝観准堂、本社の西に富士権現と浅間権現、本社の東に金毘羅権現や神倉権現・満山護法神が祀られていた様子が記されています。
また、二の鳥居の前には、梅林に囲まれた茶店等もあったようで、四季の花を楽しんだり納涼のために多くの庶民が集まっている様子が図会に画かれています・・こうして、鴨川の東では、京都屈指の歓楽地になっていたようです。また、幕末には、孝明天皇もこの熊野社に国家治安を祈願したといわれます。
こうして、徐々に復興していった熊野社ですが、明治以降は神仏分離令によって、熊野権現社等と呼ばれていた神社は熊野神社と改称されました。


その後、明治二十六年(1893)の丸太町通の従断工事により、境内南側に道路が貫通することになり、全社域の約三分の一を失います。さらに、明治四十五年(大正元年 1912)〜大正ニ年(1913)にかけての市電丸太町線の開通で、残った社域のさらに約三分の一を失い、昭和ニ年(1927)の東山通の道路拡張で、さらに、当時の社域の四分の一を喪失し、明治維新直後に比べて約三分の一の面積まで縮小しました。(社域は、現在約二千平方メートル(六百坪)で、聖護院門跡の八分の一程度の面積)
こうして、現在は、かつての広大な社域を想像できないような小さな神社となっていますが、アクセスが良く、神社前には祭事の際等には露店が並んで、庶民的な地域のシンボル的な神社として親しまれています。

また、境内には、末社として春日大神、須賀大神、神倉大神、稲荷大神、金毘羅大神を祀り、梅原猛氏の筆による「八ツ橋発祥の地」という石碑、「京に八ツ橋あり」と八ツ橋を全国的に広めた西尾為治の銅像があります。その他、社宝として、聖護院宮雄仁親王から寄進された太刀壱振、光格天皇寄進の神輿を所蔵し、祭礼としては、四月二十九日の神幸祭、五月十六日の例祭が知られます。

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