京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市東山区粟田口鍛冶町、粟田神社と仏光寺本廟の間にある良恩寺は、通常非公開寺院の小さなお寺ですが、エピソード的に話題がある寺院でもあります。


さて、良恩寺は、山号を華頂山(かちょうざん)という浄土宗西山禅林寺(総本山は永観堂禅林寺)に属する寺院です。創建は永禄年間(1558〜70)とされ、元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」は、元々は天台宗寺院で、中世になって浄土宗に改め、その後青蓮院に属したと記します。また一説には、周辺地域にこの寺院に関連する名前が多いことや付近から金紋の瓦が出土することなどから、かつては広大な敷地を有する寺院だったという説を記しています。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わり、地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、「花洛名勝図会」も少し記していますが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


また、良恩寺は、寺宝として豊臣秀吉ゆかりの「手取釜」を所蔵しますが、この釜には、以下のような伝承があります・・・
その昔、この良恩寺のある粟田口付近に、粟田口善法(あわたぐちぜんほう)という茶人がいました。わび茶の創始者として知られる村田珠光(むらたじゅこう)の弟子といわれ、この粟田口に草庵を構えて隠者として暮らしていました。善法は清貧を旨として、食事も茶の湯もただ一つの茄子型の手取釜を用い、時には往来の者を呼び入れてこの釜で茶を振舞ったということです。

さて、この釜が天下の名器だと知った豊臣秀吉は、早速、千利休を介して大金で釜を譲るようにと持ちかけました。しかし、善法は「この釜を献上してしまったなら、何で茶を飲めば良いのか?このような釜を持っているから所望されるのだ」と大事な釜を叩き壊してしまいました。
このことを聞いた秀吉は、自分が釜を所望したのは誤りだった悔やんで、これと同じ手取釜の写しを二つ鋳造させて、一つを善法に与え、もう一つは自分用にしたといわれます。そして、良恩寺には、この時、善法が拝領した茄子型の手取釜とされる釜が伝えられています。

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京都市東山区清水四丁目、東大路通から清水寺に続く清水坂を約百メートル東へ向かった所にある小さな寺院、日體寺(日体寺 にったいじ)を採り上げます。
日體寺は「洛陽十二支妙見めぐり」の「巳」の寺になりますが、他の「洛陽十二支妙見めぐり」の多くの寺院が、境内に入って直ぐの目立つ場所にに大小の妙見宮を持つのに対し、日體寺の場合は境内にはそれらしき建物は見当たらないので、山門脇に洛陽十二支妙見と記されていないと通り過ぎてしまうかもしれません。


さて、日體寺は、情報の少ない小さな寺院ですが、元々は創建年代不明の観音寺という浄土宗寺院だったということです。その後、江戸時代中期の享保六年(1721)に、当時の住職が常照院日體上人に帰依して日蓮宗に改宗し、この日體上人を開山と仰ぎました。日體寺の北辰妙見尊は、元々は祇園石段下にあった妙見宮に祀られていたといことですが、地所建物が取り払いになったため、祇園白川末吉町の元芸妓・藤井四十吉という女性が自宅で祀っていましたが、その後、四十吉が亡くなって日體寺の墓地に埋葬された縁から、妙見尊も日體寺で祀られるようになったということです。この妙見尊は、水火の災を除き、怨敵の難を退け、家を修めるとして「清水の鎮宅妙見」として知られるということです。


尚、「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。

妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。


「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでにブログパート1にも登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日體寺(日体寺))

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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京都市東山区清水二丁目、清水寺の山門まで約二百メートルという辺りで産寧坂と清水坂と五条坂という三つの坂が交差する場所があります。
京都観光をした人なら必ず一度は通ったと思われるこの場所の北東角に、小さなお堂が建っています・・・これが、現在は清水寺の境外塔頭となっている来迎院(らいごいん)という小さな寺院で、経書堂(きょうかくどう、きょうしょどう)の名前で知られています。


さて、経書堂こと来迎院の創建年代は不明ですが、中世に成立した清水の花見を主題とした謡曲「熊野(ゆや)」に、「御法の花も開くなる 経書堂はこれかとよ」と謡われていることから、古くから清水寺の参詣道にあって親しまれてきた事が伺われます。

また、江戸時代の天明七年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」や元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」にも記載されていて、それによると、経書堂は、院号を来迎院という真言宗の寺院で、聖徳太子の開基と伝えられ、太子がこの地に来た時に、阿弥陀、観音、勢至の三尊仏が空中に影向するのを拝して草創したということです。
また、この来迎院の僧が、小石を集めて、僧俗(僧侶や俗人)男女の参詣者に法華経や大乗経等の一字を一つの石に書かせて水を注いで諸霊を供養したので、お経を書くお堂という意味の「経書堂」と呼ばれるようになったと伝えられます。本尊は、三尺(約九十センチ)程の聖徳太子自身が彫ったとされる十六歳の太子像で、脇檀に三尊像を安置しているようです。

また、御堂の内部正面、手前に置かれている丸い石は、「願掛け石」、「占い石」とされる「重軽石(おもかるさん)」という玉石で、「疑わしい事があれば信心をこめて伺って、軽く持ち上がれば万事よし。もし持ち上がらなければ明日また、上がるように自ら考えること。」と言い伝えられているということです。

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京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町、商店やビルの立ち並ぶ三条通から一筋北(京阪三条から約三百メートル東)にあるのが、要法寺(ようほうじ ようぼうじ)です。
要法寺は、京都のメインストリートでもある東大路通や三条通から僅か一筋離れている所に位置していますが、これらの大通からまったく遮断されているので、交通量の多い三条京阪付近の市街地にこのような大寺院(境内は一万三千五百平方メートル)があるということはあまり知られていません。通りを一筋入ってみれば、思わぬところに・・という史跡密度の高い京都らしい風景といるかもしれません。


さて、要法寺は、山号を多宝富士山というる日蓮本宗の本山で、本尊は十界曼荼羅です。
この寺院は、元々、鎌倉時代末期〜室町に創建された上行院(じょうぎょういん)と住本寺(じゅうほんじ)という二つの寺院が、室町時代末期に合併して誕生しました。
尚、日蓮本宗では、宗祖日蓮(にちれん)、二祖日興(にっこう)、三祖日目(にちもく)、そして、要法寺の開基となった日尊(にっそん・にちぞん)を第四代としています。

要法寺の開基である日尊上人は、奥州出身の元天台僧で、奥州に布教に来た日目(日蓮の高弟日興の弟子)上人に出会って法華宗に帰依し、さらに日目と共に身延山に伸登って日蓮上人の高弟、日興上人に師事しました。しかし、正安元年(1299)秋、日興上人の重要な講義中に、舞い落ちる梨の葉に一瞬気を取られて集中力を欠いたことを激しく咎められ、師より破門されることになりました。日尊上人は一念発起して、諸国を修行行脚し、延慶元年(1308)に、京都の山城に法華堂(後の要法寺の起源でもあります)を開きました。

その後、日尊は、日興から破門を解かれ、正慶二年(元弘三年 1333)には、師の日目(にちもく)上人に従って京に向かいますが、その途中で日目が入寂(死去)したことから、その意志を継いで入洛し、翌年(1334)後醍醐天皇に天奏を行いました。そして、その功によって六角油小路に寺地を寄進され、延元元年(建武三年 1336)に六角油小路に、法華堂(後の上行院)を開きました。

やがて、上行院は弟子の日印(にちいん)上人に継承され、興国六年(1346)に、日尊上人は八十一歳で入寂します。一方、日尊の別の弟子、日大(にちだい)上人は、 正平十七年(1362)に、二条堀川(冷泉西洞院)に後の住本寺となる法華堂を創建しています。その後、比叡山衆徒による天文五年(1536)の天文法華の乱(天文法乱)によって、他の法華宗二十一本山と共に、上行院と住本寺も焼失し、堺へ避難しました。

天文十七年(1548)に帰洛が許可されて寺を再建することになりますが、この際、住本寺の日辰上人が、上行院と住本寺を合併することとなり、天文十九年(1550)、新たに五条坊門(綾小路)堀川に要法寺を建立しました。
その後、天正十一年(1583)に、豊臣秀吉の命により、京極二条(寺町二条)に移転し、さらに、宝永五年(1708)の大火で焼失して、東山三条の現在の地に移転、再建されました。宝暦九年(1759)の大火で再び焼失し再建されています。
その後、要法寺は、明治九年(1876)に、日蓮宗興門派(明治三十三年(1899)に宗名を本門宗(日蓮本門宗)と改称)に属し、昭和十六年(1941)に日蓮宗、顕本法華宗と三派合同して日蓮宗を結成した後、昭和二十五年(1950)に要法寺(末寺五十ヶ寺共に)は、日蓮宗から独立して日蓮本宗を称して現在に至ります。

現在の主な建物は宝暦の大火後の再建で、大きな本堂(間口(桁行)5間、奥行(梁間)5間)瓦葺)は、安永三年(1774)に建造されたもので、他に、本堂の西に釈迦堂、東南に鐘楼、東に庫裏・本坊等がありますが、いずれの建物も規模の大きなものです。他に伏見城の遺構とも伝わる表門、西門があり、境内塔頭は九寺を数えます。
また、要法寺といえば、慶長年間(1596〜1615)に、要法寺十五世・日性上人(1554〜1614)を中心に「沙石集」等数種の銅活字版の書物を刊行したことでも知られ、それらは「要法寺版」といわれて、近世初期の版本として文化史的にたいへん貴重なものとされます。

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