京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、数年前にブログパート1に少し採り上げた寂光寺の写真を増やして再掲載します。(前に掲載した際は、写真三枚しか掲載できませんでした)
左京区仁王門通東大路東入ル北門前町にある寂光寺(じゃっこうじ)は、山号を妙泉山という日蓮諸宗の一つ顕本法華宗寺院で、本尊は十界大曼荼羅です。


寂光寺は、安土桃山時代の天正六年(1578)に日淵(にちえん)上人が創建した寺院で、初めは久遠寺(久遠院)と号して、出水通室町(上京区)にありました。その後、豊臣秀吉の命により、天正十八年(1590)に寺町二条竹屋町に移転し、さらに、天正十九年(1591)頃に、法華宗十六本山の妙泉寺を寺内に移建した後に合併しています。その後、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により焼失し、現在地に移転再建されました。


さて、日渕上人の甥で、寂光寺二代目住持となった日海上人は、堺の仙也に碁を学び、碁の才能に極めて優れていました。
当時敵手が無かったため、織田信長から「名人」の名を送られたとも伝えられ、その後、豊臣秀吉にも賞賛され朱印を与えられます。日淵から寂光寺を譲られた日海は、寺内塔頭の本因坊に住んで、本因坊算砂(さんさ)と号しました。その後、算砂は徳川家康からも官職を与えられ、その招きにより江戸に移住しますが、算砂以降、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなりました。尚、二世算悦、三世道悦を経て、四世道策の時に本因坊は寂光寺から江戸に移りました。
(尚、二十一世の秀哉(しゅうさい)が引退して以降、世襲制は終わり、日本棋院が名跡を譲られ、現在の選手権タイトル戦へと移行しました)

境内墓地には、本因坊算砂、算悦、道悦の墓がありますが、普段は墓域への門は閉ざされているようです。他に、寺宝として、関白近衛家から拝領した碁盤や算砂の画像などがあるということです。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた左京区聖護院にある須賀神社・交通神社を再掲載します。(以前に採り上げた際は、境内工事中のために写真は1枚だけしか掲載できませんでした。今回は再建後の本殿等の写真を増やしてみます)


さて、前回の積善院凖提堂の向かいにあるのが、須賀神社・交通神社(左京区聖護院円頓美町)です。
積善院と凖提堂という二つの寺院が合併した積善院凖提堂と同じく、この神社も一つの境内に二つの神社が祀られています。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妻神、櫛稲田比売命(くしいなだひめのみこと)を主神に、久那斗神(くなとのかみ)、八衢比古神(やちひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)の五柱を祀っていましたが、昭和になって八衞比古、八衞比賣神、久那斗神を分祀し、境内に交通神社として独立させています。


須賀神社は、平安時代初期の清和天皇の時代、貞観十一年(869)に、現在の平安神宮蒼龍楼(そうりゅうろう)の東北付近に創建された西天王社(現在、跡地は西天王塚として現存)を前身とすると伝えられ、東天王社と呼ばれていた現在の岡崎神社(岡崎天王町 ブログパート1参照)と並んで、平安京の王城鎮護の役割を担った鎮守社の一つだったようです。
また、その後、平安時代末期の康治元年(1142)に、鳥羽上皇の中宮・美福門院(藤原得子)が建立した歓喜光院という寺院の鎮守社となったとも伝えられます。

元々あった現在の平安神宮の蒼竜楼東北の地から、鎌倉時代末期に北条高時が幕府軍を京へ派遣したことで起こった戦乱を避けて、元弘二年(1332)二月に吉田神楽岡に避難鎮座します。そして、江戸時代初期の慶安年間(1648〜52 慶安元年六月とも)に吉田神社の斎場所大元宮の西下へ社殿を造営しています。その後、大正十三年(1924)六月に、旧御旅所に当たる現在の地に移り、以降、この聖護院一帯の産土神として縁結びや厄除けにご利益があるとして信仰され、昭和三十九年(1964)に、交通神社を併祀して以来は、交通安全の神としても人気を集め、節分祭には参詣者で賑わいます。


それ程広くない境内には、近年に再建された新しい本殿が二殿に区分されていて、右殿が、縁結びや厄除けの神様として須佐之男神(すさのおのかみ)を祭る須賀神社です。また、左殿は、交通神社として、交通安全や旅行等の守神として八衢比古神(やちまたひこのかみ 全ての道を守る道祖神から転じて、交通安全神)を祀っています。その他、末社として白龍大明神・稲荷大明神を祀ります。また、五月十日の例祭は角豆祭といわれ、つる葉に多くのさや豆がつくように氏子の繁栄を祝う意味ということです(京都市の案内掲示板による)



さて、この神社で有名なのが、節分の際にのみ授与される須賀神社独特のお守り「須賀神社懸想文」です。この日、境内には、烏帽子・水干姿に覆面姿の懸想文売りが現れて、参拝者に懸想文を授与します。

この懸想文売りとは、元々、平安時代に金に困った貧乏貴族が、字の書けない庶民の代わりに懸想文(ラブレター)の代筆で小銭を稼いでいたことに始まるといわれ、貴族達が身分を隠すために覆面をしていたことから、現在も烏帽子・水干姿に覆面という独特の装束で登場します。
懸想文は、縁談や商売繁盛等の人々の希望を叶える御守りとして人気で、特に人に内緒で鏡台やタンスの引き出しの中等に入れておくと、美人になって良縁を得られるとか、衣装が増えるとか信仰され、平安時代には京の町で人気を博したといわれます。そして、現在も節分の日のみは、多くの女性参拝者で境内が賑わうことになります。

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今回は、数年前にブログパート1に採り上げた聖護院の塔頭、積善院凖提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)の写真を増やして掲載します。(尚、文章は以前のもの(削除済)をほぼ踏襲しています。)
積善院凖提堂は観光寺院では有りませんが、狭い境内にお堂や地蔵が並んでいてしたしみやすい雰囲気が漂っています。


京都市左京区にある聖護院という地域は、聖護院八つ橋、聖護院大根、聖護院蕪などでも知られるかなり広い地域で、地元では、大きな京都大学医学部付属病院があることで有名です。
この聖護院という地域名は、元々本山修験道大本山・聖護院門跡に因んでいて、周辺は明治時代までは聖護院村と呼ばれ、鴨川にかけて大きな森が広がっていたようです。そして、聖護院門跡も、天皇の仮皇居になった経緯から、森の中にある御殿として「森御殿」とも呼ばれていました。(尚、聖護院門跡は、普段は要予約、また特別拝観の際に公開 ブログパート1に少し掲載)


さて、この聖護院門跡の東隣にあるのが、聖護院の塔頭の積善院凖提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)です。長い名前ですが、積善院と凖提堂という2つのお寺が合併したものです。
積善院は、元々は熊野神社の西北、現在の京大医学部付属病院のある辺り(聖護院川原町)にあったお寺です。鎌倉時代初期の創建とされ、聖護院の下で山伏を統括代行し、栴(なぎ)ノ坊という名称で呼ばれていました。一方、凖提堂は、江戸時代に建立された準提観音を本尊とするお寺で、現在の熊野神社の東南(聖護院山王町)にあったようです。2つの寺院は、明治初期に合併し、積善院凖提堂と称するようになり、大正3年(1914)に現在地に移転したようです。
現在、元の準提堂を本堂として、準提堂の本尊だった準提観音と積善院の本尊だった不動明王(重文)を合祀しています。また、本堂の西側に建つのが元の積善院本堂で、役の行者像や阿弥陀如来像を祀ります。

さて、境内には、幾つかの石碑や石仏等が祀られていますが、特に知られるのが、元々は聖護院の森の西北(現京大付属病院)にあった「崇徳院地蔵」です。
保元の乱で讃岐に流され死去した崇徳上皇の霊を慰めるために京の人々が祀ったと伝えられる小さな地蔵様ですが、別名は「人喰い地蔵」と呼ばれています。これは、崇徳上皇が死後怨霊となったという恐ろしい話を背景に、崇徳院(すとくいん)→すとくい→人食い(ひとくい)へ転じたもののようです。

また、昭和二十七年(1953)に建てられた「お俊伝兵衛恋情塚」があります。
江戸時代中期の元文三年(1738)に、京都の釜座三条の呉服商井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊が、この聖護院の森で心中した事件に因んで建てられたものです。お俊・伝兵衛の心中事件は、近松門左衛門の浄瑠璃「近頃河原達引」のモデルとして知られることになりました。

最後に、積善院凖提堂は、五大力さんとしても知られていて、二月二十三日には五大力尊法要が行われます。秘仏の五大力尊画像が開帳、大般若経転読法要や護摩供養が行われ、普段は人気の無い境内にも多くの参詣者が集まります。

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今回は、以前にブログパート1に採り上げた京都市左京区岡崎法勝寺町の満願寺(まんがんじ)の写真を増やして再掲載します。この岡崎法勝寺町は、京都市動物園を含むかなり広い区域で、法勝寺町という名前は、かつて、この地に法勝寺という大寺院があったことに由来しています。


法勝寺は、平安時代の承保三年(1076)に白河上皇が、関白藤原師実(頼道の子)から別荘地を譲られて建立した寺院でした。
約六万平方メートル以上の広大な敷地に、毘廬舎那仏を本尊とする金堂をはじめ講堂、阿弥陀堂、五大堂、法華堂、薬師堂、そして高さ約八十メートル八角九重塔等がそびえていたと伝わります。その後、承元二年(1208)に落雷で八角九重塔が焼失した際は、栄西禅師が大勧進として寄付を集め再建しますが、康永元年(1342)に火災により廃滅し、僅かに、寺跡を示す石碑や金堂の基檀、九重塔跡などが残るのみとなってしまいました・・こうして、現在は、動物園や表通りから一筋入ると立ち並ぶファッションホテル等が目立つ法勝寺町ですが、今回の満願寺はこの地区唯一の由緒ある寺院になります。


さて、満願寺は、山号を示現(じげん)山という日蓮宗寺院です。
当所は真言宗寺院だったようで、満願寺縁起によると、平安時代初期の天慶三年(940)、右京七条坊に住んでいた菅原道真の乳母・多治比文子(たじひのあやこ)が菅原道真の霊夢を感じて、西ノ京片原の北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて、西ノ京に一堂を建立し、道真自作の天満大自在天像を安置したのが創建と伝わり、道真の霊が示現して願いが成就したことから、山号を「菅原道真公の霊の示現」から示現山としたと伝えられます・・つまり神仏習合の神宮寺だったようで、現在も境内左側に、文子天満大自在天を祀る文子天満宮があります。


尚、この道真伝説は、北野天満宮や文子天満宮(下京区 ブログパート1参照)の創建にまつわる話と同じです。多治比文子は、道真の乳母の他に少女だったという説もありますが、道真の霊の託宣を受けて西京七条二坊(京都駅付近)の自邸付近に道真を祀るために祠を建てました。これが菅原道真を祀った最初と言われ、多治比文子の自邸の社は、「天神信仰発祥の社」として、やがて文子天満宮となります。さらに、文子の他にも、近江の比良宮の神職神良種(みわのよしたね)という人物の七歳の息子太郎丸にも、自分を北野の地に祀るようにとの道真の託宣があり、多治比文子、神良種、朝日寺の僧最珍ら相談し北野に小さな社を建てたのが北野神社(北野天満宮)の創建と伝えられます・・・満願寺も、これら天神信仰との関係で創建されたようで、かつて、北野神社の神域には、七つの「保」と呼ばれる地域があり、北野神人という神事に奉仕する人々が住む御供所となっていましたが、西ノ京にあった満願寺は、この御供所の一つで、五ノ保社となっていたと伝えられます。
(尚、北野天満宮と西ノ京との関係は現在も深く、北野天満宮のずいき祭では、毎年十月一日に西ノ京御輿岡(中京区西大路上ノ下立売通西入ル御輿岡町)の御旅所へ渡御し、駐輦の後本社に還幸します)



さて、当初、真言宗寺院だった満願寺は、室町時代の永和年間(1375〜79)には勅願所となりますが、その後、江戸時代の元禄十年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、元禄十三年(1700)に、東山天皇の勅願寺となり、元禄十四年(1701 元禄十五年(1702)とも)に現在の地に移りました。そして、江戸時代以来の独立本山を改め明治五年(1872)に身延末寺となっています。

本堂は、移転後間もない元禄十五年(1702)から宝永元年(1704)にかけて建造されたもので、京都に残る日蓮宗寺院の中でも古いものの一つになります。建築的には、桁行三間、梁行一間の身舎の周りに、幅一間の裳階をまわして背面に内陣部を突き出し、さらにその後方に土蔵造の奥陣を付設した複合建築ということです。また、本堂の変化に富んだ外観と内部の力強い空間構成には、近世的な特色がみられ、日蓮宗本堂の近世遺構の一例として貴重なものになっています。
その他、境内には、江戸時代に現在地に移転した時から残る鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・同拝殿がよく保存されていて、位置が一部変化しているとはいえ、江戸中期の日蓮宗寺院の一般寺観をよく伝えていることから、これら(本堂、鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・同拝殿)は京都市の有形文化財に指定されています。
また、この地は日蓮上人が吉田の神道伝授のとき寄宿した場所と伝えられ、本堂には法華首題牌と釈迦・多宝両如来像を祀り、祖師堂には本妙寺分身の日蓮像を安置しています。


境内には、幾つかの石碑があります。
最も目立つのが「俊寛僧都故居碑」という、法勝寺執行だった俊寛僧都にまつわる大きな石碑です・・後白河上皇の側近だった僧俊寛は、治承元年(1177)、自らの鹿ケ谷にあった山荘で平氏打倒の密議を行い、発覚し鬼界島に流されました(鹿ケ谷の変)この石碑は、俊寛の居所である法勝寺の跡を示すものです。また、本堂右には、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を記念する「妙経万部之塔」、本堂南側には黒澤明、小津安二郎と共に世界的に知られる映画監督、溝口健二に関する石碑「溝口健二之碑」があります・・これは、当時の大映社長の永田雅一が満願寺を菩提寺としていた縁から、境内に建てられたもので、墓地には溝口健二の分骨墓があります。
また同じく墓地には、京都出身の勤王志士・山崎久三郎の墓もあり、その他、境内南にある閼伽井(あかい)は法勝寺(ほうしょうじ)の井戸といわれています。


最後に、満願寺は、「洛陽十二支妙見」の「辰」の寺でもあります。この妙見菩薩像は、当初は、法勝寺旧跡にあった本光寺に祀られていたものが、安永三年(1774)の大火により本光寺が焼失したために、満願寺に移されたと伝わります。

尚、「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。
妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。
「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでにブログパート1に登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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