京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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地蔵院(竹の寺)

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かなり前にブログパート1に掲載した私の好きな地蔵院(竹の寺)を、写真を増やして再掲載します。

京都で「地蔵院」というと、これまでにブログに採り上げてきた「椿寺」(地蔵院 北区一条通西大路東入る大将軍川端町)や老枝垂桜が美しい地蔵院(=地蔵禅院 京都府綴喜郡井手町)も注目したい寺院ですが、観光名所として知名度が高いのは、今回の「竹の寺(地蔵院)」だと思われます。
このお寺は、美しい竹の参道や名庭「十六羅漢の庭」で知られ、室町時代の管領・細川頼之の建立、一休禅師ゆかりの寺院でもあって歴史的な話題にも事欠きません。秋には椛と苔や竹林の対比が美しい隠れた紅葉の名所にもなります。

ただ、この地蔵院(京都市西京区山田北ノ町)、人気のある鈴虫寺(華厳寺)から歩いて数分程度の距離にあるにもかかわらず、観光シーズンでもそれほど拝観者は多くありません。嵯峨野嵐山の小寺に勝るとも劣らない京都らしい竹や苔の美が凝縮されたようなこの寺院が、鈴虫寺(華厳寺)を訪れる多過ぎる程の観光客から無視されていることを残念にも思いますが、このお寺が好きな方は、観光客が少なくて癒されるので、今のままの方が良いというところかもしれません。観光寺院と言うにはやや殺風景な方丈には、細川護熙元首相が細川家由緒のこのお寺を隠れ寺と呼んで何度も訪れているという週刊誌の記事が貼られていますが、確かに他人に教えたくない、京都通好みの小さな隠れ寺といった雰囲気もあります。



さて、地蔵院は、山号を衣笠山(きぬがさやま)という臨済宗系の単立寺院で、松尾の谷で地蔵菩薩を祀ることから「谷の地蔵」、美しい竹林に囲まれていることから「竹の寺」とも呼ばれています。夢窓国師を開山として、伝教大師最澄の作と伝わる延命安産のご利益のあるという地蔵菩薩像を本尊としています。
元々、この地には、鎌倉時代初期の歌人で、衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)と呼ばれた藤原家良(ふじわらのいえよし 1192〜1264)の山荘がありましたが、その後、南北朝時代の貞治六年(1367)または応安元年(1368)に、室町幕府の管領細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜92)が尼僧妙性(みょうしょう)から付近の土地を買い取って、自身が深く帰依していた碧潭周皎(へきたんしゅうこう 宗鏡禅師)に寄進して寺院を建立しました。これが現在の地蔵院で、碧潭周皎(宗鏡禅師)は、自身の恩師で、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭等で有名な夢窓疎石(むそうそせき夢窓国師)を開山に勧請して、自身は第二世となりました。



さて、地蔵院の開基となった細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜1392)についてです・・
細川頼之は、室町幕府二代将軍足利義詮が亡くなる際に、管領として幼少の三代義満の補佐を託され、以後十二年に渡って将軍職代行として幕政を主導し、室町幕府の基礎を築いた人物でもあります。
頼之は、足利氏の一門になる細川家の嫡流、細川京兆家(頼之の養嗣子となった弟・頼元が、右京大夫に任ぜられ、以後、代々の細川氏惣領家が右京大夫を踏襲したことから、その唐名で京兆家と呼ばれました)の出身で、元徳元年(1329)、細川頼春(ほそかわよりはる)の子として三河国(愛知県)に誕生して幼名は弥九郎といいました。

細川家は、鎌倉時代末期までは、足利氏庶流の三河国の一御家人に過ぎませんでしたが、その三代目に当たる公頼(きみより)の子、和氏(かずうじ)、頼春(よりはる)、師氏(もろうじ)の三兄弟や、その従兄弟(細川頼貞(よりさだ)の子)に当たる顕氏(あきうじ)、直俊(なおとし)、定禅(じょうぜん)兄弟らが、南北朝時代の戦乱で足利尊氏を支えて活躍したことで、やがて一大勢力へと成長していきます。
建武の親政で阿波守に任じられた一族惣領の和氏の死後(興国三年(康永元年 1342)死去)は、弟の頼春や、従兄弟の顕氏(その弟達は兄に先立って前後して死去)が、細川家一門の中心となって南朝と戦い、観応の擾乱でも活躍します。頼之も、父頼春に従って早くから戦場にあったようで、頼春が正平七年(文和元年 1352)四月に南朝軍との戦いで戦死した際は、一旦退却して軍を糾合した顕氏の指揮下で阿波軍を率いて南朝軍と交戦しています。


さて、正平七年(文和元年 1352)、頼春の戦死に続いて顕氏も病死したことで、細川一門は、次世代に当たる、和氏の子の清氏(きようじ)や頼春の子の頼之(よりゆき)を中心に、顕氏の子の繁氏(しげうじ)、師氏の子氏春(うじはる 父の淡路守護・師氏は、正平三年(貞和四年 1348)に死去))等に率いられることになります。
次世代の中心として幕政を担うことになったのは、一門の惣領となった清氏(きようじ)で、伊賀国や若狭国の守護を歴任し、正平十三年(延文三年 1358)の将軍尊氏の死後、仁木頼章(にきよりあき 高師直の死後に執事に任命)に代わって、将軍義詮から新たな執事職に任命され幕政を指導する立場となります。この間、頼之は、父の領地を継承して阿波国や伊予国守護も兼ねて南朝軍の抑えを任されて四国を平定し、その後、九州に勢力を築いていた足利直冬が中国地方に転戦すると、中国諸国を統轄して西国将軍として将軍職軍事権を代行し、直冬勢力を弱体化させました。

一方、幕府内では、執事となった従兄弟の清氏が、畠山国清と結んで、仁木義長(前執事の仁木頼章の弟)を失脚させるなど勢力を拡大していましたが、正平十六年(康安元年 1361)九月に、佐々木道誉や斯波高経等との対立から失脚し、従兄弟の氏春等と共に南朝に降ります。十二月、清氏は南朝の楠木正儀らと京都を占領するなどしたため、正平十七年(貞治元年(1362)、頼之は、将軍義詮から清氏討伐を命じられて讃岐国で清氏を戦死させ、氏春を降伏させました。

その後、正平二十二年(貞治六年 1367)頼之は、将軍義詮が亡くなる直前に、管領として幼少の三代義満の補佐を託されて幕府を主導します。頼之は、内政では、正平二十三年(応安元年1368)に、天皇公家や寺社の荘園を保護する応安の半済令(応安大法)を施行し幕府の領地支配を固め、一方、建徳元年(応安三年 1370)頃、九州に今川了俊を派遣して征西府の懐良親王ら南朝勢力の掃討を推進し、畿内南部の南朝とは講和交渉を行って、楠木正儀を北朝へ帰属させるなど南朝弱体化に成功します。
しかし、天授五年(康暦元年 1379)閏四月、反頼之派の守護大名・斯波義将や土岐頼康らの圧力から将軍義満は、頼之を罷免します(康暦の政変)
失脚した頼之は出家しますが、頼之の弟で養子の細川頼元の赦免要請によって、元中六年(康応元年 1389)に頼之は赦免となり、その後、管領・斯波義将が元中八年(明徳二年 1391)に管領を辞して、四月に頼元が管領となると、宿老として幕政に復帰し、元中九年(明徳三年 1392)三月、六十四歳で亡くなりました。



さて、創建以降、地蔵院は細川家の庇護を受けて次々と伽藍を建立しました。
室町幕府の重臣細川氏由来の寺院として朝廷の信仰も厚く、北朝系の三代の天皇(崇光、後光厳、後円融)の御願寺にも準ぜられて京都五山と同様の特権を与えられ、多くの寺領が寄進されたということです。こうして、最盛期には、境内十七万平方メートル、境内塔頭三院、末寺二十六ヵ寺、諸国に領地五十四ヵ所を有する一大禅刹となったということです。

また、地蔵院は、一休宗純禅師が幼少期に修養した寺院としても知られます・・一休禅師は、応永元年(1394)、後小松天皇の皇子として、地蔵院の近くの民家で生まれたとされ、その後、地蔵院で過ごし六歳の時に、安国寺に移って本格的な修行に入りました。地蔵院の拝観の栞によると、この事は、禅師の弟子、済岳紹派の筆記になる「祖先詩偈」に、 「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかということです。その後、禅師は京都、堺などで布教して大衆を教化し、大徳寺にも住した後、晩年は山城薪(京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、文明十三年(1481)に八十八歳で示寂しました。

その後、地蔵院は、応仁・文明の乱(1467〜77)によって諸堂悉く焼失します。そして、その後復興されますが、天正十三年(1585)の天正大地震で再び被災し、江戸時代初期には塔頭の龍済軒(りょうさいけん)と延慶庵(えんけいあん)がわずかに残る状態となりましたが、皇室や細川家の援助もあって、ようやく江戸時代中期の貞享三年(1686)とも)第十四世古霊和尚によって方丈が再建され、宝永元年(一七〇四)頃には寺観が整えられたと伝えられ、明治時代に、龍済軒・延慶庵の両寺を合併して現在に至っています。



さて、風情ある総門から、地蔵院の一番の魅力でもある、勢い良く空に伸びている高い竹林の参道を進んでいくと、正面に本堂、その右に庫裏や方丈があります。 
現在の本堂(地蔵堂)は、昭和十年(1935)に再建されたもので、堂内には、伝教大師最澄の作と伝わる本尊の延命安産地蔵菩薩を中心に、右に開山夢窓国師、碧潭周皎(宗鏡禅師)、左に細川頼之の木像を安置しています。
また、 本堂南には、碧潭周皎(宗鏡禅師)と細川頼之の墓石と伝えられる自然石「細川石」が並んで安置されています。文中三年(応安七年 1374)、碧潭周皎(宗鏡禅師)が示寂して地蔵院に埋葬された後、元中九年(明徳三年 1392)細川頼之もまた遺言によって、深く帰依した碧潭周皎(宗鏡禅師)の墓の傍に葬られたと伝えられているもので、自然石の印象的な墓石です。

また、本堂の右手にある方丈(京都市登録有形文化財に指定)は、江戸時代の貞享三年(1686)第十四世古霊和尚が、当時残存していた数少ない建物・・塔頭の延慶庵の方丈として建立したものです。その後、幕末の嘉永七年(1854)頃に西面に仏間が増築され、明治三年(1870)に仏間の床回りが修理され、昭和二年(1927)に大修理が行われていたということです。内部は八畳三室と六畳の仏間が一列に並んで、正面は広縁が通っています。そして、この縁先に庭園が広がります・・

この方丈庭園は、通称「十六羅漢の庭」として知られる名庭で、京都市の名勝に指定されています。(残念ながら写真撮影禁止)独特の意匠のこの庭は、作庭に関する記録が無いことから、作庭者・作庭年代は不明ですが、おそらく貞享三年(1686)に方丈が再建された際に、整備されたものと考えられます。また、元々は、碧潭周皎(宗鏡禅師)の作で、細川頼之遺愛の庭という伝承もあります。

築山や池泉等を設けない平庭形式の枯山水庭園で、庭全体に約三十個の石が様々に配置され、石の一つひとつが十六羅漢の修行の姿を表しているとされることから、「十六羅漢の庭」と呼ばれています。また、地蔵院の羅漢は、男山八幡宮(石清水八幡宮)に願をかえているので、その方向(左手後)に少しずつ傾いているということです。緑豊かな庭で、杉苔の中に、楓や五葉松、名椿「胡蝶侘助」等椿が植えられていて、特に春の椿の頃に風情のある庭園です。(尚、夏場は蚊が多いので注意)

また、地蔵院には、金剛界門、衣笠山、来鳳軒、枯木堂、観音殿、地蔵宝殿、尺竜谷、尸陀(しだ)林、不動井、興雲洞の「地蔵院十境」が伝わっていて、かつての境内を想像させます。また、竹林に囲まれた地蔵院の境内一円は、方丈・庭園が一体となって「竹の寺」と呼ばれるに相応しい優れた境内環境を形成していることから、西山一体の自然環境の核の一つとして、京都市の文化財環境保全地区に指定されています。

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三条通蹴上にある「ウェスティン都ホテル京都」の西、京都市東山区粟田口鍛冶町にある佛光寺本廟(ぶっこうじほんびょう)は、真宗佛光寺派本山の佛光寺(京都市下京区高倉通仏光寺下る新開町)の別院、宗祖親鸞聖人御廟所を中心とした佛光寺の墓所(東山廟所とも)になります。


佛光寺については、前にブログパート1に採り上げましたが、一応再掲載しておきます・・・

下京区高倉通仏光寺下る新開町にある佛光寺(ぶっこうじ)は、山号を渋谷(汁谷)山(じゅうこくさん)という真宗佛光寺派の本山で、創建は、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人が山科(京都市山科区)に結んだ草庵に遡ると伝わります。

鎌倉時代初期の承元元年(建永二年 1207)、「承元の法難」によって、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人は、三十五歳の時に京都を追放され、越後国(新潟県)へ流刑にされました。この「承元の法難」は、直前の年号から「建永の法難」とも呼ばれ、比叡山延暦寺や奈良興福寺といった旧仏教勢力の圧力によって、浄土宗開祖・法然上人を中心とする専修念仏教団が弾圧された事件です。
念仏を唱えることで、全ての人々が平等に救われると説いた法然上人の教えは、旧仏教の側から見れば、自分達の教義を否定するものと受け止められ、念仏が新興階級の武士や農民、またこれまでの旧仏教の教義では救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられ広まっていくことに脅威を感じました。旧仏教寺院は専修念仏の停止を朝廷や鎌倉幕府に訴えました。特に、元久二年(1205)に、興福寺の僧・解脱貞慶上人が、法然上人らの弾圧を願い出た「興福寺奏状」は弾圧のきっかけとなりました。

また、前に安楽寺(左京区)を採り上げた時に書きましたが、「承元の法難(建永の法難)」の直接の原因となったのは、法然上人の弟子の僧・住蓮と安楽の六時礼讃声明を聴いて感激した後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫と鈴虫姫)が、上皇の留守中に出家してしまったという事件でした。自分に無断で出家したことを知った上皇は激怒し、法然門下の教団に弾圧を加えました。吉水道場の閉鎖や念仏布教の禁止はもちろん、住蓮と安楽は死罪、法然上人は土佐へ、親鸞をはじめとする主な弟子達も流罪となりました。

その後、親鸞上人は、建暦元年(1211)に赦免され、翌二年(1212)に京都に戻って、山科の地に草庵を結んだと伝えられ、これが佛光寺(興正寺も)の始まりということです。そして、時の順徳天皇より「興隆正法寺」の勅額を賜わって、興隆正法寺(興正寺)と号しました。
その後、安貞元年(1227)に親鸞上人は興隆正法寺(興正寺)を弟子の二世・真仏上人に任せて関東布教を始めました。(但し、寺伝以外の資料では親鸞が、関東布教の前に京都に戻って「興隆正法寺(興正寺)」を創建したことは証明されていないため、後世、教団を正当化するための伝説であるとする見方もあるようです。)


その後、「興隆正法寺(興正寺)」は、三世源海、四世了海、五世誓海、六世明光の各上人が継承し、鎌倉時代末期になって、中興の祖となった第七世・了源上人が、教化活動の拠点を京都に置いて真宗教団を組織し、西日本一帯への布教活動を行いました。(親鸞創建伝説の一方、史実的に山科の興隆正法寺(興正寺)の事実上の創建者は、了源上人といわれています。)

そして、元応二年(1320)に、寺院を山科から東山の汁谷(しるたに、しぶたに 現・方広寺、京都国立博物館付近)に移しました。またこの頃に寺号を「佛光寺」と改めています。この、佛光寺という寺名の由来については以下のような物語が伝えられます・・・ある時、後醍醐天皇が南の方角から金色の光が差し込んでくるという夢を見て、付近を探させた所、賊によって盗まれていた興隆正法寺(興正寺)の阿弥陀如来像が発見されました。この仏像のことを聞いた了源上人が、阿弥陀如来像の座光を持って宮中へ参内しました。仏像は座光にぴたりと納まったので、後醍醐天皇も喜んで仏像を渡し、寺号を「阿弥陀佛光寺」を略して「佛光寺」と改めさせたと伝えられます。またこの時に、後醍醐天皇の勅命により、都から遠い山科の地から、東山汁谷の地に移して勅願所としたとも伝えられます。

それ以降、佛光寺は、了源上人の活躍もあって、元亨元年(1321)に覚如上人が親鸞聖人の墓所・大谷廟堂を寺院として創建した同じ浄土宗の本願寺よりも、遥かに大きな勢力を持っていました。しかし、了源上人は、東海地方への布教の途中で、建武二年(1335)十二月に伊賀(三重)の七里峠で賊に襲われて四十二歳で殺害されました。(本願寺その他対立する諸宗教集団による暗殺説もあるようですが)その後、了源の長男、源鸞が第八世を継承しますが、その死により了源上人の裏方(妻)・了明尼公(りぉうみょうにこう)が第九世を継承しました。南北朝時代に女性が一山の門主の地位に就くということは、画期的な出来事だったようです。(尚、その後、幕末から明治にかけて、もう一人の女性、第二十七世・真意尼公(しんにこう)が、元治の禁門の変の兵火で焼失した佛光寺の再建に尽くしました。)

こうして、室町時代には勢力を拡大した佛光寺に対し、比叡山延暦寺による弾圧も強まり、さらに応仁の乱で佛光寺は諸堂を焼失し、以降寺勢は次第に衰退していきます。一方、それまで小さな勢力だった本願寺には、現在の本願寺教団の基礎を築いた中興の祖、蓮如上人が登場して、精力的な布教活動を行って勢力を急速に拡大しました。
そして、佛光寺と本願寺の力関係が逆転する事態が起きます・・文明十三年(1481)に、佛光寺の第十三世光教の後継者である経豪上人が、宗派内の対立から、当時の仏光寺四十八坊のうち、四十二坊を率いて蓮如上人に帰依して従ったのです。そして経豪は蓮如の「蓮」の一字をもらい受け、蓮教と名乗り、山科西野に佛光寺の旧名「興正寺」を寺号とした寺院を再興しました。これが現在、西本願寺の南に接する真宗興正派本山の興正寺です。
一方、末寺わずか六坊となってしまった佛光寺は、経豪(蓮教)の弟・教誉上人を継承させ十四世としました。佛光寺教団が分裂したことで、その後は本願寺が大きな勢力を持つ時代となっていきます。尚、その後、天正十四年(1586)に、佛光寺は豊臣秀吉によって五条坊門(現在地)に移り今日に至ります。



さて、佛光寺本廟に戻ります・・・
佛光寺本廟は、佛光寺本山第二十世随如が、江戸時代の元禄年間(1688〜1703)に、本山から廟堂を移して創建したとされます。
明治時代中期に建てられたという唐門を潜ると、宗祖親鸞上人の遺骨を納める本堂と親鸞の絵像「御真影」が安置される廟堂へと石畳が続き、左には納骨堂の光寿堂があります。また、右には御茶所や鐘楼があり、鐘楼の向こうには墓所が広がります。
宗祖親鸞の七百五十回大遠忌(2011)の記念事業として平成十五年(2003)から六年間にわたる改修工事が行われ、本山等と共に、この本廟でも御廟の屋根や厨子が修復されました。

また、その境内には「三条小鍛治宗近の古跡」として、「宗近の井跡」を示す石碑があります。
三条小鍛治宗近宗近は、平安中期の刀匠で姓は橘といい、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住んでいたので三条小鍛治と称したとも伝えられます。名刀小狐丸をはじめ多くの刀剣を造ったとされますが、現存するものとしては三日月宗近などがあり、祇園祭の長刀鉾の鉾先の長刀は宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し、祇園社に奉納したものといわれるということです。
このあたり一帯は、かつて宗近の邸宅があったと考えられ、付近には粟田神社境内に鍛冶神社が、また、三条通挟んで合槌稲荷神社(ブログ参照)もあります。そして、江戸時代の「拾遺都名所図会」によると、この佛光寺本廟には、宗近が刀剣を鋳るときに用いた井水があったと記されています。(「都名所図会」では、知恩院の山門の傍と記します)

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祇園の八坂神社の東、観光名所としても知られる円山公園内の緩やかな坂を登っていくと、やがて公園東端の丘上に一つの寺院が見えてきます・・これが安養寺(あんようじ 京都市東山区八坂鳥居前東入ル円山町)です。

安養寺は、法然・親鸞両上人の念仏発祥の地、「吉水草庵」旧跡として知られる寺院です。
また、円山公園の「円山」という名前は、安養寺の山号「慈円山(じえんざん)」の「慈」を外して命名されたものです。この由来からもわかるように、安養寺は、かつては円山公園の東北一帯を境内とする大きな寺院でもありました。(主に安養寺境内の由緒書等を引用します)


さて、安養寺は、正式には、慈円山大乗院安養寺という時宗寺院です。
元々は、平安時代初期の延暦年間(782〜806)に、桓武天皇の平安遷都の際、都の鎮護のために、伝教大師最澄が創建した天台宗寺院と伝えられます。その後は、天台門跡として知られる青蓮院に属し、平安時代末期になって、法然上人の浄土宗布教の中心地「吉水草庵」「吉水禅坊」として日本仏教史にその名を留めます・・


さて、法然上人は、十三歳で比叡山に登って十五歳で出家受戒し、東塔西谷の皇円阿闍梨のもとで三年間学びました。その後、西塔黒谷の叡空上人の門下となり一心に勉強を重ね、またその間、南都仏教をも学びましたが、二十数年間たっても、真の魂の救済方法を得ることは出来ませんでした。
承安四年(1174)、四十三歳となった上人は、ある時、唐の善導大師の「観無量寿経疏」中から、「 一心専念弥陀名号、行住往座臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業、順彼仏願故(常に南無阿弥陀仏と名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めである。これこそ弥陀の本願に叶う道である)」という文を発見しました。そして、従来の南都諸宗、真言、天台の難解な経典や厳しい修行の道を捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏をひたすら信じ唱える専修念仏立教開宗の信念を得ました。こうして、法然上人は、叡山を下り、最初に西山の広谷(粟生光明寺)に住んだ後、この東山吉水に移りました。
そして、承元元年(1207)、七十五歳の時、弟子の住蓮、安楽坊の騒動が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪になるまでの三十数年間、吉水の草庵で布教伝道を行いました。


法然上人のもとには、やがて貴貧を問わず救済を求める多くの人々が集まります・・
公家では関白九条兼実、武家では熊谷直実(熊谷蓮生房)、僧侶では、その後の浄土宗の発展に努めた多くの高僧・・浄土宗第二代・聖光房弁長上人(鎮西上人)、浄土宗総本山知恩院の基礎を築いた勢観房源智上人、「白川上人」こと法蓮房信空上人、西山浄土宗の祖・善恵房証空上人等々、中には、盗賊出身の阿波の介、耳四郎こと天野四郎、遊女・白拍子も集まり、草庵は次第に発展して、中・西・東と三坊に拡張され吉水の禅坊として知られるようになりました。
また、建仁元年(1201)、当時二十九歳の親鸞上人も、比叡山から六角堂の観世音菩薩に百日参詣し、その霊告を受けて法然上人の門下となりましたが、時に法然上人六十九歳でした。



ここで、吉水草庵(吉水禅坊)の位置についてです・・
法然の時代には、現在の円山公園を中心に、北は知恩院三門前から南は雙林寺(双林寺)におよぶ山麓一帯は、「真葛ケ原」と呼ばれ、真葛や薄、茅、萩等が一面に広がる原野でした。吉水は、この真葛ケ原の東北の隅に位置していて、その北方には、比叡山東塔の住坊、青蓮坊の里坊にはじまる天台門跡青蓮院があり、当時は三条白川坊と呼ばれていました。
現在は、青蓮院の南には、浄土宗総本山・知恩院の広大な境内がありますが、法然上人入滅後にその御廟(知恩院勢至堂付近)に創建された知恩院は、もちろん当時はまだ存在せず、現在の知恩院境内付近には、青蓮院に属する天台系の塔頭寺院等(安養寺の前身も含まれると思われます)があったようです。

時代は飛びますが、浄土宗ホームページによると、室町時代の応永年間(1394〜1427)頃の古地図には、当時、現在の知恩院御影堂(本堂)付近一帯にあった白毫寺(びゃくごうじ)に隣接して、安養寺が画かれているということです。(尚、知恩院は、室町時代後期まで、現在の知恩院勢至堂(知恩院境内の東端)を中心とした小寺院に過ぎませんでした。)
この白毫寺という寺院は、聖徳太子自作の阿弥陀像を祀ることから太子堂と呼ばれていた寺院で、江戸の慶長年間(1596〜1615)に知恩院が大きく拡充されると、寺域を奪われて移転縮小しました(現・河原町五条西入る本塩竈町)
安養寺も、知恩院の発展によって寺域が縮小しますが、室町時代の古地図では、安養寺の寺域には、大懺法院、吉水東新坊、吉水中坊、吉水西坊といった建物が記載されていて、このことからも、吉水草庵(吉水禅坊)が安養寺であることが明らかであるいうことです。


さて、承元元年(1207)の専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪となった法然上人は、建暦元年(1211)にようやく帰京できましたが、吉水の草庵は荒廃してしまっていたため、現在の知恩院勢至堂の地「大谷禅房」を住居とします。そして、翌建暦二年(1212)正月に、八十歳で入寂しました。(大谷禅房の傍に法然上人の墓所が設けられ、やがてこの墓所を中心に現在の知恩院へと発展していきます。)

一方、吉水一帯は、法然上人が流罪となり、念仏布教停止となった後は、関白九条兼実の弟、青蓮院第三世門主の慈鎮(じちん 慈円=じえん)和尚が管理するところとなり、慈鎮(慈円)和尚は吉水の堂宇を整備して安養寺の中興と呼ばれます。
「愚管抄」の著者としても知られる慈鎮(慈円)は、天台座主を四度務めた旧仏教界の重鎮ですが、その一方で、新興宗教である浄土宗の祖法然や、その後の浄土真宗の祖親鸞にも寛大な所があり、延暦寺の抑圧から庇護する姿勢を見せました。

この青蓮院門跡の慈鎮が、南の吉水の地に一時移ったのは、後鳥羽上皇が、三条白川坊(青蓮院)の地に、最勝四天王院という寺院の建立を計画したために、寺域を明け渡す必要があったためでもありました。後鳥羽が最勝四天王院を建立した目的は、鎌倉幕府の将軍実朝の調伏のためといわれ、承元元年(1207)竣工しますが、その後、倒幕計画の進展した承久二年(1220)に棄却されました。
元久二年(1205)頃から、慈鎮は、三条白川坊(青蓮院)の吉水への移転を準備したようで、同年、三条白川坊の大懺法院を、吉水に移転再建し、建永元年(1206)には、吉水に熾盛光堂を造営しています。そして、吉水禅坊を「慈円山大乗院安養寺」と号しましたが、これが現在の安養寺の寺名の始まりになります。

その後、安養寺は、次第に衰退しますが、室町時代の至徳年間(1384〜87)に、国阿(こくあ)上人が、東山方面に布教した際、当時の住職の懇請によって再興し、以後時宗寺院となりました。(尚、国阿上人は、安養寺の他にも、正法寺、雙林寺といったこの地域の寺院を創建再興したことで知られます)また、文化史的には、室町時代中期の連歌師、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の東山千句興行が安養寺で行われています。

その後、江戸時代に、安養寺は幕府の庇護を受けて最盛期を迎えます。
当時は、慈円山を「円山(まるやま)」と称し、境内には、也阿弥、眼阿弥、重阿弥(赤穂浪士が討ち入りを決定した円山会議を開いたということで知られます)、左阿弥、連阿弥、正阿弥という寺坊六ヶ寺と本坊を構えた堂々たる山寺だったようです。
 これら六阿弥は各々美しい庭園を持ち、眺望に富む楼閣を構えていたことから、次第に、遊山客に席を供して湯茶の接待をする行楽地として栄えることになりました。境内では様々な催しものが行われ、春秋の花見時には多数の文人庶民が訪れ、酒を飲んで花を鑑賞して楽しんだことが当時の絵図にも画かれています。
また、江戸時代末期になると、安養寺境内の六坊にかがり火が焚かれ、多くの人々がこの「祇園の夜桜」見物に訪れたと伝えられ、この頃から、既に円山(現・円山公園)の花見は全国的に知られるようになっていました。


さて、その後、安養寺は、明治維新の廃仏毀釈で境内地を失って六坊が廃寺となり、明治九年(1876)には円山公園の造成のためにさらに寺地を没収されました。
一時は重阿弥と連阿弥を合わせて、斬新な洋風旅館として「也阿弥ホテル」が建てられますが、明治三十二年(1899)三月の大火で全焼するなどして、次第に他の本坊も衰退消失し、六坊の内では、左阿弥のみが高級料亭として存続することになりました。そして、現在、安養寺は本尊・阿弥陀如来像を祀る本坊、弁天堂(吉水弁財天堂)、大聖歓喜天を祀る雨宝堂を残すのみとなっています。



さて、安養寺正面の石段を登ると、「真葛原吉水庵室」と書かれた石碑が建つ山門があり、さらに石段を登った所に、本尊阿弥陀如来像を祀る本坊や庫裏等があります。また、本坊左には、鎌倉時代の阿弥陀石仏が安置されています。そして、さらに狭い石段を登ると、大聖歓喜天を祀る雨宝堂があります。

一方、飛び地境内(門前から約五十メートル南)には、吉水弁財天堂があります。
技芸上達の信仰が厚い円山吉水弁財天尊、及び裏堂に弁財天の使者とも伝わる白蛇に変じた宇賀神将尊を祀りますが、秘仏で六十年毎の巳年に開帳されるということです。この弁財天堂は、慈鎮和尚が建久年間(1190〜98)、安養寺境内の名水「吉水」の畔に、安養寺の鎮守として比叡山から弁財天尊を勧請したものと伝えられます・・尚、この地が吉水と呼ばれたのは、境内から霊水が涌き、よい水だったことから、「吉水」と称されたと伝わります。

「都名所図会」等によると、この吉水弁財天は、室町時代に源照という琵琶法師が、技芸上達をこの弁財天に祈願した所、琵琶の妙曲を奏するという評判が広まり、その後、後小松上皇の恩寵を蒙って盲人としてはじめて紫衣を賜りました。源照は、この御礼として弁財天堂を建立したので、紫衣弁財天と呼ばれるようになったと伝わります。また、鎌倉時代の刀工、粟田口吉光は、弁財天の合槌を得て、この吉水の名水で名刀を打ち有名になったとされ、今も御堂の下に、この時、吉光が用いた鉄砧(かなとこ)石が残っているということです。
また、弁財天は、七福神の中で唯一の女神とされ、容色麗しく、音楽・技芸・福徳・財宝その他様々なものを授け、弁舌の才や知恵を与え、怨敵を除く等様々な御利益を授けるとされますが、恋愛良縁にも御利益があるとされてきたことから、祇園には、古くから"恋の叶わぬときは 円山辨天様の池の井守のつがいを採って 真っ黒黒焼き大和のほうらく・・・想う方にふりかけしゃんせ、この恋叶います。"という唄が伝わっているということです。

また、弁天堂の周辺には、法然上人も使ったといわれる慈鎮和尚閼伽の井戸や円光大師伝法の地の碑柱、慈鎮和尚多宝塔、多層塔等があります。この閼伽の井戸の水は、青蓮院で灌頂法会が行はれる際に、道中に高張提灯を建てこの地まで水を汲みに来ていたと伝わり、また、維新以前は、知恩院や東大谷からも正月の仏前の初水として年々汲みに来ていたということです。
特に注目されるのは、弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚宝塔です。高さ約二百四十四センチ、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏並座する鎌倉時代初期の名品として国の重要文化財に指定されています。

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