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今回は、数年前のブログパート1では写真1、2枚程度しか掲載出来なかった護王神社です。この数年の間に、境内の一部が新たに整備されたので、写真を増やして再掲載します。
京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町・・京都御所の西、烏丸通を挟んで蛤御門の向かいに鎮座する護王神社(ごおうじんじゃ)は、祭神の和気清麻呂公が猪によって難から逃れたという故事に因んで、「いのしし神社」とも呼ばれ、立地の良さからも京都の面積中規模クラスの神社としては広く知られている神社です・・特に、戦前は、忠臣・和気清麻呂や清麻呂を守護した猪の姿と共に十円紙幣にも描かれる程有名な神社でした。
そして、現在でも境内には、狛犬の代わりの霊猪像(駒猪)をはじめ様々な猪のコレクションが展示されていることでも知られ、特に亥年には多くの人が参拝に訪れます。
さて、護王神社は、主祭神として、道鏡事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守り、平安京遷都に尽力した和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)と、その姉で、慈悲深く、戦乱で身寄りを失った多くの孤児たちを養育した和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)を祀り、清麻呂の協力者でもあった藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)と路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)を配祀します。
神社の正確な創建年代は不明ですが、元々、和気清麻呂が開基となった洛西の高雄山神護寺の境内に祀られていた和気清麻呂を祀る霊社(護王善神堂)に始まるとされ、一説には、文覚(もんがく)上人が、寿永三年(1184)に神護寺を再興した際に、寺の鎮守社として「護法善神」を祀ったものともいわれます。以来、古くから「護法善神」と称してきましたが、江戸時代末期の嘉永四年(1851)三月、孝明天皇からは和気清麻呂の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治七年(1874)に、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。その後、明治十九年(1886)に、明治天皇の勅命によって、神護寺境内から華族・中院家(なかのいんけ)の邸宅跡地になる現在地に社殿を造営して遷座し、大正四年(1915)に、姉の和気広虫が合祀され、広虫が孤児救済で知られることから、神社は子育明神とも呼ばれるようになったということです。
さて、明治以降、第二次大戦前まで、和気清麻呂は道鏡の野望を退けて皇統を守った忠臣、平安京遷都の立役者として称えられ、聖徳太子、藤原鎌足、菅原道真、楠木正成等と並んで紙幣に肖像が画かれた数少ない歴史上の英雄の一人となりました。
しかし、戦後の歴史研究によって、いわゆる道鏡事件は政治的に捏造されたもので、道鏡は政争に利用された犠牲者に過ぎないという説も出され、一方の和気清麻呂も、実際は単なる実務官僚の域を出ず、称徳女帝の崩御後に天智系の弘仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手等や藤原式家の藤原良継、藤原百川兄弟・・特に百川の手先、使い走りに過ぎなかったという説も出てきました。
それはともかく、藤原百川の嫡男・藤原緒嗣らが編纂した「日本後紀」には、清麻呂の薨伝(国家が編纂した正史で、上級貴族の死亡の際に、その人物の業績等を偲んで記された追悼文)が記載されていますが、他の人物の薨伝よりもかなり長く内容が詳しいものです。この薨伝から、平安初期当時、清麻呂の功績が高く評価されていたことが感じられます。
この「日本後紀」の薨伝をベースにして、清麻呂と姉の広虫について書いてみます・・
(一部「続日本紀」、神社境内の掲示版も引用)
和気清麻呂は、奈良時代の天平五年(733)、現在の備前国藤野郡(現岡山県和気町)で、和気乎麻呂の子として誕生しました。(和気氏は、備前東部や美作東南部を領する有力豪族でした)本姓は、磐梨別公(いわなしわけのきみ)といい、後に藤野和気真人(ふじのわけのまひと)に改称しました。
その後、清麻呂は、姉の和気広虫と共に第四十六代・孝謙天皇(四十八代・称徳天皇)に仕え、高直な性格で我が身を顧みず一身に忠節を尽くしたことから、帝の寵愛と信頼を得て、右兵衛少尉に任じられ、その後、天平神護(765〜767)初めに、従五位下を授けられ近衛将監に転任し、特別に五十戸の封を賜りました。
一方、姉の広虫は、成人すると、天平二十一年(749)か天平勝宝二年(750)に、従五位下葛木連戸主(かつらぎのすくねへぬし)に嫁ぎます。葛木連戸主と広虫は、平城京内の孤児を集めて養育するなど、今で言う社会福祉事業に努め、天平勝宝八年(756)には、成人となった孤児の男九人、女一人を養子としています。(また、天平宝字三年(759)三月十九日に、葛木連戸主が、東大寺正倉院の薬物を庶民救済施設である施薬院に分与することを請う文章が正倉院文章中に残されているということです。)
しかし、天平宝字四年(760)頃に葛木連戸主は死去して広虫は三十歳で未亡人となり、孝謙天皇に女官として仕えました。そして、天平宝字六年(762)、孝謙帝が出家すると、上皇に従って仏弟子として出家し、法名を「法均(ほうきん)」と号しましたが、その人柄は貞順で節操を欠くことは無かったと伝わります。そして、尼の位の進守大夫尼位を授けられ、女帝の腹心となって、四位相当の封戸と位田を賜りました。
天平宝字八年(764)、藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こして殺害されると、これに連座して斬刑に相当する者が三百七十五人いましたが、法均(和気広虫)が強く助命減刑を上申したことから、称徳天皇はこの願いを容れて、死刑を減じて、流刑や懲役刑にしたと伝えられます。また、この藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が鎮圧された後、飢餓や疾病に苦しむ百姓が子供を草むらに遺棄することがあり、法均(和気広虫)は人を派遣して八十三人の孤児を収容して養育し、天皇から葛木首(かつらぎのおびと)の性を賜って孤児達の性とし、全員を養子としました。
さて、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱後、道鏡が称徳天皇の寵愛を得て、天皇と同様の警護等を受ける程の存在となり、法皇と称しました。神護景雲三年(769)、大宰府の主神(かんつかさ)の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が、道鏡に媚び諂って宇佐八幡神の神託を詐称して、道鏡を皇位に就ければ天下は泰平となると称徳天皇へ奏上し、道鏡も内心これを喜んで皇位に就くことを考えたとされます。
称徳天皇は、和気清麻呂を傍に召して、「夢の中に八幡神の使者が現れ、天皇へ奏上することがあるので、尼法均を遣わしてほしいと告げたが、朕は、法均は体が弱く長旅に耐えられないので、代わりに弟の清麻呂に代行させると答えたので、そなたは早く八幡神の許へ参詣し神託を聞いてきてもらいたい。」と清麻呂に命じました。また、このことを知った道鏡も、清麻呂を呼んで、首尾よく八幡神のお告げをもたらせば大臣の位を与えると約束しました。(「大神が使者の派遣を請うのは、おそらくは私の即位のことを告げるためであろうと語り・・「続日本紀」)
これより以前、道鏡の師でもあった路真人豊永卿命(みちのまひととよなが)は、清麻呂に「もし道鏡が皇位につくようなことがあれば、何の面目があって臣下として帝にお仕えできようか。私は、二、三の仲間と共に今の世の伯夷になるのみだ(古代中国の殷の伯夷に倣って身を隠して、道鏡に仕えない)」と告げました。清麻呂はその言葉に深く得心し、天皇のために命を差し出す覚悟を決めます。
神宮に参詣して神の託宣(習宜阿曾麻呂によって捏造された)について申上し、清麻呂が、「この度の大神の教命は国家の大事であり、託宣は信じ難いものです。願わくば神異を示し給え。」と言ったところ、神が忽然と、身の丈三丈余りのは満月のような姿で現れました。
清麻呂は、驚いて狼狽し仰ぎ見ることが出来ませんでしたが、神は託宣し、「我が国では君臣の身分定まっているにもかかわらず、道鏡は人道に背いて神器を得る野望を持っている。このため神は激怒していて、道鏡の願いを聴きとどけることなない。汝は帰って我が言葉の通りに奏上せよ。皇位は必ず皇孫によって継承されるものである。汝は道鏡の怨みを恐れてはいけない。我が必ず助けるであろう。」(「我が国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることは未だかつてなかったことである。皇位には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払いのけよ(続日本紀)」と告げました。
(尚、「八幡宇佐御託宣集」によると、清麻呂が宣命の文を読もうとした時、八幡大神が禰宣(ねぎ)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣して宣命を聞くことを拒んだため、清麻呂は不審を表明して、与曽女に強く要請しました。そこで、与曽女が大神に顕現を願うと、満月のような光の中に僧形姿の身の丈三丈の大神が現れ、清麻呂は大神の「天の日継は必ず帝の氏に継がしめむ」という託宣を得たということです。)
清麻呂は帰京して、神の教えのままに天皇に奏上しました。
これは、称徳天皇や道鏡を怒らせますが、天皇は死罪にするのは忍びないと、清麻呂の官職を解い因幡員外介(いなばのいんがいのすけ)に左遷し、、姓名を別部(わけべ)穢麻呂(きたなまろ)と改め、(清麻呂がまだ任地に着かないうちに続いて詔があり(続日本紀))大隅国に流罪としました。また、法均は還俗させて、別部狭虫(さむし)と改名し備後国に配流しました。
次回に続きます・・
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