京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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かなり以前、ブログパート1で、豊臣秀次の墓のある瑞泉寺や善正寺について書きましたが、今回は、善正寺について再掲載してみます。

京都市左京区区岡崎東福ノ川町・・金戒光明寺(黒谷)の西、吉田山の南に位置する善正寺(ぜんしょうじ)は、吉田山の南山裾の丘上に位置し、神楽坂通という坂道から南へ回った見晴らし良い場所にあります。周囲を住宅街に囲まれているために、初めての方には少し見つけ難いお寺かもしれません。


さて、善正寺(ぜんしょうじ)は、山号を明慧山という日蓮宗寺院です。
石段脇の山門には「豊臣秀次公 村雲門跡瑞龍寺御墓所」と記されているように、非業の死を遂げた関白・豊臣秀次の菩提所として知られています。

善正寺は、安土桃山時代の慶長二年(1597)に、太閤豊臣秀吉の姉で、亡き関白秀次の母親の智(とも、瑞龍院日秀)が、子の秀次の菩提を弔うために嵯峨亀山に創建した一庵に始まります。
智(とも、瑞龍院日秀)は、兄の秀吉と違って子供に恵まれましたが、僅か数年でその子供達を相次いで失います・・次男・秀勝は、文禄元年(1692)に朝鮮出兵中に二十三歳で病死し、文禄四年(1595)に、三男の大和大納言秀保が十七歳で変死、続いて同年、長男・関白秀次が謀反の疑いから太閤秀吉に二十八歳で切腹を命じられ、その妻子も三条河原で処刑されます。また、智(とも)の夫の三好吉房も秀次事件に連座して讃岐に配流されてしまいました。こうして家族全てを失った智(とも)は、この世の儚さを実感して、残された人生で子や孫の菩提を弔うことを決意します。


慶長二年(1597)に嵯峨亀山に一庵(後の善正寺)を創建した後、智(とも)は出家して、明慧日秀(みょうえにっしゅう)と称し、慶長五年(1600)に、日蓮宗の日鋭上人を開山に迎えて、現在の岡崎の地に善正寺を移転し堂宇を整えました。「拾遺都名所図会」によると、「善正寺」という寺名は、秀次の法名「善正院殿高岸道意」から採られたもののようですが、この法名が秀次が高野山で剃髪蟄居した生前のものか追善されたものは不明とはいえ、「善正」の二文字には、謀反の疑いを受けた秀次の身の潔白の意味が込められていると思われます。そして、これもあくまで想像ですが・・日秀が、寺号を「善正寺」としたことは、秀次の首や妻子三十数名の死骸が埋められた塚が、その死後も菩提を弔うことなく捨て置かれ、「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれたことへの無念と批判が込められている・・「悪逆」とは正反対の「善正」という言葉に、日秀が我が子秀次一族の恥辱をはらし、安らかな冥福を願う強い気持ちを感じます。

また、日秀自身は、同じく、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から嵯峨野村雲に寺地を下賜されて瑞龍寺を建立しました。この瑞龍寺は、やがて、格式高い尼門跡寺院として「村雲御所」とも呼ばれることになります。その後、現在の堀川今出川付近(上京区堅門前町)に移転し、昭和三十七年(1962)に秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡に移築されました。


善正寺の境内墓地にある立派な御廟善正殿は普段は閉められていますが、中には大きな五輪塔があり、これが秀次の墓(首塚供養塔)になります。また、御廟の左には、秀次の妻子ら一門の供養塔があり、そのすぐ左前には、初代住職・日秀の墓。さらに並んで歴代住職の墓があります。その他、墓地には後伏見天皇の十八世皇孫女・日尊女王墓、霊元天皇皇曽孫女・日照女王墓等があります。また善正寺の寺宝としては日秀が作らせた秀次の木像、日秀の肖像画があるということです。(近年、善正寺を訪れる歴史ファン等が増えたようで、寺では、供養の参拝目的以外の好奇心による秀次墓の見学は断っています。)

また、善正寺は、江戸時代に全国各地に起こった日蓮宗の壇林(僧侶の学問所、大学)のひとつ、広大な敷地を有する東山壇林として栄えました。京都では、東山壇林の他に、松ヶ崎檀林、求法院檀林、鷹峯檀林、山科檀林、鶏冠井檀林の山城国(京都)六檀林がありましたが、この東山壇林は、寛永元年(1624)に開かれたとされ、善正寺第四世・日演上人の時代に大いに栄えた後、明治初年の廃壇まで、多くの高僧を育てたといわれています。

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円山公園の南にある円山音楽堂の東、石材店の横に隠れるようにある小さな寺院が雙林寺(そうりんじ 双林寺 東山区下河原鷲尾町)です。
現在は僅かに本堂等を残すのみですが、かつては広大な寺域を有した由緒ある勅願寺で、高台寺、東大谷廟、円山公園等は雙林寺の寺域を削って建造されたものです。平安時代の創建以来、衰退縮小しながらも現在まで存続し続けてきた、この地域の歴史の生き証人のようなお寺といえるでしょう。(以下、雙林寺の無料配布説明書(ホームページでも公開されています)を参照します。



雙林寺(双林寺)は、山号を金玉山という天台宗寺院で、本堂には、本尊の薬師如来像(国重文指定)と歓喜天像を祀ります。平安時代初期の延暦二十四年(805)、桓武天皇の勅命により、左大使尾張連定鑑(おわりのむらじさだみ じょうかん)が、伝教大師最澄を開基に招いて日本初の護摩祈祷道場として創建としたのが雙林寺の始まりと伝えられ、唐の沙羅双樹林寺に因んで、霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院(正式名)と称しました。そして、弘仁十四年(823)の比叡山延暦寺の建立後は、その別院となったということです。

その後、永治元年(1141)には、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が住持となり、建久七年(1196)には、土御門天皇皇子・静仁法親王がこの寺で得度して双林寺宮と称する等、皇室との関係も深かく、鎌倉時代までは、数万坪という広大な寺領に十七の支院(塔頭)を有していたようですが、南北朝時代の建武二年(1335)に足利尊氏と新田義貞との戦場となって荒廃したと伝えられます。
その後、室町時代の至徳年間(1384〜87 または、応永年間(1394〜1427)とも)に、国阿(こくあ)上人が入寺して、山号を中霊山として時宗国阿派の本山、東山道場と称して再興しました。そして、後小松天皇の深い帰依を受けて、至徳三年(1386)に「金玉山」の宸額を賜っています。 しかし、その後、火災や応仁の乱によって再び荒廃しました。


また、平安時代末期には西行法師や平康頼(たいらのやすより)、南北朝時代には頓阿(とんあ)上人が雙林寺山内に庵を構えていたとも伝えられます・・

平安末期から鎌倉初期の歌僧として有名な西行法師(1118〜1190)は、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」という鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが、二十三歳の時、武士の名誉や出世等も捨て去って突然出家しました。その後、京を離れ全国を行脚しますが、雙林寺へは出家の翌年の永治元年(1141)から、その塔頭「蔡華園院」に居住していたようです。
「山家集」(上、冬歌)には、野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」という歌があります。 また、有名な「山家集」(上、春歌)にある「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」という歌は、何時何処で詠まれたのかは不明ですが、「西行物語」によると、晩年は雙林寺に庵を結んで修行していたと記していて、その庵(西行庵)前の桜のもとで詠まれたのではないかという説があります。

また、北面の武士で後白河法皇の近習として知られる平康頼(?〜1220)は、治承元年(1177)、「平家物語」で有名な平家打倒を企てた鹿ケ谷の変が発覚し、少将藤原成経や法勝寺執事俊寛と共に鬼界が島に流されますが、翌年赦免されて帰洛し、この雙林寺の山荘(現在の東大谷祖廟の付近と推定)に隠棲して、晩年、この地で仏教説話集「宝物集」を著したとされます。
さらに、南北朝時代の和歌四天王の一人に数えられる頓阿法師(1289〜1372)は、西行を慕って諸国を行脚し、西行ゆかりのこの地に草庵を結んで「草庵集」を著しています。


また、中世以降、雙林寺は、桜の名所として知られたことから、安土桃山時代の天正十二年(1584)には、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てさせたといわれ、翌十三年(1585)には、秀吉が本堂を再建しています。
そして、慶長十年(1605)に高台寺、承応二年(1653)に東大谷廟が造営されることとなり、寺領を献上し規模を縮小しました。その後、明治維新の際に、再び天台宗に改め、明治十九年(1886)の円山公園の建造の際に、多くの寺領を上地して失いました。そして、現在は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行堂を残すだけとなっています。




本堂に安置する本尊・木像薬師如来坐像は、伝教大師最澄の作と伝わる平安時代の榧材一木造りの高さ約九十センチの像です。翻波式衣文がよく表現されている重厚な堂々とした姿で、国の重要文化財に指定されています。また、秘仏の歓喜天(聖天)は、西大寺管長で生駒山宝山寺貫主・松本実道大僧正が当寺のために勧請した、正に生駒聖天の分身というべき霊験あらたかなる尊像ということです。(毎月一日の聖天日、八日の薬師日に、第三日曜日には本堂にて護摩祈祷が行われます)

境内には、他に本堂の西南には小さな地蔵堂があり、その前には法華塚があります。
法華塚は、永治元年(1141)に、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が雙林寺の住持となった際、父鳥羽天皇の菩提を弔うために法華塔を建立し、天皇自ら書写した金字法華経八巻を納めましたが、応仁の乱によって宸筆法華経と共に罹災したため、その跡地にその灰土を集めて一塊の塚としたと伝えられているものです。

そして、明治五年(1872)八月、追善のために法華塚を修繕したときに地中より出現したのが、地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像です。この時、長年持病に悩まされていた大阪の森田某という人が通りかかって、この地蔵菩薩に持病平癒を一心に祈願したところ、不思議にも数日後に全快したということです。
霊験に非常に感謝した森田某氏は、報恩感謝のため、現在の地蔵堂を建立し、寺のある鷲尾町町内守護と共に地蔵菩薩を祀りました。そして、現在も持病平癒地蔵尊として、多くの人々の信仰を集めているということです。(毎月二十四日は地蔵日として読経が行われます)

また、本堂西側にある三塔は、左から、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔と伝えられていて、前述したように雙林寺ゆかりの人物であるところから、後世に好事家によって建てられたものと考えられています。また、かつて境内には、頓阿法師と平康頼の墓があったとされるということですが、実際の所は不明のようです。



最後に、飛び地境内にある西行堂です。
この西行堂は、本堂の西南、円山音楽堂の南(円山公園音楽堂南鷲尾町)にある西行庵内にあります。境内の拝観は自由ですが、堂内は非公開です。また、西行庵内の他の隣接する借家(松井氏)や「茶席(花輪氏)」の迷惑にならないように拝観することが望まれます。 
  
この西行堂は元々、天正時代に場所は不明ながら西行が居住したという塔頭、「蔡華園院」(西行草庵)の跡地に建立されたものということです。その後、享保二十一年(1731)に、摂津池田李孟寺の天津禅師によって、現在の地に移築再興されました。また、明和七年(1770)に冷泉為村が修繕しています。 堂中央には、為村筆の「花月庵」と記した横額が掛けらていて、その当時は、為村が「花月庵」と命名していたようです。その後、明治二十六年(1892)富岡鉄斎が勧進文を書き、庵主宮田小文法師によって、隣接する茶席(浄妙庵・皆如庵)が移築され、現在の姿となったということです。

尚、西行庵は、母屋、皆如庵(浄妙庵・皆如庵)、雙林寺が管理する西行堂からなり、茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の浄妙庵を移したもので、皆如庵は、桃山時代の名席で、円窓の床と「道安囲い」が有名ということです。(尚、西行庵は、庵主花輪氏が管理し、茶室の予約拝観も可能です。)
また、西行堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像が祀られていましたが、現在は雙林寺本堂に移されています。また門横にある「不許葷肉入門内」という石碑は、「葷(くん=ニンニク、ネギ、ニラ)や、肉の入門を許さず」と訳され、修行に必要の無い物の持ち込み禁止という意味になります。

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