京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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三条通蹴上にある「ウェスティン都ホテル京都」の西、京都市東山区粟田口鍛冶町にある佛光寺本廟(ぶっこうじほんびょう)は、真宗佛光寺派本山の佛光寺(京都市下京区高倉通仏光寺下る新開町)の別院、宗祖親鸞聖人御廟所を中心とした佛光寺の墓所(東山廟所とも)になります。


佛光寺については、前にブログパート1に採り上げましたが、一応再掲載しておきます・・・

下京区高倉通仏光寺下る新開町にある佛光寺(ぶっこうじ)は、山号を渋谷(汁谷)山(じゅうこくさん)という真宗佛光寺派の本山で、創建は、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人が山科(京都市山科区)に結んだ草庵に遡ると伝わります。

鎌倉時代初期の承元元年(建永二年 1207)、「承元の法難」によって、浄土真宗の開祖(宗祖)・親鸞上人は、三十五歳の時に京都を追放され、越後国(新潟県)へ流刑にされました。この「承元の法難」は、直前の年号から「建永の法難」とも呼ばれ、比叡山延暦寺や奈良興福寺といった旧仏教勢力の圧力によって、浄土宗開祖・法然上人を中心とする専修念仏教団が弾圧された事件です。
念仏を唱えることで、全ての人々が平等に救われると説いた法然上人の教えは、旧仏教の側から見れば、自分達の教義を否定するものと受け止められ、念仏が新興階級の武士や農民、またこれまでの旧仏教の教義では救いの対象から漏れていた女性達に広く受け入れられ広まっていくことに脅威を感じました。旧仏教寺院は専修念仏の停止を朝廷や鎌倉幕府に訴えました。特に、元久二年(1205)に、興福寺の僧・解脱貞慶上人が、法然上人らの弾圧を願い出た「興福寺奏状」は弾圧のきっかけとなりました。

また、前に安楽寺(左京区)を採り上げた時に書きましたが、「承元の法難(建永の法難)」の直接の原因となったのは、法然上人の弟子の僧・住蓮と安楽の六時礼讃声明を聴いて感激した後鳥羽上皇の二人の女官(松虫姫と鈴虫姫)が、上皇の留守中に出家してしまったという事件でした。自分に無断で出家したことを知った上皇は激怒し、法然門下の教団に弾圧を加えました。吉水道場の閉鎖や念仏布教の禁止はもちろん、住蓮と安楽は死罪、法然上人は土佐へ、親鸞をはじめとする主な弟子達も流罪となりました。

その後、親鸞上人は、建暦元年(1211)に赦免され、翌二年(1212)に京都に戻って、山科の地に草庵を結んだと伝えられ、これが佛光寺(興正寺も)の始まりということです。そして、時の順徳天皇より「興隆正法寺」の勅額を賜わって、興隆正法寺(興正寺)と号しました。
その後、安貞元年(1227)に親鸞上人は興隆正法寺(興正寺)を弟子の二世・真仏上人に任せて関東布教を始めました。(但し、寺伝以外の資料では親鸞が、関東布教の前に京都に戻って「興隆正法寺(興正寺)」を創建したことは証明されていないため、後世、教団を正当化するための伝説であるとする見方もあるようです。)


その後、「興隆正法寺(興正寺)」は、三世源海、四世了海、五世誓海、六世明光の各上人が継承し、鎌倉時代末期になって、中興の祖となった第七世・了源上人が、教化活動の拠点を京都に置いて真宗教団を組織し、西日本一帯への布教活動を行いました。(親鸞創建伝説の一方、史実的に山科の興隆正法寺(興正寺)の事実上の創建者は、了源上人といわれています。)

そして、元応二年(1320)に、寺院を山科から東山の汁谷(しるたに、しぶたに 現・方広寺、京都国立博物館付近)に移しました。またこの頃に寺号を「佛光寺」と改めています。この、佛光寺という寺名の由来については以下のような物語が伝えられます・・・ある時、後醍醐天皇が南の方角から金色の光が差し込んでくるという夢を見て、付近を探させた所、賊によって盗まれていた興隆正法寺(興正寺)の阿弥陀如来像が発見されました。この仏像のことを聞いた了源上人が、阿弥陀如来像の座光を持って宮中へ参内しました。仏像は座光にぴたりと納まったので、後醍醐天皇も喜んで仏像を渡し、寺号を「阿弥陀佛光寺」を略して「佛光寺」と改めさせたと伝えられます。またこの時に、後醍醐天皇の勅命により、都から遠い山科の地から、東山汁谷の地に移して勅願所としたとも伝えられます。

それ以降、佛光寺は、了源上人の活躍もあって、元亨元年(1321)に覚如上人が親鸞聖人の墓所・大谷廟堂を寺院として創建した同じ浄土宗の本願寺よりも、遥かに大きな勢力を持っていました。しかし、了源上人は、東海地方への布教の途中で、建武二年(1335)十二月に伊賀(三重)の七里峠で賊に襲われて四十二歳で殺害されました。(本願寺その他対立する諸宗教集団による暗殺説もあるようですが)その後、了源の長男、源鸞が第八世を継承しますが、その死により了源上人の裏方(妻)・了明尼公(りぉうみょうにこう)が第九世を継承しました。南北朝時代に女性が一山の門主の地位に就くということは、画期的な出来事だったようです。(尚、その後、幕末から明治にかけて、もう一人の女性、第二十七世・真意尼公(しんにこう)が、元治の禁門の変の兵火で焼失した佛光寺の再建に尽くしました。)

こうして、室町時代には勢力を拡大した佛光寺に対し、比叡山延暦寺による弾圧も強まり、さらに応仁の乱で佛光寺は諸堂を焼失し、以降寺勢は次第に衰退していきます。一方、それまで小さな勢力だった本願寺には、現在の本願寺教団の基礎を築いた中興の祖、蓮如上人が登場して、精力的な布教活動を行って勢力を急速に拡大しました。
そして、佛光寺と本願寺の力関係が逆転する事態が起きます・・文明十三年(1481)に、佛光寺の第十三世光教の後継者である経豪上人が、宗派内の対立から、当時の仏光寺四十八坊のうち、四十二坊を率いて蓮如上人に帰依して従ったのです。そして経豪は蓮如の「蓮」の一字をもらい受け、蓮教と名乗り、山科西野に佛光寺の旧名「興正寺」を寺号とした寺院を再興しました。これが現在、西本願寺の南に接する真宗興正派本山の興正寺です。
一方、末寺わずか六坊となってしまった佛光寺は、経豪(蓮教)の弟・教誉上人を継承させ十四世としました。佛光寺教団が分裂したことで、その後は本願寺が大きな勢力を持つ時代となっていきます。尚、その後、天正十四年(1586)に、佛光寺は豊臣秀吉によって五条坊門(現在地)に移り今日に至ります。



さて、佛光寺本廟に戻ります・・・
佛光寺本廟は、佛光寺本山第二十世随如が、江戸時代の元禄年間(1688〜1703)に、本山から廟堂を移して創建したとされます。
明治時代中期に建てられたという唐門を潜ると、宗祖親鸞上人の遺骨を納める本堂と親鸞の絵像「御真影」が安置される廟堂へと石畳が続き、左には納骨堂の光寿堂があります。また、右には御茶所や鐘楼があり、鐘楼の向こうには墓所が広がります。
宗祖親鸞の七百五十回大遠忌(2011)の記念事業として平成十五年(2003)から六年間にわたる改修工事が行われ、本山等と共に、この本廟でも御廟の屋根や厨子が修復されました。

また、その境内には「三条小鍛治宗近の古跡」として、「宗近の井跡」を示す石碑があります。
三条小鍛治宗近宗近は、平安中期の刀匠で姓は橘といい、信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住んでいたので三条小鍛治と称したとも伝えられます。名刀小狐丸をはじめ多くの刀剣を造ったとされますが、現存するものとしては三日月宗近などがあり、祇園祭の長刀鉾の鉾先の長刀は宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し、祇園社に奉納したものといわれるということです。
このあたり一帯は、かつて宗近の邸宅があったと考えられ、付近には粟田神社境内に鍛冶神社が、また、三条通挟んで合槌稲荷神社(ブログ参照)もあります。そして、江戸時代の「拾遺都名所図会」によると、この佛光寺本廟には、宗近が刀剣を鋳るときに用いた井水があったと記されています。(「都名所図会」では、知恩院の山門の傍と記します)

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祇園の八坂神社の東、観光名所としても知られる円山公園内の緩やかな坂を登っていくと、やがて公園東端の丘上に一つの寺院が見えてきます・・これが安養寺(あんようじ 京都市東山区八坂鳥居前東入ル円山町)です。

安養寺は、法然・親鸞両上人の念仏発祥の地、「吉水草庵」旧跡として知られる寺院です。
また、円山公園の「円山」という名前は、安養寺の山号「慈円山(じえんざん)」の「慈」を外して命名されたものです。この由来からもわかるように、安養寺は、かつては円山公園の東北一帯を境内とする大きな寺院でもありました。(主に安養寺境内の由緒書等を引用します)


さて、安養寺は、正式には、慈円山大乗院安養寺という時宗寺院です。
元々は、平安時代初期の延暦年間(782〜806)に、桓武天皇の平安遷都の際、都の鎮護のために、伝教大師最澄が創建した天台宗寺院と伝えられます。その後は、天台門跡として知られる青蓮院に属し、平安時代末期になって、法然上人の浄土宗布教の中心地「吉水草庵」「吉水禅坊」として日本仏教史にその名を留めます・・


さて、法然上人は、十三歳で比叡山に登って十五歳で出家受戒し、東塔西谷の皇円阿闍梨のもとで三年間学びました。その後、西塔黒谷の叡空上人の門下となり一心に勉強を重ね、またその間、南都仏教をも学びましたが、二十数年間たっても、真の魂の救済方法を得ることは出来ませんでした。
承安四年(1174)、四十三歳となった上人は、ある時、唐の善導大師の「観無量寿経疏」中から、「 一心専念弥陀名号、行住往座臥不問時節久近、念々不捨者是名正定之業、順彼仏願故(常に南無阿弥陀仏と名号を称え離れないのが仏道修行する者の勤めである。これこそ弥陀の本願に叶う道である)」という文を発見しました。そして、従来の南都諸宗、真言、天台の難解な経典や厳しい修行の道を捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏をひたすら信じ唱える専修念仏立教開宗の信念を得ました。こうして、法然上人は、叡山を下り、最初に西山の広谷(粟生光明寺)に住んだ後、この東山吉水に移りました。
そして、承元元年(1207)、七十五歳の時、弟子の住蓮、安楽坊の騒動が後鳥羽上皇の逆鱗に触れ、専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪になるまでの三十数年間、吉水の草庵で布教伝道を行いました。


法然上人のもとには、やがて貴貧を問わず救済を求める多くの人々が集まります・・
公家では関白九条兼実、武家では熊谷直実(熊谷蓮生房)、僧侶では、その後の浄土宗の発展に努めた多くの高僧・・浄土宗第二代・聖光房弁長上人(鎮西上人)、浄土宗総本山知恩院の基礎を築いた勢観房源智上人、「白川上人」こと法蓮房信空上人、西山浄土宗の祖・善恵房証空上人等々、中には、盗賊出身の阿波の介、耳四郎こと天野四郎、遊女・白拍子も集まり、草庵は次第に発展して、中・西・東と三坊に拡張され吉水の禅坊として知られるようになりました。
また、建仁元年(1201)、当時二十九歳の親鸞上人も、比叡山から六角堂の観世音菩薩に百日参詣し、その霊告を受けて法然上人の門下となりましたが、時に法然上人六十九歳でした。



ここで、吉水草庵(吉水禅坊)の位置についてです・・
法然の時代には、現在の円山公園を中心に、北は知恩院三門前から南は雙林寺(双林寺)におよぶ山麓一帯は、「真葛ケ原」と呼ばれ、真葛や薄、茅、萩等が一面に広がる原野でした。吉水は、この真葛ケ原の東北の隅に位置していて、その北方には、比叡山東塔の住坊、青蓮坊の里坊にはじまる天台門跡青蓮院があり、当時は三条白川坊と呼ばれていました。
現在は、青蓮院の南には、浄土宗総本山・知恩院の広大な境内がありますが、法然上人入滅後にその御廟(知恩院勢至堂付近)に創建された知恩院は、もちろん当時はまだ存在せず、現在の知恩院境内付近には、青蓮院に属する天台系の塔頭寺院等(安養寺の前身も含まれると思われます)があったようです。

時代は飛びますが、浄土宗ホームページによると、室町時代の応永年間(1394〜1427)頃の古地図には、当時、現在の知恩院御影堂(本堂)付近一帯にあった白毫寺(びゃくごうじ)に隣接して、安養寺が画かれているということです。(尚、知恩院は、室町時代後期まで、現在の知恩院勢至堂(知恩院境内の東端)を中心とした小寺院に過ぎませんでした。)
この白毫寺という寺院は、聖徳太子自作の阿弥陀像を祀ることから太子堂と呼ばれていた寺院で、江戸の慶長年間(1596〜1615)に知恩院が大きく拡充されると、寺域を奪われて移転縮小しました(現・河原町五条西入る本塩竈町)
安養寺も、知恩院の発展によって寺域が縮小しますが、室町時代の古地図では、安養寺の寺域には、大懺法院、吉水東新坊、吉水中坊、吉水西坊といった建物が記載されていて、このことからも、吉水草庵(吉水禅坊)が安養寺であることが明らかであるいうことです。


さて、承元元年(1207)の専修念仏弾圧によって讃岐国に流罪となった法然上人は、建暦元年(1211)にようやく帰京できましたが、吉水の草庵は荒廃してしまっていたため、現在の知恩院勢至堂の地「大谷禅房」を住居とします。そして、翌建暦二年(1212)正月に、八十歳で入寂しました。(大谷禅房の傍に法然上人の墓所が設けられ、やがてこの墓所を中心に現在の知恩院へと発展していきます。)

一方、吉水一帯は、法然上人が流罪となり、念仏布教停止となった後は、関白九条兼実の弟、青蓮院第三世門主の慈鎮(じちん 慈円=じえん)和尚が管理するところとなり、慈鎮(慈円)和尚は吉水の堂宇を整備して安養寺の中興と呼ばれます。
「愚管抄」の著者としても知られる慈鎮(慈円)は、天台座主を四度務めた旧仏教界の重鎮ですが、その一方で、新興宗教である浄土宗の祖法然や、その後の浄土真宗の祖親鸞にも寛大な所があり、延暦寺の抑圧から庇護する姿勢を見せました。

この青蓮院門跡の慈鎮が、南の吉水の地に一時移ったのは、後鳥羽上皇が、三条白川坊(青蓮院)の地に、最勝四天王院という寺院の建立を計画したために、寺域を明け渡す必要があったためでもありました。後鳥羽が最勝四天王院を建立した目的は、鎌倉幕府の将軍実朝の調伏のためといわれ、承元元年(1207)竣工しますが、その後、倒幕計画の進展した承久二年(1220)に棄却されました。
元久二年(1205)頃から、慈鎮は、三条白川坊(青蓮院)の吉水への移転を準備したようで、同年、三条白川坊の大懺法院を、吉水に移転再建し、建永元年(1206)には、吉水に熾盛光堂を造営しています。そして、吉水禅坊を「慈円山大乗院安養寺」と号しましたが、これが現在の安養寺の寺名の始まりになります。

その後、安養寺は、次第に衰退しますが、室町時代の至徳年間(1384〜87)に、国阿(こくあ)上人が、東山方面に布教した際、当時の住職の懇請によって再興し、以後時宗寺院となりました。(尚、国阿上人は、安養寺の他にも、正法寺、雙林寺といったこの地域の寺院を創建再興したことで知られます)また、文化史的には、室町時代中期の連歌師、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の東山千句興行が安養寺で行われています。

その後、江戸時代に、安養寺は幕府の庇護を受けて最盛期を迎えます。
当時は、慈円山を「円山(まるやま)」と称し、境内には、也阿弥、眼阿弥、重阿弥(赤穂浪士が討ち入りを決定した円山会議を開いたということで知られます)、左阿弥、連阿弥、正阿弥という寺坊六ヶ寺と本坊を構えた堂々たる山寺だったようです。
 これら六阿弥は各々美しい庭園を持ち、眺望に富む楼閣を構えていたことから、次第に、遊山客に席を供して湯茶の接待をする行楽地として栄えることになりました。境内では様々な催しものが行われ、春秋の花見時には多数の文人庶民が訪れ、酒を飲んで花を鑑賞して楽しんだことが当時の絵図にも画かれています。
また、江戸時代末期になると、安養寺境内の六坊にかがり火が焚かれ、多くの人々がこの「祇園の夜桜」見物に訪れたと伝えられ、この頃から、既に円山(現・円山公園)の花見は全国的に知られるようになっていました。


さて、その後、安養寺は、明治維新の廃仏毀釈で境内地を失って六坊が廃寺となり、明治九年(1876)には円山公園の造成のためにさらに寺地を没収されました。
一時は重阿弥と連阿弥を合わせて、斬新な洋風旅館として「也阿弥ホテル」が建てられますが、明治三十二年(1899)三月の大火で全焼するなどして、次第に他の本坊も衰退消失し、六坊の内では、左阿弥のみが高級料亭として存続することになりました。そして、現在、安養寺は本尊・阿弥陀如来像を祀る本坊、弁天堂(吉水弁財天堂)、大聖歓喜天を祀る雨宝堂を残すのみとなっています。



さて、安養寺正面の石段を登ると、「真葛原吉水庵室」と書かれた石碑が建つ山門があり、さらに石段を登った所に、本尊阿弥陀如来像を祀る本坊や庫裏等があります。また、本坊左には、鎌倉時代の阿弥陀石仏が安置されています。そして、さらに狭い石段を登ると、大聖歓喜天を祀る雨宝堂があります。

一方、飛び地境内(門前から約五十メートル南)には、吉水弁財天堂があります。
技芸上達の信仰が厚い円山吉水弁財天尊、及び裏堂に弁財天の使者とも伝わる白蛇に変じた宇賀神将尊を祀りますが、秘仏で六十年毎の巳年に開帳されるということです。この弁財天堂は、慈鎮和尚が建久年間(1190〜98)、安養寺境内の名水「吉水」の畔に、安養寺の鎮守として比叡山から弁財天尊を勧請したものと伝えられます・・尚、この地が吉水と呼ばれたのは、境内から霊水が涌き、よい水だったことから、「吉水」と称されたと伝わります。

「都名所図会」等によると、この吉水弁財天は、室町時代に源照という琵琶法師が、技芸上達をこの弁財天に祈願した所、琵琶の妙曲を奏するという評判が広まり、その後、後小松上皇の恩寵を蒙って盲人としてはじめて紫衣を賜りました。源照は、この御礼として弁財天堂を建立したので、紫衣弁財天と呼ばれるようになったと伝わります。また、鎌倉時代の刀工、粟田口吉光は、弁財天の合槌を得て、この吉水の名水で名刀を打ち有名になったとされ、今も御堂の下に、この時、吉光が用いた鉄砧(かなとこ)石が残っているということです。
また、弁財天は、七福神の中で唯一の女神とされ、容色麗しく、音楽・技芸・福徳・財宝その他様々なものを授け、弁舌の才や知恵を与え、怨敵を除く等様々な御利益を授けるとされますが、恋愛良縁にも御利益があるとされてきたことから、祇園には、古くから"恋の叶わぬときは 円山辨天様の池の井守のつがいを採って 真っ黒黒焼き大和のほうらく・・・想う方にふりかけしゃんせ、この恋叶います。"という唄が伝わっているということです。

また、弁天堂の周辺には、法然上人も使ったといわれる慈鎮和尚閼伽の井戸や円光大師伝法の地の碑柱、慈鎮和尚多宝塔、多層塔等があります。この閼伽の井戸の水は、青蓮院で灌頂法会が行はれる際に、道中に高張提灯を建てこの地まで水を汲みに来ていたと伝わり、また、維新以前は、知恩院や東大谷からも正月の仏前の初水として年々汲みに来ていたということです。
特に注目されるのは、弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚宝塔です。高さ約二百四十四センチ、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏並座する鎌倉時代初期の名品として国の重要文化財に指定されています。

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かなり以前、ブログパート1で、豊臣秀次の墓のある瑞泉寺や善正寺について書きましたが、今回は、善正寺について再掲載してみます。

京都市左京区区岡崎東福ノ川町・・金戒光明寺(黒谷)の西、吉田山の南に位置する善正寺(ぜんしょうじ)は、吉田山の南山裾の丘上に位置し、神楽坂通という坂道から南へ回った見晴らし良い場所にあります。周囲を住宅街に囲まれているために、初めての方には少し見つけ難いお寺かもしれません。


さて、善正寺(ぜんしょうじ)は、山号を明慧山という日蓮宗寺院です。
石段脇の山門には「豊臣秀次公 村雲門跡瑞龍寺御墓所」と記されているように、非業の死を遂げた関白・豊臣秀次の菩提所として知られています。

善正寺は、安土桃山時代の慶長二年(1597)に、太閤豊臣秀吉の姉で、亡き関白秀次の母親の智(とも、瑞龍院日秀)が、子の秀次の菩提を弔うために嵯峨亀山に創建した一庵に始まります。
智(とも、瑞龍院日秀)は、兄の秀吉と違って子供に恵まれましたが、僅か数年でその子供達を相次いで失います・・次男・秀勝は、文禄元年(1692)に朝鮮出兵中に二十三歳で病死し、文禄四年(1595)に、三男の大和大納言秀保が十七歳で変死、続いて同年、長男・関白秀次が謀反の疑いから太閤秀吉に二十八歳で切腹を命じられ、その妻子も三条河原で処刑されます。また、智(とも)の夫の三好吉房も秀次事件に連座して讃岐に配流されてしまいました。こうして家族全てを失った智(とも)は、この世の儚さを実感して、残された人生で子や孫の菩提を弔うことを決意します。


慶長二年(1597)に嵯峨亀山に一庵(後の善正寺)を創建した後、智(とも)は出家して、明慧日秀(みょうえにっしゅう)と称し、慶長五年(1600)に、日蓮宗の日鋭上人を開山に迎えて、現在の岡崎の地に善正寺を移転し堂宇を整えました。「拾遺都名所図会」によると、「善正寺」という寺名は、秀次の法名「善正院殿高岸道意」から採られたもののようですが、この法名が秀次が高野山で剃髪蟄居した生前のものか追善されたものは不明とはいえ、「善正」の二文字には、謀反の疑いを受けた秀次の身の潔白の意味が込められていると思われます。そして、これもあくまで想像ですが・・日秀が、寺号を「善正寺」としたことは、秀次の首や妻子三十数名の死骸が埋められた塚が、その死後も菩提を弔うことなく捨て置かれ、「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれたことへの無念と批判が込められている・・「悪逆」とは正反対の「善正」という言葉に、日秀が我が子秀次一族の恥辱をはらし、安らかな冥福を願う強い気持ちを感じます。

また、日秀自身は、同じく、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から嵯峨野村雲に寺地を下賜されて瑞龍寺を建立しました。この瑞龍寺は、やがて、格式高い尼門跡寺院として「村雲御所」とも呼ばれることになります。その後、現在の堀川今出川付近(上京区堅門前町)に移転し、昭和三十七年(1962)に秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡に移築されました。


善正寺の境内墓地にある立派な御廟善正殿は普段は閉められていますが、中には大きな五輪塔があり、これが秀次の墓(首塚供養塔)になります。また、御廟の左には、秀次の妻子ら一門の供養塔があり、そのすぐ左前には、初代住職・日秀の墓。さらに並んで歴代住職の墓があります。その他、墓地には後伏見天皇の十八世皇孫女・日尊女王墓、霊元天皇皇曽孫女・日照女王墓等があります。また善正寺の寺宝としては日秀が作らせた秀次の木像、日秀の肖像画があるということです。(近年、善正寺を訪れる歴史ファン等が増えたようで、寺では、供養の参拝目的以外の好奇心による秀次墓の見学は断っています。)

また、善正寺は、江戸時代に全国各地に起こった日蓮宗の壇林(僧侶の学問所、大学)のひとつ、広大な敷地を有する東山壇林として栄えました。京都では、東山壇林の他に、松ヶ崎檀林、求法院檀林、鷹峯檀林、山科檀林、鶏冠井檀林の山城国(京都)六檀林がありましたが、この東山壇林は、寛永元年(1624)に開かれたとされ、善正寺第四世・日演上人の時代に大いに栄えた後、明治初年の廃壇まで、多くの高僧を育てたといわれています。

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円山公園の南にある円山音楽堂の東、石材店の横に隠れるようにある小さな寺院が雙林寺(そうりんじ 双林寺 東山区下河原鷲尾町)です。
現在は僅かに本堂等を残すのみですが、かつては広大な寺域を有した由緒ある勅願寺で、高台寺、東大谷廟、円山公園等は雙林寺の寺域を削って建造されたものです。平安時代の創建以来、衰退縮小しながらも現在まで存続し続けてきた、この地域の歴史の生き証人のようなお寺といえるでしょう。(以下、雙林寺の無料配布説明書(ホームページでも公開されています)を参照します。



雙林寺(双林寺)は、山号を金玉山という天台宗寺院で、本堂には、本尊の薬師如来像(国重文指定)と歓喜天像を祀ります。平安時代初期の延暦二十四年(805)、桓武天皇の勅命により、左大使尾張連定鑑(おわりのむらじさだみ じょうかん)が、伝教大師最澄を開基に招いて日本初の護摩祈祷道場として創建としたのが雙林寺の始まりと伝えられ、唐の沙羅双樹林寺に因んで、霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院(正式名)と称しました。そして、弘仁十四年(823)の比叡山延暦寺の建立後は、その別院となったということです。

その後、永治元年(1141)には、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が住持となり、建久七年(1196)には、土御門天皇皇子・静仁法親王がこの寺で得度して双林寺宮と称する等、皇室との関係も深かく、鎌倉時代までは、数万坪という広大な寺領に十七の支院(塔頭)を有していたようですが、南北朝時代の建武二年(1335)に足利尊氏と新田義貞との戦場となって荒廃したと伝えられます。
その後、室町時代の至徳年間(1384〜87 または、応永年間(1394〜1427)とも)に、国阿(こくあ)上人が入寺して、山号を中霊山として時宗国阿派の本山、東山道場と称して再興しました。そして、後小松天皇の深い帰依を受けて、至徳三年(1386)に「金玉山」の宸額を賜っています。 しかし、その後、火災や応仁の乱によって再び荒廃しました。


また、平安時代末期には西行法師や平康頼(たいらのやすより)、南北朝時代には頓阿(とんあ)上人が雙林寺山内に庵を構えていたとも伝えられます・・

平安末期から鎌倉初期の歌僧として有名な西行法師(1118〜1190)は、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」という鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが、二十三歳の時、武士の名誉や出世等も捨て去って突然出家しました。その後、京を離れ全国を行脚しますが、雙林寺へは出家の翌年の永治元年(1141)から、その塔頭「蔡華園院」に居住していたようです。
「山家集」(上、冬歌)には、野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」という歌があります。 また、有名な「山家集」(上、春歌)にある「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」という歌は、何時何処で詠まれたのかは不明ですが、「西行物語」によると、晩年は雙林寺に庵を結んで修行していたと記していて、その庵(西行庵)前の桜のもとで詠まれたのではないかという説があります。

また、北面の武士で後白河法皇の近習として知られる平康頼(?〜1220)は、治承元年(1177)、「平家物語」で有名な平家打倒を企てた鹿ケ谷の変が発覚し、少将藤原成経や法勝寺執事俊寛と共に鬼界が島に流されますが、翌年赦免されて帰洛し、この雙林寺の山荘(現在の東大谷祖廟の付近と推定)に隠棲して、晩年、この地で仏教説話集「宝物集」を著したとされます。
さらに、南北朝時代の和歌四天王の一人に数えられる頓阿法師(1289〜1372)は、西行を慕って諸国を行脚し、西行ゆかりのこの地に草庵を結んで「草庵集」を著しています。


また、中世以降、雙林寺は、桜の名所として知られたことから、安土桃山時代の天正十二年(1584)には、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てさせたといわれ、翌十三年(1585)には、秀吉が本堂を再建しています。
そして、慶長十年(1605)に高台寺、承応二年(1653)に東大谷廟が造営されることとなり、寺領を献上し規模を縮小しました。その後、明治維新の際に、再び天台宗に改め、明治十九年(1886)の円山公園の建造の際に、多くの寺領を上地して失いました。そして、現在は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行堂を残すだけとなっています。




本堂に安置する本尊・木像薬師如来坐像は、伝教大師最澄の作と伝わる平安時代の榧材一木造りの高さ約九十センチの像です。翻波式衣文がよく表現されている重厚な堂々とした姿で、国の重要文化財に指定されています。また、秘仏の歓喜天(聖天)は、西大寺管長で生駒山宝山寺貫主・松本実道大僧正が当寺のために勧請した、正に生駒聖天の分身というべき霊験あらたかなる尊像ということです。(毎月一日の聖天日、八日の薬師日に、第三日曜日には本堂にて護摩祈祷が行われます)

境内には、他に本堂の西南には小さな地蔵堂があり、その前には法華塚があります。
法華塚は、永治元年(1141)に、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が雙林寺の住持となった際、父鳥羽天皇の菩提を弔うために法華塔を建立し、天皇自ら書写した金字法華経八巻を納めましたが、応仁の乱によって宸筆法華経と共に罹災したため、その跡地にその灰土を集めて一塊の塚としたと伝えられているものです。

そして、明治五年(1872)八月、追善のために法華塚を修繕したときに地中より出現したのが、地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像です。この時、長年持病に悩まされていた大阪の森田某という人が通りかかって、この地蔵菩薩に持病平癒を一心に祈願したところ、不思議にも数日後に全快したということです。
霊験に非常に感謝した森田某氏は、報恩感謝のため、現在の地蔵堂を建立し、寺のある鷲尾町町内守護と共に地蔵菩薩を祀りました。そして、現在も持病平癒地蔵尊として、多くの人々の信仰を集めているということです。(毎月二十四日は地蔵日として読経が行われます)

また、本堂西側にある三塔は、左から、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔と伝えられていて、前述したように雙林寺ゆかりの人物であるところから、後世に好事家によって建てられたものと考えられています。また、かつて境内には、頓阿法師と平康頼の墓があったとされるということですが、実際の所は不明のようです。



最後に、飛び地境内にある西行堂です。
この西行堂は、本堂の西南、円山音楽堂の南(円山公園音楽堂南鷲尾町)にある西行庵内にあります。境内の拝観は自由ですが、堂内は非公開です。また、西行庵内の他の隣接する借家(松井氏)や「茶席(花輪氏)」の迷惑にならないように拝観することが望まれます。 
  
この西行堂は元々、天正時代に場所は不明ながら西行が居住したという塔頭、「蔡華園院」(西行草庵)の跡地に建立されたものということです。その後、享保二十一年(1731)に、摂津池田李孟寺の天津禅師によって、現在の地に移築再興されました。また、明和七年(1770)に冷泉為村が修繕しています。 堂中央には、為村筆の「花月庵」と記した横額が掛けらていて、その当時は、為村が「花月庵」と命名していたようです。その後、明治二十六年(1892)富岡鉄斎が勧進文を書き、庵主宮田小文法師によって、隣接する茶席(浄妙庵・皆如庵)が移築され、現在の姿となったということです。

尚、西行庵は、母屋、皆如庵(浄妙庵・皆如庵)、雙林寺が管理する西行堂からなり、茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の浄妙庵を移したもので、皆如庵は、桃山時代の名席で、円窓の床と「道安囲い」が有名ということです。(尚、西行庵は、庵主花輪氏が管理し、茶室の予約拝観も可能です。)
また、西行堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像が祀られていましたが、現在は雙林寺本堂に移されています。また門横にある「不許葷肉入門内」という石碑は、「葷(くん=ニンニク、ネギ、ニラ)や、肉の入門を許さず」と訳され、修行に必要の無い物の持ち込み禁止という意味になります。

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かなり以前にブログパート1に採り上げた岡崎別院ですが、その後、境内に新しく案内板が設置されたので、この機会に写真を増やして再掲載します。

京都市左京区岡崎天王町、岡崎神社の隣にあるのが、真宗大谷派(東本願寺)の岡崎別院です。
山門横には「親鸞聖人御草庵遺跡」という石碑があるように、浄土真宗の開祖・親鸞上人の旧跡として知られます。(以下、境内案内板を参照します)

江戸時代に流布した親鸞聖人の伝記、「親鸞聖人正統伝」によると、二十九歳で比叡山を降りて、吉水の法然上人の門に入った親鸞上人は、この岡崎の地に草庵を造り、ここから吉水の法然上人のもとに通ったと記しています。また、その後、念仏禁止の「承元の法難」に連座して越後に流刑となった後、赦免されて関東での生活を経て帰洛した時も、親鸞上人は、最初にこの岡崎の地の草庵に住んだと伝えています。(境内の案内板によると、二十九歳から三十五歳までと、六十歳を過ぎてからしばらく居住した草庵跡であるということです。)こうした由来により、江戸時代の「親鸞聖人正統伝」や「拾遺都名所図会」は、この地が古くから「親鸞屋敷」と呼ばれてきたことを記しています。


さて、岡崎別院は、江戸時代の享和元年(1801)、東本願寺第二十代・達如(たつにょ)上人により、親鸞ゆかりのこの地に創建され、「岡崎御坊」と呼ばれました。そして、明治九年(1876)に「岡崎別院」と改称され、明治二十二年(1889)には、新しく新門(新しい門主)の学問所である御学館が移築されました。「清池館(せいちかん)」と命名されたこの学問所では、俳句の名人だったことから「句仏上人」と呼ばれた東本願寺第二十三代法主・彰如(しょうにょ)上人が学び、明治二十四年(1891)には、東本願寺の教育制度や組織の発展を目指し、また仏教近代化に尽くした清沢満之(きよざわまんし 1863〜1903)が主任となっています。また、大正五年(1916)には、金子大栄(かねこだいえい 1881〜1976)を中心に学生の勉強会である「鏡池会(きょうちかい)」が、岡崎別院を会場に発足し、後には、曽我量深(そがりょうじん 1875〜1971)も参加して、共に近代思想界に影響を及ぼすことになります。

さて、二重屋根の本堂には本尊阿弥陀如来が祀られています。この草庵造りの本堂と庫裏、茶室は創建当時のものということです。また本堂の左方(西)には、八角の石柵で囲まれた池跡がありますが、この池は、承元元年(1207)に親鸞上人が、念仏弾圧により越後へ配流される際に、自身の姿を映して名残を惜しんだと言い伝えられ、「鏡池(かがみいけ)」、「姿見の池」と呼ばれています。
また、そのすぐ左には、上人お手植えと伝わる木の由緒を伝える「八房(やつふさ)の梅」という紅梅があります。

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