京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回から二回に分けて、平成二十一年(2009)に清流が甦った堀川について書いてみます。


堀川(ほりかわ)は、京都市のほぼ中心部を南北に流れる淀川水系の河川です。
京都市内で最も広い幹線道路の堀川通に平行して流れ、大部分は暗渠化していますが、今出川通から御池通までの区間は地上に出ています。

かつては水流が豊かだった堀川ですが、昭和三十年代には水が枯渇し、川床がコンクリートで底打ちされた、雨天の際の放流先としてのみ使われる「水の無い川」「大きな溝」になってしまいました。
 堀川通沿いには、西本願寺や二条城、晴明神社、一条戻橋等の観光名所がありますが、堀川そのものが注目されることは久しく無かったといって良いかもしれません。しかし、近年、堀川水辺環境整備事業の結果、平成二十一年(2009)三月、約五十年ぶりに清流となって甦りました。


さて、堀川の起源は、平安京以前、京都盆地の中央付近の古烏丸谷(現在の烏丸通付近)や船岡山付近から南の古堀川谷(堀川通付近)を流れる自然河川と考えられています。
その後、平安京の造営の際に、これらの河川が運河として開削され、主に大内裏造営のために、京都北山連邦の豊富な木材資源の運搬にために利用されてきました。平安時代には、貴族達の邸内(堀川院や冷泉院、高陽院等)の庭園に清流を引き入れるために利用しました。やがて、堀川は物資運搬の他に、貯木場、農業用水、友禅染等、京都の人々の生活や産業を支えるものになりました。
しかし、戦後の下水道整備や、近年の急激な都市化による水質の悪化や豪雨時の浸水被害等の対策として何度も改修工事が行われ暗渠化してきた結果、千二百年もの歴史がある堀川の豊かな流れは絶えてしまいました。


堀川に清流を蘇らせようという地元市民の願いは大きく、堀川の水辺環境の整備は、魅力的な京都の街づくりの大きな課題となっていました。
昭和六十年(1985)には、沿線23学区と京都堀川ライオンズクラブ等で組織された「堀川と堀川通りを美しくする会」が発足し、その後も堀川の水辺再生への関心が高まる中で、「・・美しくする会」は、平成九年(1997)に「堀川の水辺空間の整備と堀川通りの再整備に係る要望書」を京都市に提出し、堀川水辺環境整備事業が本格的に展開される事となりました。
(事業年度は平成九年〜二十年度、事業区間は、左京区下鴨上川原町〜中京区堀川通御池上る押堀町、延長四.四キロ、事業費約十八億円)
翌十年(1998)、京都府・京都市共催で「京(みやこ)の川再生検討委員会」が開催され、翌十一年(1999)に「山紫水明の町づくり」をテーマとした提言が出され、堀川も再生するべきモデル河川として位置付けられました。

こうして、平成十四年(2002)から、京都市は、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部に水流を復活させ、市民が広く親しめる親水公園として整備する事業を進めました・・
基本方針は、琵琶湖疏水第二分線から賀茂川を下越しさせて、紫明通、堀川通の地下に導水路を設けて経由させ、今出川通から二条城までの地上開渠部に水を導いて、清流を復活させて水辺空間を整備し、二条城から下流では二条城の外堀を経て西高瀬川に放水するというものです。
また、都市防災上の観点からは、堀川河床に消防水利施設を整備して、災害時の消火用水や生活用水としての利用を図りました・・そして、平成二十一年(2009)三月にようやく整備事業が完成し、同月二十九日に通水式典が行われ、堀川に清流が復活しました。

再生された堀川は、まだ新しい人工河川の印象が強いでのすが、徐々に地元市民の憩いの場、散歩道、子供たちの水遊びの場として浸透してきました。
課題も多いかもしれませんが、今後は観光客も含めより多くの人々の集まる、自然や花々を楽しめる川沿いの都市公園を目指して「京都らしい空間」造りを目指して欲しいと思います。




さて、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部は、清流が復活し、市民が広く親しめる親水公園として整備されましたが、川沿いに堀川の見所を記した掲示板があり、戻橋や堀川第一橋等を解説しているので、引用して書いてみます。

今出川通から二条城までの地上開渠部の間には、合計十三の橋があります。
もちろん、一番有名なのは、「伝説の橋」一条通の戻橋です。(この有名な橋は観光名所として有名なので、別に単独で書いてみます)

実は、現在の新しい戻橋よりも、より魅力的で注目したい橋は、戻橋の直ぐ南側にある「堀川第一橋」です。
石造のアーチが一際目を引く中立売通の「堀川第一橋」は、二条城と御所とを結ぶ公儀橋として明治六年(1873)に架橋されたものですが、その美しく重厚なデザインは、堀川の歴史と文化を現在に伝えています。また、「堀川第一橋」は「鶴の橋」と呼ばれ古くから人々に親しまれてきました。

また、「堀川第一橋」の直ぐ下流に今も残るレンガ積みの橋台は、市電堀川線の歴史を現在に伝えるものです。
明治二十八年(1895)二月、日本初の電気鉄道(京都電気鉄道)が京都の町を走りました。同年九月、堀川線(通称北野線)が東堀川通に開通し、堀川中立売と堀川下立売を結びました。その後、路線距離を伸ばし乗降客数も増えて、京都市民に親しまれてきましたが、自動車の普及等から利用者が減少し、昭和三十六年(1961)七月に、ついに堀川線は廃線になりました。
レンガ積みの橋台は幅の狭い方(コンクリートのアーチ橋が架かっている部分が単線時のもので、幅の広い方(両岸が南北にずれている)が複線化していからのものということです。



次回により下流の写真を掲載します。

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二条城の北西にある児童福祉センターの前(上京区竹屋町千本東入主税町)に、石鳥居と小さな社があります・・これが、大宮姫稲荷神社(おおみやのめのみこといなりじんじゃ)です。

この地区の神社としては、出世稲荷神社(ブログパート1に掲載)が知られますが、こちらの神社は地元以外ではほとんど知られていないでしょう。巨木の根元に小さな祠があるのみで、鳥居の大きさに比較して、敷地が非常に狭いという印象です。


この神社が注目されるのは、現在は稲荷神社と称していますが、元々は、宮中神の大宮売神(大宮賣神 おおみやのめのかみ)を祀る由緒ある神社と考えられるからです・・大宮賣神は、平安時代の延喜式の宮中神の一つで、延喜式神名帳に「御巫祭神八座 並大。月次。新嘗。中宮。東宮御巫亦同」と記され、律令制時代には神祇官西院御巫の八神殿中、第六殿に祀られていた皇室守護の由緒ある神です。

さて、平安時代には、現在のNHK京都放送局敷地を中心にして、宮内省神祇官がありました。
その後、応仁の乱等で、この地にあった神祇官西院が衰退すると、以後、八神は宮中で祀られず、僅かに吉田神社境内等に八神殿が創建され細々と祀られていたということです。ようやく、明治時代に皇居に神祇官が再興されると、明治二年(1869)に八神も神祇官の神殿に祀られることになりました。その後、宮中へ遷座して、現在は皇居の宮中三殿の一つ、神殿に祀られています。


現在の神祇官西院の故地に八神のうち大宮売神のみが、どのように祀られたのか等は不明ですが、明治時代の初めには、付近には宮内省坐神三座(国神社、韓神社二座)等の遺跡等も芝生の中に僅かに残っていたとも伝えられ、その後、周辺が京都刑務所の敷地となったことで、これらの遺跡も失われてしまったようです。そして、由緒ある宮中神の名跡を持つこの神社も、いつしか稲荷大明神と呼ばれ、地元のごく一部の人が信仰するだけの神社になっていったようです。尚、現在の小さな社殿は、大正十二年(1923)に、東宮殿下の御渡欧を記念して地元の有志によって建てられたもので、末社として光春稲荷大明神を祀っています。

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今回は、以前にブログパート1に掲載した「鵺池」周辺の史跡を、写真を増やして再掲載します。

さて、前回に書いたように、二条公園(上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、平成十七年(2005)に新しく整備され、地元の人々の憩いの場所、子供たちの遊び場になっています。
公園の北側には、小さな池(普通の小池だったのものを、公園整備の際に子供に危険なため埋めて改修)があり、その中に少し磨耗して読み難いですが、「鵺池碑」と刻まれている石標があります。また、すぐ北側にも新しく石標が建てられていて、小さな社殿「鵺大明神」が立っています。

さて、この二条公園を含む一帯は、平安時代には平安京の中心部・平安宮として、内裏や大極殿、朝堂院、太政官等が立ち並んだ国家政治の中心部となる官庁街でした。そして、この小さな池は、「源三位頼政の乱」でも知られる源氏の武将・源頼政が怪鳥「鵺(ぬえ)」を退治したという伝説の場所と伝えられています。

「平家物語」等によると、平安時代末の仁平年間(1151〜54)、御所の内裏を毎夜丑の刻になると、内裏の西北、東三条の森の方から黒雲が湧き起って御所を覆い、不気味な怪鳥の声が聞こえて、幼い近衛天皇を悩ませていました。天皇は病となり祈祷を行うも効果なく、そこで、当代一流の武勇の使い手、兵庫頭源頼政が勅命を受けて御所を警護することになりました。頼政は、山鳥の尾で矧いだ矢二本を携へ、郎党の猪早太(井早太)と共に怪物退治に向かいました。

深夜になると、黒雲が御所を覆い始めたので、頼政は「南無八幡大菩薩」と祈りながら、弓を引き絞って矢を放ったところ怪物に命中、猪早太(井早太)が落ちてきた怪物を取り押さえて止めを刺しました。人々が集まって死んだ怪物を確かめると、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尻尾は蛇の姿をした「鵺」だったといことです。その後、二条天皇の応保(1161〜62)の頃にも、御所に鵺が現れたので、再び頼政が召されて射殺したとも伝わります。鵺伝説には様々な伝承がありますが、二条公園にある鵺池は、鵺を射殺した後、頼政が血のついた鏃(やじり)を洗った池だと伝えられています。


この池は、古来、「鵺池」と呼ばれてきたようですが、江戸時代になると、鵺池は京都所司代の邸内に組み込まれために、江戸時代に出版された京都の観光ガイドの名所図会の類には記載されなかったようです。その後、明治時代には京都刑務所の敷地内となり、前回に書いたように、昭和九年(1934)に児童公園となりました。
現在ある磨耗した古い石碑の方は、元禄十三年(1700)に建てられたものでしたが、磨耗して読めない状態では後世に伝わらないと、公園化の際の昭和十一年(1936)三月に石碑が復元されています。鵺大明神を祀る祠も同時に建てられ、玉姫大明神、朝日大明神を合祀しています。
妖怪伝説の多い京都らしい史跡だと思います。

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今回は、二条公園という極普通の公園について書いてみます・・次回に採り上げる「鵺池(ぬえいけ)」の前書き、プロローグのようなものになるかと思います。


観光名所として有名な二条城の北西側に位置する二条公園(京都市上京区上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、北のNHK京都放送局、南の二条城に挟まれて位置する南北約百三十メートル、東西七十メートル程の公園です。
空き地の少ない市内中心部に位置するということもあって、周辺住民の憩いの場として親しまれ、子供達や親子連れを中心に平日でも賑わっている印象があります。


二条公園は、元々、昭和三年(1928)に昭和天皇御即位を祝して開かれた「大礼記念京都大博覧会」の会場(江戸時代の京都所司代跡地で、明治には京都刑務所がありました)内に設けられた児童遊園地で、その後、同九年(1934)に公園として整備されたものです。(尚、大礼記念京都大博覧会は、岡崎公園、二条城北の京都刑務所跡地(京都刑務所は、昭和二年に現在の山科区東野に移転)、恩賜京都博物館(現京都国立博物館)の三か所を会場として、入場者数は約三百十八万人を数えたということです。)

その後、六十年以上の歳月を経て公園も老朽化したことから、京都市はワークショップ及びアンケート調査を基に検討し、街中に自然を取り入れる形式の子供から老人までが触れ合える空間として公園を整備することを決定しました。そして、平成十五年(2003)〜同十七年(2005)にかけて、大規模な改修工事が行われ、その結果、現在のような木々の多い明るい印象の多目的公園として甦りました。
また、かつてこの公園の北側にあったとされる平家物語にも登場する「鵺池(ぬえいけ)」も復元されました(次回に写真を掲載)

改修された二条公園は、北西に鵺池と神社があり、公園西側には桜の木が植えられ、池と小川が流れています。その南には「あずまや」があります。また、公園内中央北側には岩山、中央に二ヶ所の区民の誇りの木(シダレヤナギ(高さ十七メートル、幹張十三メートル、幹周二メートル)等)が植えられたゾーン、公園北東にパーゴラ、東側一帯に沿って「憩いのテラス」があり、公園南側は複合施設(遊具)が置かれ、他は多目的広場になっています。


また、公園にある掲示板によると、この二条公園のある場所は、平安時代の国家政治の中心だった平安宮(大内裏)内の、宮内大路(きゅうないおおじ 大炊御門大路(おおいのごもんおおじ)と壬生大路(みぶおおじ)の交差点の北域)に当たり、重要な役所の太政官と宮内省、園韓神社(そのからかみしゃ 園神、韓神を祀る)があった地域になります。

そして、公園整備前の平成十五年(2003)二月に遺跡確認調査を行ったところ、公園中心部付近からは、天皇や皇族の衣食住を担当する宮内省の西面築地塀の南北築地基底部(地業跡 じぎょうあと)の基礎工事跡と、宮内省西面の内溝(うちみぞ)と思われる遺構の他、平安時代前期の遺物包含層が見つかり、その中からは、当時使用されていた瓦や土器が出土しました。あずまやのある公園西側付近からは、江戸時代に整地された地層が発見されたということです。

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今回は京都市右京区太秦(太秦安井池田町)にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約五百メートルにある後宇多天皇髪塔(ごうだてんのうはつとう)を採り上げます。
(付近の目印としてはすぐ東に大型スーパー「ライフ」、北には「ライフ」の駐車場を経て「右京ふれあい文化会館」があるので、比較的見つけやすい皇室史跡でもあります)


鎌倉時代末期の第九十一代・後宇多天皇に関しては、これまでも「後宇多天皇皇后姈子内親王(遊義門院)今林陵(嵯峨大覚寺門前六道町)」等の大覚寺統に関する諸史跡で何度か書いてきましたので、今回は少しだけ書いてみます。(いずれ、後宇多帝の御陵=蓮華峯寺陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町)を採り上げる際に詳しく書きたいと思います)


さて、後宇多天皇は、一般に第九十六代・後醍醐天皇の父として知られますが、歴代天皇中でも傑出した才能の持ち主でした。
北畠親房は『神皇正統記』で「後宇多の御門こそゆゆしき稽古の君にましまし」と後宇多がたいへん学問熱心で、「大方この君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才聞えさせ給はざりしにや」と、歴代天皇でも平安時代の後三条帝以来の学才があり、例えば、醍醐、村上、後三条等の優れた天皇の治世に比べられる善政を行ったと絶賛しました。

さらに、ライバルだった持明院統の第九十五代花園天皇も、その日記(『花園天皇宸記』)で「天性聡敏にして経史を博覧す。詩句を巧みにし、また隷書を善くす」として、後宇多帝の在位期間「乾元・嘉元の間政理乱れず」とし、(晩年、後宇多上皇が期待をかけていた嫡子・後二条天皇が早世したことにより、一代限りのピンチヒッターとして即位させた第二子・後醍醐天皇が自身の子孫に皇位を継がせたいという野心を持ったことから、後宇多が寵愛し即位を期待していた皇太子邦良親王(後二条天皇皇子)と後醍醐との関係が悪化するという問題を引き起こしたものの)、その素質を認め「末代の英主なり。愛惜せざるべからず」と賞賛しています。

また、後宇多帝は、晩年、真言密教に深く傾倒し大覚寺を再興したことでも知られます・・徳治二年(1307)七月二十四日、寵愛する皇后遊義門院(姈子内親王)が赤斑瘡で崩御したに衝撃を受けた後宇多上皇は、二日後に嵯峨亀山殿の寿量院で、仁和寺真光院の禅助大僧正を導師として剃髪出家して法皇となりました(僧名は金剛性)そして、同年十一月二日に東大寺で受戒し、翌延慶元年(1308)正月二十六日に、東寺で灌頂を受け阿闍梨位を得ています。



さて、前回、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓について書いた時に触れましたが、太秦安井の御室川沿いの地域には、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて、龍翔寺(りゅうしょうじ)という寺院がありました。
龍翔寺は、正式には「瑞鳳山萬歳龍翔禅寺」といい、現在は紫野大徳寺山内の一塔頭ですが、元々は、延慶二年(1309)三月、後宇多法王が、深く帰依していた南浦紹明(なんぽしょうみょう 円通大応国師 1235〜1309)禅師が入寂したために、その塔所(墓所)として安井の地に創建した寺院でした。

南浦紹明禅師は、嘉禎元年(1235)、駿河国安倍郡(静岡県静岡市)に誕生しました。
幼少時より仏教を志し、十五歳の時、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213〜78)の弟子となって受戒し、正元元年(1259)に中国宋に渡って修行しました。その後、文永四年(1267)に帰国した後は、九州博多の崇福寺等の住持を務め、 嘉元三年(1305)には、後宇多上皇の招きによって入京して上皇の帰依を得ます。しかし、延慶元年(1308)十二月、住持を務めていた鎌倉建長寺で七十五歳で入寂しました。(尚、南浦紹明には大徳寺の開山となった宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 大燈国師)等多くの弟子があり、日本の臨済宗は、すべて南浦紹明〜宗峰妙超〜関山慧玄(かんざんえげん 妙心寺開山)へと続く法系に属します。)


さて、南浦紹明禅師の死を惜しんだ後宇多法王は、「円通大応国師」と諡号を贈り、南浦紹明の弟子だった絶崖宗卓(?〜1334)禅師に、太秦安井にあった離宮柳殿御所を寄進して、南浦紹明(大応国師)を勧請開山として龍翔寺を建立しました。(実際の開山は二世絶崖宗卓)

また、龍翔寺境内の北側には、南浦紹明の遺骨を埋葬する塔所として普光塔(大応国師塔)という仏堂が建てられました。その後、元亨四年(1324)六月に後宇多法王が崩御すると、普光塔(大応国師塔)の左隣に、帝の遺髪(帝が出家した際に剃髪した髪が、龍翔寺に下賜されたものとも思われます)、納められた後宇多院塔(後宇多天皇髪塔)が造営されました。また、前回に採り上げた、龍翔寺創建以前からこの地にあった嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓も境内の南側に取り込まれていたようです。


こうして創建された龍翔寺は、三町四方に及ぶ広大な寺地を有し、至徳三年(1386)七月、五山十刹で京都十刹の第十位に列せられるなど栄えましたが、室町中期以降、特に応仁の乱後の戦乱に遭って衰退しました。そこで、大徳寺の末寺となってその支援を受け、天文八年(1539)、紫野大徳寺の西に移建再興されました。その後、江戸時代の文化十三年(1816)に焼失し翌年再建されました。明治の廃仏毀釈後は、大徳寺山内の塔頭の廃絶統合の影響を受けますが、大正時代に再興されています。


さて、江戸時代の『都林泉名勝図会』等は、龍翔寺の移転後も、旧地太秦安井には、普光塔(大応国師塔)や後宇多院塔が竹林の中に残されていたことを記します。またこの頃には、後宇多院塔は石塔だったということです。そして、明治十八年(1885)まで、龍翔寺の僧が、毎年七月にこれらの旧跡を廟参読経していたということです。その後、各地の皇室陵墓の整備が進められた結果、後宇多院塔のみが、宮内省(現宮内庁)管轄下で「後宇多天皇髪塔」として法華堂形式で整備され現在に至ります。

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