京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、前回の深泥池地蔵から数十メートル北にある貴船神社(京都市北区上賀茂本山町)について書いてみます。この神社は、通称、「深泥池貴船神社」と呼ばれ、境内には、京漬物として有名な「すぐき」の神様である秋葉社を祀ります。
(尚、総本社貴船神社に対し、分社として「船」では無く「舩」の字を用いて、「貴舩神社」とするのが正式名ということですが、記載に当っては、「貴船」で統一させていただきます。)


さて、深泥池の西を走る旧鞍馬街道は、平安時代の保元二年(1157)に、京の六地蔵の一つ、御菩薩池地蔵(深泥池地蔵 みどろがいけじぞう 現鞍馬口地蔵)が祀られ、室町時代には関所が置かれるなど、洛中への重要な出入り口の一つでした。
旧鞍馬街道沿いにある今回の深泥池の貴船神社は、左京区鞍馬山麓の貴船に鎮座する貴船神社の分社の一つで、本社と同じ高龗神(たかおかみのかみ)を祀ります。

全国にある貴船神社の総本社、貴布祢総本宮・貴船神社(左京区鞍馬貴船町)は、平安遷都より、皇居の御用水と人々の生活用水や農業用水である賀茂川の水源にあたる所から、水を司る祭神の高龗神(深泥池貴船神社の由緒書きには川上神(弥都波能売神(みずはのめのかみ))も祀るとしています)への朝野の尊崇が篤く、洛中からの参詣が絶えなかったと伝わります。

そして、農業に欠かせない雨水を司る龍神でもある高龗神は、この上賀茂でも古くから農民達に信仰されてきましたが、本宮への参詣が遠くて大変だったことから、江戸時代の寛文年間(1660〜70)頃の十月二十三日に、地元の農民が祭神を勧請して、街道筋の当地に分社として祀ったのが今回の貴船神社になります。以来、農耕をはじめ、地域住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されて現在に至ります。

境内には、正面の高台上に秋葉神社(以下に書いてみます)と忠魂碑があり、本殿の背後には末社の弁天社、その脇の石段上に役行者像、他に「北区区民の誇りの木」に選ばれた大杉(高さ約三十メートル、幹周約三.八四メートル)等があります。また、例祭は十月二十三日です。


さて、境内には秋葉神社が祀られています。
平成四年(1992)一月七日に、貴船神社の境内末社としてこの地に再建された神社ですが、その縁起を記した石碑によると、京漬物として知られる「すぐき」の神様ということです。

縁起によると、昔、みぞろ池(深泥池)周辺は、七つ森七軒村といわれる森の多い地で、一番森を「消し山」と称して、千二百年前から火伏せの神(秋葉神社)を祀っていましたが、この社が神仏混交であったことから、明治の廃仏毀釈令で、賀茂社(上賀茂神社)の社家が社を打ち壊してしまったということです。そして、翌明治二年(1870)三月、社の修復を怠ったためか、深泥池村に大火が発生し、家財農具も一切が消失するという悲劇が村を襲いました。

失意の村人達が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも漬物桶だけが焼けながらも、中身が焼け残っていたということです。疲労と空腹に耐えていた人々が、その漬物を開けると、火が入っていい匂いがするとして、村長が漬物の茎を一本試食しました。そして、「酸い茎や(すいくき・・すぐき)」と言いました・・これが「すぐき」の発祥の歴史と石碑は記しています。
(上賀茂のごく限られた地域で作られている「すぐき」の起源に関しては、文献は無く、地元住民の口伝しか情報は無いということなので、これも、地元の伝承の一つなのでしょう)

石碑は続けて・・火の神の秋葉神社の神が、人々を罰すると共に、反省を求めて、生命の根源でもある酵素の漬物(すぐきは、日本では極めて少ない乳酸発酵漬物で、日本で唯一の全く人工的な味付け調味の無い自然漬物といわれ、美容や健康にも良いです。)を恵み賜ったのですと記しています。
そして、平成四年(1992)に再建された現在の秋葉神社は、「すぐきの神様」として、業界関係者の信仰も集めているようです。

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京都では、「京都六地蔵巡り」といって、毎年八月二十二、二十三日に、市内周辺の六ヶ所のお寺に祀られている六体の地蔵菩薩像を巡って、無病息災や家内安全等を祈願して参拝する風習が残っています。そして、参詣者は、六つの寺で頂いた六色の御幡を家の入り口に吊るし護符とします。
今回は、この六地蔵の中には入らないものの、六地蔵に関係する一体の地蔵菩薩像を採り上げました。


少し六地蔵について確認してみます・・
六地蔵については、これまでに何度か書きましたが、平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。
その後、保元二年(1157)、後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、清盛は西光法師に命じて、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと伝えられます。

『源平盛衰記』(巻六)によると、都の周辺の諸街道の入り口に、六体の地蔵菩薩像を安置して、廻り地蔵と名付けたと記しています・・「西光も先世の業に依てこそ角は有りつらめども、後生は去とも憑しき方あり、当初難(レ)有願を発せり、七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を造奉り、卒都婆の上に道場を構て、大悲の尊像を居奉り、廻り地蔵と名て七箇所に安置して云・・・加様に発願して造立安置す、四宮河原、木幡の里、造道、西七条、蓮台野、みぞろ池、西坂本、是也。」
この『源平盛衰記』の記す各所は、四宮河原は東海道、木幡の里は奈良街道、造道は鳥羽街道、西七条は山陰街道、蓮台野は周山街道、みぞろ池は鞍馬街道に相当しますが、西坂本については、史実としては不明で、祀られたとすればその後廃絶したとも考えられます。また、江戸時代初期に現在の六地蔵に定着する以前は、資料が少なく詳細は不明ですが、他にも地蔵菩薩を祀っていた場所があったとも考えられます。


現在の六地蔵です・・

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)

これら六地蔵の中で、鞍馬口地蔵(上善寺)は、明治時代までは深泥池(御菩薩池)の傍の地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩像が、上善寺に移されたものです。
そして、今回採り上げた深泥池地蔵(京都市北区上賀茂深泥池町)は、その旧地に再興された地蔵菩薩像になります。(以下、地蔵堂の掲示板から引用)



さて、深泥池の傍、旧鞍馬街道沿いに祀られた地蔵菩薩は、江戸時代に地蔵めぐりが定着すると、霊場の一つとして信仰を集めましたようです。
八尺(約二百四十センチ)程の立像でしたが、明治元年(1869)の廃仏毀釈のために法難に遭い、この地が上賀茂神社の神領だったため、神仏混交禁止の理由から神領の外に追放され、鞍馬街道の出入り口になる寺町の上善寺(現鞍馬口地蔵 京都市北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町)に祀られることになりました。また、同じ頃、やはり上賀茂神社の神領を理由に、この地にあった宝池寺(現浄福寺(北区上賀茂畔勝町)の前身)も廃寺となり、その仏像等は山を越えた幡枝(左京区岩倉幡枝)の浄念寺に預けられたということです。

その後、深泥池村には守護神がいなくなった為か、明治二年(1869)と十六年(1883)に二度の災火に見舞われましたが、村民の努力により何とか復興することが出来ました。
そして、偶然、京都五条の十念寺経由で、当村の事情を察知した大阪の土木関係西光組から、明治二十八年(1895)五月に、現在の二代目地蔵菩薩が奉納されました。これが、現在の深泥池地蔵で、奇しくも旧地蔵菩薩と同じく小野篁作といわれ、元々は伊勢の海に漂流していたという伝承のある像高六尺三寸(約百八十センチ)の立像です。こうして、信仰厚い村民の努力によって再び地蔵菩薩が村を守ることになり、以後、村に大きな災いは無くなったということです。

地蔵堂の正面には、「たちいでて またたちかえるみぞろ池 とみをゆたかにまもるみ仏」という御詠歌の額が掲げられています。また、当時の村壮大と西光組頭(かしら)との御本体授受に関する書状が本堂右奥に保管され、本地蔵菩薩の台座にも、当時関与した西光組代表者、並びに当村総代の名前が刻まれています。そして、毎年八月二十二、二十三日の地蔵盆には町内の人々によって念仏、御詠歌の奉納が行われるということです。


また、境内には他に、風化した石仏一体(像高一〇〇センチ、幅七〇センチ、厚さ三〇センチ 花崗岩製)があります。鎌倉末期から南北朝頃の造立で弥勒菩薩と推定され、首の下に二つに折損した部分を修理した形跡があるようです。

元々、この北区上賀茂深泥池町付近は、深泥池が御菩薩池と呼ばれたように、「御菩薩」とも呼ばれ、行基伝説や弥勒信仰など、古い伝承が多い土地でもあったようです。
そして、かつては地蔵堂の前に全部で七体の石仏群(現在の弥勒菩薩の他に、釈迦如来、文殊菩薩、薬師如来、金剛界大如来、延命地蔵菩薩、勢至菩薩の六体)が祀られていたようですが、敗色濃い昭和十九年(1944)頃、一部の町内役員が防空壕の設置を理由として六体の石仏を移動させ、以来、現在まで行方不明になってしまい、現在のように一体のみとなってしまったということです。

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