京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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妙顕寺その1

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今回は京都の宗教史を語る上でも重要な寺院の一つ・・妙顕寺(みょうけんじ 京都市上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町)を採り上げます。

妙顕寺は、正式には四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺(南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺や足利氏の祈願所となって以来、「四海唱導」の呼称を有します)といい、山号を具足山、別名を龍華ともいう日蓮宗(一致派)の大本山です。鎌倉時代末期の元亨元年(1321)に、日蓮上人の孫弟子になる日像(にちぞう)上人(四海唱導師、洛陽開山、龍華院日像大菩薩)が創建した、京都における日蓮宗(法華宗)最初の寺院として知られます。


さて、鎌倉時代後期の弘安五年(1282)九月八日、日蓮宗宗祖日蓮上人は、年来の慢性の下痢の症状に加え、冬の寒波の到来で体調を崩し、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。
臨終を悟った上人は、十月八日、本弟子として日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の各上人を定めました(六老僧 その後、教団の中心となって各地で活躍し日蓮の法流を後世に伝える弟子達)。十日に形見分けが行われ、十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼びました。この少年僧こそ、後の日像上人(1269〜1342)です。


日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子と千葉氏の女との間に下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。
健治元年(1275)七歳で出家して弟(後の日輪上人)と共に異父兄に当たる日朗上人の弟子となりました。日朗上人(日蓮の高弟で、後の六老僧の一人)は、この子は将来教団を支える人物に成長するだろうとその才能を認め、身延山の宗祖日蓮上人に対面させました。日蓮上人も少年を、将来の京都での布教、天皇に法華経を伝えるという大任を担える逸材であると内心喜んで、以後、経一丸(経一麿)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。

さて、それから約五年の後、死期を悟った日蓮上人は、最後の遺命として、改めて帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を経一丸(経一麿)に遺命しました。当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。

こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十二日の夕刻から大曼荼羅を奉じて随身仏の釈迦如来像を安置し、弟子や信者が読経する中で、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。
十四日から葬送が行われ、十五日に荼毘にふされた遺骨は、遺言によって身延山に運ばれます。十九日に池上を出発した遺骨は、二十五日に身延に到着し、その後、百日忌に当たる弘安六年(1283)一月二十三日、弟子達が集まり遺骨は廟所に納められました。


さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励みました。そして、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、十月二十六日より、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。残りの生涯を京都布教に捧げるため、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。
この旅の道中でも、日像上人は、能登や加賀、越前、若狭などで熱心に布教活動を行いました・・能登の妙成寺(石川県羽咋市滝谷町)、越前の妙泰寺(福井県南条郡南越前町)や妙勧寺(福井県越前市今宿町)、敦賀の妙顕寺(福井県敦賀市元町)、若狭の妙興寺(小浜市鹿島)といった諸寺院は、日像の北陸での布教活動の影響で創建(或いは改宗)されたと伝わります。


その後、いよいよ、四月に入洛を果たすと、まず、比叡山等の洛中洛外の寺院から南都の興福寺等までを巡り、いよいよ布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。

五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。
また、この頃、五条西洞院の大商人、酒屋柳屋仲興(やなぎやなかおき)が上人に帰依して、自邸を提供し柳寺と称して支援します。そして、仲興の没後、未亡人妙蓮法尼が一宇を建立して妙法蓮華寺(妙蓮寺)と改めました・・これが後の妙蓮寺(本門法華宗本山 ブログパート1参照)です。


こうして、次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。
徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓付近に留まって布教活動を続けました・・流刑地の西国に向かう途中、向日神社付近で、祭神の明神が二羽の鳩や老人姿で現れて日像に教えを請いたいとして、上人をこの地に引き止めたという伝説が伝えられます。

この時、鶏冠井(かいで 京都府向日市鶏冠井町)の真言宗寺院・真言寺の住職、実賢が日像上人に帰依して改宗し、開山として日像を迎え、寺を真経寺(現向日市鶏冠井町大極殿)と改めましたが、真経寺は畿内最初の日蓮宗寺院(妙顕寺の前身法華堂を除いて)ともいわれます。(尚、真経寺は江戸時代に南真経寺と北真経寺に分かれました。)
また、この向日市鶏冠井地区の石塔寺に伝わる「鶏冠井題目踊り(京都府無形文化財指定)」は、日像がこの地を訪れた際、上辻三郎四郎という村人が上人に食事を提供しようと準備をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」という題目の文字となったため、驚いた村人達が一斉に日像に深く帰依して、喜び踊ったことが始まりと伝えられます。


また、この頃、平安時代の関白藤原基経が発願し、「源氏物語」にも登場する真言宗の古刹、洛南深草の極楽寺の住職良桂とも出会います。良桂は、鶏冠井を偶然通りかかった際に日像と出会って宗論を行いました。その結果、感服して百人余りの門徒と共に帰依し、開山として日像を迎え、徳冶二年(1307)頃に極楽寺を日蓮宗(法華宗)に改めました。(延慶三年(1310)とも)
こうして極楽寺は、京都での日蓮宗(法華宗)の初期の拠点の一つとなりました・・現在の宝塔寺(伏見区深草宝塔山町)です(ブログパート1に掲載)
尚、以下に記すように、後に、日像の遺骸はこの極楽寺で荼毘にふされ、遺骨もこの地に埋葬され寺は廟所となりました。その後、一時鶴林寺とも号しますが応仁の乱で荒廃し、天正十八年(1590)に再興された際、現在の寺名・寶塔寺(宝塔寺)に改称しています)


また、同じく徳治二年(1307)頃、洛北松ヶ崎の地にあった平安時代から続く天台宗寺院・歓喜寺(創建時は松崎寺と称しました)の住職実眼も、日像の説法を聞いて感動して日蓮宗(法華宗)に改宗します。
そして、寺に招かれた日像が二夜三日説法をしたところ、五百人程の村人が感動して全員改宗しました。この時、実眼や村民が歓喜のあまり太鼓を打って「南無妙法蓮華経」と唱え踊ったことが、現在、湧泉寺に伝わる「松ヶ崎題目踊り(京都市無形文化財指定)」の始まりと言われています。
(徳治二年(1307)七月十六日のことだったと伝えられ、また、松ヶ崎にある「京都五山大文字送り火」の一つ「妙」の起こりとして、この歓喜寺が改宗した際、日像が歓喜寺のある西山に妙の字を書いたのが始まりとも伝えられ、歓喜寺もこの時、妙泉寺と改称しています。(尚、大正七年(1918)に、天正二年(1574)頃にこの地に創建された日蓮宗寺院本涌寺と、妙泉寺が合併して、現在の湧泉寺となりました。ブログパート1に少し掲載 )



さて、日像上人は、延慶二年(1309)八月二十八日に帰洛を許されますが、翌延慶三年(1310)三月八日、今度は、紀伊国獅子の背への流刑を命じられます。
これに対し、同月二十三日、上人は御所に天奏して熱心に法華経の法理を説いていますが、帝都弘通の達成のためには天皇の帰依がどうしても必要と考えたからでした。
翌応長元年(1311)三月七日、京都への帰還を許された上人は、綾小路の法華堂に戻って布教活動を開始します。正和二年(1313)法華宗旨問答、文保二年(1318)には曼荼羅相伝を著し、元応元年(1319)には本迹口決を注し、また、朝廷へも書をしたため熱心に教えを説く活動を続けたようです。

元亨元年(1321)十月二十五日、三度目の京都追放で備後尾張へ配流されますが、直ぐに十一月八日に赦免されて帰洛し(この三度の追放と赦免を「三黜三赦(さんちつさんしゃ)」といいます)、後醍醐天皇より洛内の御溝傍今小路(現上京区の「安居院(あぐい)」付近・・ブログパート1に掲載の、安居院(安居院法印房)=現西法寺(大宮通寺ノ内上る三丁目東入る新ン町)付近)に寺地を賜って、法華堂を移して妙顕寺を創立し、また尾張と備中に寺領を賜りました・・日像上人が入洛してから二十八年の月日が流れていました。

さらに、元弘の変から鎌倉幕府滅亡に至る騒乱の際、後醍醐天皇の京都帰還を祈願するなど天皇の信頼を得たことから、建武元年(1334)四月十四日、日像上人は、後醍醐天皇より、法華宗号と一宗弘通の綸旨を受けて、妙顕寺は日蓮宗(法華宗)初の勅願寺となり、洛中洛外の宗門の第一位と認められました。(「妙顕寺為勅願寺、殊弘一乗円頓之宗旨、宜凝四海泰平之精祈云々・・妙顕寺は勅願寺となす。殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし)」)
ここに、帝都弘通・宗義天奏という日蓮上人の遺命がついに達せられたのでした。


さて、その後、興国二年(暦応四年 1341)七月、日像上人は、遺誡六カ条を、弟子の大覚妙実(だいかくみょうじつ)上人に与え、妙実を妙顕寺第二世と定めています。また同年八月九日、妙顕寺(当時は、一般に法華堂の名で知られました)は四条櫛笥(現中京区四条大宮付近)に寺地を賜って移っています。
そして、翌興国三年(康永元年 1342)春、日像聖人は、故郷の東国へ向かい、身延、鎌倉、池上、平賀を訪問して帰洛した後、同年十一月十三日、七十四歳で妙顕寺で入滅しました。
遺骸は上人の遺言に従って極楽寺(現宝塔寺)で荼毘にふされ廟所が設けられました。



次回に続きます・・

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