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今回は、左京区八瀬地域のシンボル的な神社、八瀬天満宮神社を採り上げます。
比叡山の西麓で大原の南に位置する八瀬は、「かま風呂」や、八瀬天満宮の境内社・秋元神社の秋の祭礼行事「赦免地踊(しゃめんじおどり)等で知られますが、観光ガイドでは大原への通過点として小さく扱われている地域です。確かに、「八瀬童子」の謎めいた伝承等が伝わる八瀬の里の魅力は、普通の観光名所廻りではわからないと思われます。しかし、少し地域の歴史を調べてみると、一見普通の山里でしかない八瀬の里が、地域の伝承を大切に守り続けている魅力ある場所だと気付かされます。
(以下、「八瀬童子 歴史と文化(宇野日出生著 思文閣出版)」参照・・・尚、この本は、信憑性の無い資料や想像に頼って書かれてきた多くの八瀬童子関係本の中で、八瀬に伝来する古文書と現地のフィールドワーク調査をもとした八瀬童子研究の良書です)
さて、左京区「八瀬(やせ)」は古くは山城国愛宕郡(おたぎぐん)小野郷に属して、八瀬荘と呼ばれ、京都から若狭へ向かう重要な幹線道路だった若狭街道(鯖街道)沿いに発展した山間集落でした。
「八瀬」という地名は、「山州名勝志」等によると、「矢背」とも記され、壬申の乱の際に、大海人皇子(天武天皇)が背に矢を受けて負傷し、この地の里人が「かま風呂」でその傷を治したという伝説に由来するとされますが、実際は、地域を縦断する高野川(流域名として八瀬川)がこの地域で急流となり、多くの瀬を作っていたことから八瀬の名が生まれたと考えられています(小字として「七瀬」「余瀬(四の瀬)」「美濃瀬(三の瀬)」等の地域名が残されています)また、八瀬の住民は、古くから「八瀬童子」と呼ばれましたが、平安時代以来、隣接する比叡山延暦寺と深い関係を持ってきました。(尚、童子とは、元々寺院内の実務労働を担った階層の人々を意味します・・・以下、八瀬村の人々については、「八瀬童子」の呼称で統一して書いてみます。 )
平安時代には、八瀬荘は、延暦寺東塔南谷にあった青蓮坊(天台宗三門跡の青蓮院の前身)の所領で、八瀬童子は山門に仕え、高僧の登山の道案内や警護を担い、他の雑役を特別に免除されてきたようです。
また、正徳六年(1716)成立の「八瀬記」は、源平の戦いの際に、御所の北東(丑寅)を警備して、弓矢の所持を認められたという伝承を記し、南北朝時代の建武三年(1336)正月、後醍醐天皇が攻め寄せた足利尊氏軍から逃れて、二万余騎の軍勢を従えて八瀬坂から比叡山に登った際には、八瀬童子が弓矢を持って天皇を守護したことを伝えています。
そして、後醍醐天皇はこの八瀬童子の功に報いるために、建武三年(1336)正月二十四日に、年貢以下公事課益の免除を認める綸旨を与えました。この絶大な重みのある天皇の綸旨こそ、現在まで八瀬童子を特別な存在としてきた源泉といえます。また、(後醍醐天皇からかどうかは不確実なようですが)、名誉ある称号として国名(くにな)を授与されたといわれ、この皇室との繋がりから、八瀬の住民は、現在まで後醍醐天皇及び歴代皇室への感謝と崇敬の念を持ち続けることになりました。
資料的にも、後醍醐天皇以降、明応元年(1492)の後土御門天皇、永正六年(1509)の後柏原天皇、そして、慶長八年(1603)の後陽成天皇から明治天皇に至る歴代天皇(名正天皇を除く)の諸益免除の特権を認める綸旨が現存し、また、武家政権下でも、織田信長が朱印状で八瀬童子の特権を追認しています。また、江戸時代の板倉勝重以下の歴代京都所司代下知状からも、八瀬童子が古来山門や皇室との深い関係を持ってきたことに配慮して特権を認めていることが確認できます。
さて、古来、八瀬では年寄り衆を中心とした合議制により厳格な村落自治組織を維持してきました。近隣との争いとしては、室町時代には北の大原村と、また、室町〜江戸初期には、山林をめぐって南の高野村と長期にわたる論争があったことが記録にあるようです。そして、江戸時代、八瀬童子にとって最大の事件が、比叡山延暦寺との争論でした。
宝永五年(1708)延暦寺は比叡山の領域を改変し、その結果、八瀬童子の自由な入山往来が制限されることになりました。当時の延暦寺座主は、後西天皇の皇子にあたる公弁法親王(こうべんほっしんのう)でした。法親王は日光山輪王寺門跡で、延暦寺の座主を兼任する仏教会の実力者で、時の将軍徳川綱吉に延暦寺の境界の改めを願い出たのです。
元々、比叡山裾の八瀬は、耕地面積が少なく、比叡山での柴薪の伐採に依存した生活を送っていたため、立ち入り禁止区域の拡大は、八瀬童子の生存権が脅かす事態ということになります。
八瀬童子は幕府に訴えることを決意し、宝永六年(1709)正月に京都町奉行に訴えますがその場で却下されます。そこで、四月二十三日に、童子八人が江戸へ訴訟に向かい、寺社奉行本多忠晴に訴えますが、散々叱責されてしまいます。それでも、八瀬童子は諦めず、老中秋元但馬守喬知(あきやまたしまのかみたかとも)が七月四日に焼失した御所の復興のために京へ行くことを知り、五名(三名は江戸に残留)が道中の駕籠に付きまとって嘆願しました。秋元は八瀬にも立ち寄って八瀬童子の出迎えを受けました。
秋元は、童子達に付きまとうのを止めさせ、江戸屋敷に文章を持参するようにと指示しました。そこで、八月四日、八瀬童子は江戸へ下りますが、秋元の屋敷には三度目でようやく入ることが出来る有様で、さらに、秋元の指示は、京都西町奉行の中根正包が江戸に来ているのでそちらに願い出るようにというものでした。そこで、その中根に、童子達は十二、三回も願い出ますが無視されます。翌七年(1710)四月、秋元は、京都所司代松平信庸が江戸に来るので、願い出るように童子に指示します。しかし、その松平にも、十三回にわたって嘆願しても無視され、勘定奉行萩原重秀への嘆願も徒労になりました。
こうして、一年以上の江戸での嘆願運動も効果なく、その間、八瀬村に残った者達は、一丸となって留守宅の家業を助け、仕送りを準備して頑張って耐えていました。(騒動解決まで合計二十一人が江戸との往来をしたということです。)
しかし、時代の変化が八瀬童子を救うことになります・・・
一つは、前年の宝永六年(1709)正月に将軍徳川綱吉が死去し、名君と呼ばれた六代将軍家宣が就任したことでした。家宣は前時代の悪評の高い諸政策を改善しようと努めていました。もう一つは、前関白太政大臣近衛基熙(このえもとひろ)が八瀬童子達の抱える問題に気付いたことでした。近衛家は禁裏御料を管理していて、八瀬には以前から禁裏御料六十三石が存在したため近衛家が管理していました。さらに、近衛家は八瀬の薪炭類を納品させ、かまぶろ愛用等の伝承もあるように、八瀬童子との関係は古くからあったようです。そして、新将軍家宣の妻は、近衛基熙の娘、照姫という関係にありました。
こうして、宝永七年(1710)七月、近衛基熙は江戸へ下り、この一件について幕府に働きかけました。そして、近衛基熙や将軍の側近新井白石の働きかけにより、宝永七年(1710)七月十二日に、幕府の裁許状が出されました。
内容は、八瀬童子が所持している歴代天皇の綸旨には、賦役免除については記されているが、山門(比叡山)境内に立ち入ることは許されていない。しかし、過去の経過を鑑みて、特別措置として、八瀬村にある私領、寺領を他所に移し、八瀬は幕府代官の支配地とし、年貢諸役一切を免除するというものでした。(尚、この時、将軍家宣は、漢文体の草案を将軍自らが筆を取って、八瀬童子が読みやすいように読み下し分に改めるという配慮をしています。)
こうして、八瀬村は、村高二百七十余石の内、従来からの禁裏御料六十三石以外の全ての年貢や賦役一切を免除されるという極めて特異な赦免地の村になりました。(尚、幕府直轄領となった当時の京都代官は小堀邦直でした。)八瀬童子は非常に喜びました・・そしてこの賦役年貢免除を記念して始まったが赦免地踊(しゃめんじおどり)になります(次回に書いてみます)
さて、明治時代になると、明治政府は全国民に納税を義務付け、八瀬村にも大きな転機が訪れます。早速、明治四年(1871)、京都府はこれまでの年貢諸役免除の歴史を承知しながらも八瀬村に租税上納を命じました。しかし、調査の結果、千二百八十五円の御下賜金を与えられたことから、八瀬村では、この現金を積み立てて、その利子運用益で年四百十七円の租税上納を捻出しようと考えます。しかし、一時金を基にした策のため何時まで続けられるかという不安がありました。
ここでまたも幸運が訪れます・・
明治十六年(1883)六月 右大臣公爵岩倉具視が宮内小輔香川敬三を従えて京都に来た際、八瀬童子と皇室との関係を調査しました。同年七月、岩倉は死去ましたが、岩倉の遺志を継いだ香川は十月に再び京都に来ました。
そして、八瀬村戸長を呼びつけて、歴史的な八瀬村の租税免除の次第を聞き、政府からの手当金(下賜金と利益金を加え二千円)と八瀬童子の地券(二百十二枚)を宮内省に提出することを提案し、代わりに、地租金全額を毎年下賜され、それを毎年京都府へ上納するという方策を指示したのでした。これは事実上、八瀬村が税の免除という特権を再び手に入れたことになります。
また、同時に、香川は八瀬童子が輿丁(主に皇居内の移動の際、輿を担ぐ仕事)として皇居に出仕する制度も考え出したようで、八瀬童子は、税金免除に加え、皇室への奉仕として輿丁を勤めることで、宮内省の職員として現金収入を得る道も保証されることになりました。(尚、明治には八瀬の女性も、掃除雑用を行う側近衆として皇后や皇太后に仕えています)
翌明治十七年(1884)一月、京都府知事北垣国道の認可が出て、八瀬童子は太平洋戦争の終結まで、租税免除が保証されました。恩恵を受けた八瀬童子は、資金の有効活用を図って八瀬村特別積立会を設立(昭和三年(1728)に八瀬童子会へ移行)、皇室への崇敬の念を確認し、伝来の古文書の保存等に努める等、皇室との特別な関係のある八瀬の文化と伝統の維持を図って今日に至ります。
こうして、八瀬童子は輿丁として、安政三年(1856)七月の新待賢門院(孝明天皇の母 正親町雅子)、明治十四年(1881)十月の桂宮淑子内親王(孝明天皇の異母妹)、明治二十四年(1891)十一月の久邇宮朝彦親王(中川宮)の各葬祭、明治三十年(1897)二月の英照皇太后の大葬、明治四十二年(1909)十二月の賀陽宮邦憲王(久邇宮朝彦親王王子)の葬祭、明治四十五年(1912)九月の明治天皇の大葬、昭和二年(1927)二月の大正天皇の大葬に奉仕し、当時、大葬や大礼の際に輦を担ぐ人として、八瀬童子はたいへん有名な存在でした。
しかし、大戦後の昭和六十四年(1989)一月の昭和天皇の大葬の際は、駕輿丁は皇宮警察が務め、八瀬童子は参列奉仕等各人の役割で参加することになりました。その後、平成二年(1990)の今上天皇の即位関連儀式や平成十二年(2000)の香淳皇后の大葬等にも八瀬童子が参加しているように、八瀬童子は、皇室がある限り今後も皇室への奉仕を続けていくと思われます。
次回に続きます・・・
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