京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、前回に採り上げた長岡宮大極殿・後殿(小安殿)跡と同じく、「大極殿公園」内にある長岡宮宝幢跡と、その前の駐車場スペースにある長岡宮閤門跡です。


向日市教育委員会の案内板を引用して、宝幢跡(ほうどうあと)について書いてみます・・

国家の制度が整えられた奈良時代(八世紀)以来、大極殿及び朝堂院では、元旦に「朝賀の儀式」が盛んに執り行われました。この儀式の際、大極殿の前に七本の宝幢(ほうどう)が建てられました。
 宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ九メートルの大柱の上に、それぞれ青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の絵が描かれた旗と、烏・日・月の飾り物が取り付けられたものです。そして、平成九年(1997)の発掘調査で、この宝幢を建てた柱の掘形が発見されました。

発見された堀方は、長さ約三メートル、幅約一.二メートル、深さ約〇.八メートルの楕円形をした大きなもので、中央に大柱、両側に添柱の痕跡がありました。柱掘形は三基あり、大極殿の前約百尺(二十九.六メートル)の位置に、東西方向へ三メートル毎に並んでいました。
宝幢は、大極殿の中軸線上を中心に左右に計七本建てられるものなので、発見された柱掘形は東の三本に相当すると考えられています。また、同様な遺溝は昭和五十八年(1983)に、平城宮の大極殿前でも発見されているということです。
尚、宝幢は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦のみ建てられる特別な装飾具ですが、長岡宮は桓武帝一代の都で、天皇の即位はありませんでした。そこで、この宝幢跡は、朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されています。



続いて、長岡宮閤門跡についてです・・

閤門跡は、宝幢跡の南側に位置する駐車場のあるスペースで、閤門(こうもん)は、長岡宮大極殿の南門になります。
発掘調査により、大極殿の周囲には回廊があり、南側の回廊の中央部に閤門があったことが確認されていますが、次代の平安京では、閤門は廃止され、代わりとして龍尾壇(りゅうびだん)が作られるので、長岡宮の閤門が、日本古代都城遺跡上、最期の貴重な遺跡ということになります。

さて、平成十一年(1999)、向日市は長岡宮宝幢跡の南側に位置する、現在の長岡宮跡閤門地区の埋蔵文化財発掘調査を行いました。その結果、大極殿と諸朝堂(太政官院)を区画した大極殿閤門跡が良好な形で保存されていることが確認できました。その後平成十二年(2000)から、平成十四年(2002)、十六年(2004)、十八年(2006)と史跡指定を受け、平成十九年(2007)から大極殿閤門跡とその前庭八十七.三四平方メートルを直接買い上げて保存を図りました。土地はまだ未整備ですが、今後、徐々に整備していくということです。

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京都府向日市の史跡の中でも、向日市民の誇りというべき史跡、史跡長岡宮跡を数回に分けて掲載してみます。(主に向日市の史跡掲示板参照)

長岡京は、延暦三年(784)十一月十一日に奈良平城京から遷った都で、延暦十三年(794)十月二十二日平安京に遷るまでの約十年間、日本の中心地となりました。そして天皇が政治を司った長岡宮(大極殿や内裏等が立ち並ぶ官庁街)があったのが現在の向日市域です。

長岡京は、当時、山城国乙訓郡長岡村と呼ばれた地域に造成されました・・現在の向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部に相当します。長岡の地は、京都盆地南西部の丘陵地帯にあり、東に桂川、南に宇治川、木津川、淀川などの大河が流れ、西南の山崎津(やまざきのつ 京都府乙訓郡大山崎町)、東の淀津(よどのつ 京都市伏見区)といった港もあり、水陸交通に便利な地域でした。



さて、宝亀元年(770)の称徳天皇の崩御によって、「壬申の乱」以来、九代続いた天武系の皇統が途絶え、新たに天智天皇の孫に当る光仁天皇が即位しました。そして、七十二歳という高齢の父帝から皇位を譲られて天応元年(781)四月に即位した桓武天皇は、中国的な政治思想に強い影響を受けていたため、天智系に皇統が代わったことを中国の王朝の交代、易姓革命と捉え、新しい王朝の誕生にふさわしい新都を造ろうとしたと考えられています。(ただ、中国的な思想の影響に関して、母・高野新笠が百済系渡来人の和氏一族の出身であること、長安をモデルにした新都建設、中国王朝風の桓武の肖像画の存在、儒教神の天神への信仰等色々な点から論じられますが、残存する資料から伺われるのは極めて僅かなことのみです)また、平城京が周辺に大河が無く水上交通が不便で、物資調達に不便だったことや、奈良の仏教勢力が政治的な影響力を持つ平城京を嫌ったこと等が遷都の理由と考えられています。


『続日本紀』の藤原種継の薨伝(こうでん)によると、当時、従三位中納言兼式部卿・藤原種継は天皇の信任が非常に厚く、内外の事項を全て決定していたとし、種継が中心となって長岡京遷都を決定したと伝えています。また、長岡の地が選ばれた理由としては、上記したように水陸交通に便利だったことに加え、長岡の地が、種継と姻戚関係(種継の母は秦氏出身)にあった秦氏の本拠地で、秦氏の協力を得ることが出来るという点も考慮されたと考えられています。

さて、延暦三年(784)五月十六日、桓武天皇は、中納言正三位・藤原小黒麻呂以下八名を山城国乙訓郡長岡村に派遣して、遷都のための視察を命じました。そして、その結果を受け、六月十日、中納言従三位・藤原種継を始めとする従五位下以上の貴族十人と六位の官人八人を長岡造営使に任命します。早速、宮殿を中心に都城の造営が開始され、同月十三日には遷都の理由を告げるために賀茂大神の社に使いを派遣し幣帛(神仏への奉納物)を奉納させました。また、宮殿の建設のため工人や人夫の必要な物資を諸国に命じて長岡宮に進上させ、同二十三日には長岡京での新住宅の造営費として正税六十八万束を右大臣以下参議以上の官人や内親王、夫人等に配りました。

その後、十月五日には長岡京行幸のための御装束司等を任命し、行幸に従う親王以下五位以上の官人に衣装を与えています。この頃、少なくとも宮殿は完成したようで、十一月十一日に桓武天皇は平城宮から新都長岡宮へ移りました。そして、十二月二日には造営に功のあった藤原種継を始めとする二四人に位階を与え、役夫を進上した諸国の今年の田祖を免除しています。そして、翌延暦四年(785)の正月元旦、桓武天皇は新しい大極殿で朝賀の義を行ない、内裏で宴を催して地位に応じて禄を賜りました。

僅か半年で大極殿や内裏が完成したのは、水路を用いて難波宮の宮殿を移築したためと考えられ、また建設にあたっては、丘陵を削って谷や低地を埋め立て、平城京をモデルに設計されたと考えられています。そして、その後も、周辺部では工事は休むことなく続けられました・・『日本後紀』の和気清麻呂の薨伝(こうでん)は、平安京遷都の直前でもまだ完成していなかったと伝えています。


その後、長岡京の存在については江戸時代から知られていましたが、その明確な場所は特定されていませんでした。しかし、明治二十八年(1895)の平安遷都千百年記念祭で長岡宮跡大極殿遺跡保存の気運が起こり、公園東側の石碑が有志金によって建立しました。

長岡京跡の発掘調査は、昭和二十九年(1954)十二月末、中山修一(西京高校教諭、その後長岡京史跡調査研究所長)による発掘調査が、朝堂院南門跡から始められ、翌一月に遺跡の存在が初めて確認されました。その後、現在までに宮城と京域を合わせて千六百回を超える調査が行われ、京都府による保存整備を経て現在に至ります。また、以前は長岡京は未完成の宮都と考えられ、どこまで整備されていたか疑問視されていましたが、発掘の結果、都城としてかなり完成されていたことが判明しています。
向日市は、発掘調査などにより発見された長岡京跡の中心部の重要な史跡を長岡宮跡として史跡指定を受け、順次買い上げて史跡公園として整備を図り、市民に広く活用できる空間を目指しています。(平成十八年(2005)三月段階で、九千百平方メートルで、九十パーセントを公園として整備)



さて、長岡京の規模は、東西約四.三キロ、南北約五.三キロ、現在の向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の南区・西京区を含む広大な範囲でした。長岡京の北端に位置する現在の向日市域には政治の中心地となった長岡宮が置かれ、長岡京市域には経済の中心となった東西二つの市がありました。

また、長岡宮からは真っ直ぐにメインストリートの朱雀大路が走り、朱雀大路の東を左京、西を右京と区分していました。京内は、条坊制と呼ばれる千八百尺(約五百三十三メートル)を基準とする方眼で区分され、これを坊(街区)とし、坊の境は南北方向に、北京極大路から九条大路。東西方向は、左京(東一坊、東二坊、東三坊、東四坊)、右京(西一坊、西二坊、西三坊、西四坊)の大路で区画されました。各坊はさらに小路によって一から十六までに分割された町(四十丈四方(約百二十メートル四方))によって細分され、道路の幅は大路で八丈(約二十四メートル)〜五丈(十五メートル) でした。

長岡京の北端に位置する長岡宮の宮域は、北を一条大路(北京極大路)、南を二条大路、東西を両一坊大路で囲まれる東西約一キロ、・南北約一.六キロの地域で、政治や儀式の場である内裏や朝堂院、天皇の住居である内裏、役所にあたる曹司、宴会を行う庭園などに区画され二官八省の建物が建てられていました。



さて、今回写真を掲載した大極殿・後殿(小安殿)跡(阪急西向日駅の北約三百メートル、向日市鶏冠井町秡所)についてです。

向日市鶏冠井町には大極殿(だいごくでん)という地名が現在も残っていますが、大極殿は、天皇が政治を司った場所で、天皇の即位式や元旦の朝賀(正月の儀式)、外国使節の謁見等に用いられた古代の儀礼空間として都で最も重要な建物でした。

大極殿の調査は、昭和三十四年、三十六年(1959、1961)に宅地開発を契機に発掘調査され、昭和三十九年(1963)に国指定史跡に指定され、公園(大極殿公園)として整備されました。(尚、公園に立っている「長岡京大極殿遺址」と記した石碑は、江戸時代中期の「閑田耕筆」の記述を手がかりに明治二十八年(1895)に現在地の北西百メートルの北大極殿公園のあたりにに建てられ、その後の発掘結果から現在地に移建されたものということです。)

大極殿跡は、東西百三十八尺(四十一.四メートル)、南北七十二尺(二十一.六メートル)あり、南側三ヶ所、北側二ヶ所に階段を設け、北側中央に小安殿と結ぶ回廊を設けたものであることが確認できました。残念ながら柱の跡は完全に削られていましたが、基壇の規模は聖武天皇の難波宮大極殿とほぼ同じで、また、難波宮式の瓦が多く出土することから長岡京の大極殿は難波宮から移築されたものと考えられています。

また、後殿(小安殿)は、大極殿の北側に設けられ、平安京では「小安殿」と呼ばれた建物です。(大極殿の後ろの建物の意味から、後殿と呼ばれます)平城京までのこれまでの都では、大極殿の北側に天皇の住まいである内裏がありましたが、長岡京では、内裏が独立して大極殿から離れたため、天皇が大極殿に御する際の休憩所として後殿(小安殿)が機能していたと考えられています。
後殿(小安殿)跡は、東西百四尺(三十一.二メートル)、南北四十五尺(十三.五メートル)で、北側三ヶ所 南側二ヶ所に階段が設けられています。(尚、中央には、大極殿にある天皇の座(高御座(たかみくら))を復原し花壇に使用されています。)


さて、現在、向日市民の憩いの場となっている史跡大極殿跡公園では、毎年、十一月十一日に長岡京遷都を記念して大極殿祭が行われます。また、大極殿跡付近には、内裏内郭築地跡や朝堂院西第四堂跡、築地跡などがあり、国の史跡に指定され史跡公園として整備されていますので、今後、順次写真を掲載していきます。


 

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