京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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向日市最大の観光名所である向日神社(京都府向日市向日北山 阪急電鉄西向日駅から、北西に約五百メートル)の大鳥居の南側、参道の左脇に、一つの大きな石が祀られています。また、これとは別に二つの石が神社の参道右側にさざれ石と並んで安置されています。

これらの石は「説法石」といわれ、京での日蓮宗の布教を禁止されて西国へ追放となった日像上人が、徳治二年(1307)頃、この石の上に座して西国街道を行き交う人々に説法をしたと伝えられています。(特に、鳥居脇の説法石は、向日市の重要な史跡の一つなので単独で写真を掲載します。)




日像上人の生涯については、このブログの京都市上京区の妙顕寺について書いた際に、ほぼ書き尽くしましたので、引用して簡単に書いておきます・・

日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子として下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。
健治元年(1275)七歳で出家して異父兄に当たる、日朗(日蓮の高弟)上人の弟子となり、その後、身延山の宗祖日蓮上人に対面します。日蓮上人は少年を、将来の京都での布教、天皇に法華経を伝えるという大任を担える逸材であると内心喜んで、以後、経一丸(きょういちまる 経一麿とも)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。

さて、弘安五年(1282)九月、体調を崩した日蓮上人は、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。
臨終を悟った上人は、十月十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼び、最後の遺命として、帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を遺命しました。

当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。


さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励み、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。
そして、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。

そして、四月に入洛を果たすと布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。

次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。
徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓郡付近に留まって布教活動を続けました。




さて、日像上人が流刑地の西国に向かう途中、乙訓郡(現在の向日市周辺)の向日神社(当時は向日明神)付近で、飛んできた二羽の白い鳩が上人裾を加えて放さず、また老人が現れて日像に教えを請いたいと頼みました・・これらは、祭神の明神の化身で、上人をこの地に引き止めるために姿を変えていたのでした。
そこで、日像上人は、大石(現在の説法石)に腰を下ろして説法すると、これを聞いた多くの村人が上人に帰依して、法華経信者となったといわれます。


この時、鶏冠井(かいで 京都府向日市鶏冠井町)の真言宗寺院・真言寺の住職、実賢が日像上人に帰依して改宗し、開山として日像を迎え、寺を真経寺(真言寺の真と、 日像上人の幼名 経一丸の「経」にちなんで 現向日市鶏冠井町大極殿)と改めましたが、真経寺は畿内最初の日蓮宗寺院(妙顕寺の前身法華堂を除いて)ともいわれ、日像の布教活動の拠点となりました。(尚、真経寺は江戸時代に南真経寺と北真経寺に分かれました。)

また、この向日市鶏冠井地区の石塔寺に伝わり、毎年五月に行われる「鶏冠井題目踊り(京都府無形文化財指定)」も日像の布教活動が生んだ踊りです・・日像がこの地を訪れた際、早速、帰依した上辻三郎四郎という村人が上人に食事を提供しようと準備をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」という題目の文字となりました。これに驚いた村人達が一斉に日像に深く帰依して、喜び踊ったことが始まりと伝えられます。


さて、説法石は日像上人の霊跡として今も信仰の対象となっているようです。この説法石は、元々は向日神社の参道にありましたが、明治の廃仏棄釈と神仏分離令で神社境内から外に出され、その後、一番大きな横約一・五メートル、幅約七十センチ、厚さ約五十センチの大岩が現在の場所に安置されたということです。

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今回は、京都府向日市(むこうし)からです・・・

京都府向日市(むこうし)は、北東西の三方を京都市に、南を長岡京市に接するたいへん小さな市です(全国で四番目に小さい市ということです)そのため、観光名所も少なく、一般の観光ガイドでは、向日市を無視するか、僅かに向日神社(むこうじんじゃ)が掲載される程度と思われます。


一方、向日市に接する北の京都市西京区には、有名な善峰寺を筆頭に、金蔵寺、十輪寺(業平寺)、三鈷寺(眺望絶佳の寺)、勝持寺(花の寺)、宝菩提院願徳寺(国宝如意輪観音)、大原野神社、正法寺(鳥獣の石庭)、洛西竹林公園というバラエティに富んだ観光名所が揃っています。
また、南の長岡京市には、光明寺(念仏発祥の地にして紅葉の名所)、乙訓寺(ボタンの寺)、長岡天満宮(キリシマツツジで有名)、楊谷寺(柳谷観音)という観光名所の四天王ともいうべき社寺があります。これに対し、向日神社と長岡京遺跡で対抗しているのが向日市で、明らかに観光客誘致では分が悪いといった印象です。


しかし、現在の行政区域の範囲はさておいて、歴史を遡ってみると、現在の向日市のある地は、平安遷都前の一時期、長岡京の大極殿が聳え立つ、日本の政治の中心地でした。また、鎌倉時代末期には法華宗の「帝都弘通(京都での布教)」に生涯をささげた日像上人の教えを関西で最も早く受け入れた地域でもあります。農業も栄え、京都の後背地として歴史的に重要な役割を持った地域といえるでしょう。
今後、有名観光名所は少なくても、小さな味のある史跡が点在している向日市の史跡も採り上げたいと思います。




さて、今回は、向日市の桜の名所の一つ、「桜の径」です。

向日市は、京都や大阪のベッドタウンとして早くから開発され、現在も多くの新興住宅地が周辺に広がっています。阪急電鉄の西向日駅の南東周辺にも、昭和初期という早い次期に開発された閑静な住宅街がありますが、約三百本のソメイヨシノが開発時点から住宅街のほとんどの通りに植えられていて、春には美しい「桜の径」になり、地元の人々の散歩道として親しまれています。

そして、これら桜並木の道は、四方から集まって「噴水公園」という円形の小公園(ベンチが少し並んだ休憩所程度ですが)を取り囲んでいます。桜並木が家々とマッチして、どこか、桜の花に囲まれて生活することを選んだ地元住民の誇りや喜びといったものも感じます。
また、発掘調査によって、この地域から、「春宮」と墨書された土器が出土していて、長岡京時代には皇太子の住居がこの付近にあったのではないかと考えられているということです。

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