京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

今回は、前回に続いて、向日神社の境内に隣接する勝山公園、勝山緑地と元稲荷古墳を採り上げます。


まず、向日神社に隣接する勝山公園、勝山緑地について簡単に書いてみます・・
向日神社の境内の西側一帯は、隣接する勝山公園、勝山緑地に溶け込んで自然豊かな空間を形成しています。まず、勝山緑地につながる向日神社の裏参道には、地元住民らの手で植えられ守られている「桜の苑」があり、ここには、水上勉の小説「櫻守」のモデル笹部新太郎にまつわる桜や、向日市との関わりを紹介したパネルなどがあるようです。(遠望した写真を掲載)

昭和四十五年(1970)に造られた「勝山公園」は、向日市民の遊び場、憩いの場となっている遊具と運動場のある普通の公園ですが、公園の一部に乙訓地方最古の古墳である「元稲荷山古墳」があるのが最大の特徴です。
また、「勝山緑地」は、勝山公園の西側に位置する緑豊かな空間で、クヌギ、ヤマザクラ、栗等に囲まれています。また、遠くは北側に愛宕山が見渡せるということです。

尚、「勝山」というのは、向日神社のある向日山の別称で、『山州名跡志』等によると、豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵する際、向日神社に参拝し社人山の名を尋ねました。社人が「勝山」と返答したところ、秀吉は朝鮮出陣の門出に相応しいと大いに気に入り、以後、勝山と名付けられたということです。



さて、向日神社の鎮座する向日山は、向日市西部の向日丘陵の最南端に位置していますが、その山上に向日神社と元稲荷古墳(神社の北側の勝山公園内)があります。神社と古墳があることからも向日山は、古代からこの乙訓地域のシンボル的な山として、乙訓地域を治める人々にとって神聖な場所と考えられてきたと推測されています。そして、向日神社の創建も、この元稲荷古墳と何らかの関係があったとのではないかと考えられています。

元稲荷古墳は、後方部の頂上に稲荷神を祀る祠があったことから「元稲荷古墳」と呼ばれるようになった古墳です。現在は、勝山公園内に取り込まれて市民の憩いの広場、子供たちの遊び場になっていて、案内掲示板が無ければ、ただの公園の小丘としか感じられないでしょう。(以下、向日市の掲示板、向日市の広報誌から引用します)


元稲荷古墳は、向日丘陵先端部の尾根上に築かれた全長九十四メートルの、数の少ない前方後方墳の一つです。築造は三世紀末から四世紀初頭で、乙訓地域では最も古い古墳と考えられています。
(後方部は一辺五十二メートル、高さ七メートル。前方部は幅四十六メートル、高さ三メートル古墳時代(前期)前方後方墳、二段築成)

昭和三十五年(1960)、昭和四十五年(1970)の二回に渡って京都大学により発掘調査が行われ、その規模や性格が明らかになりましたが、それによると、墳丘の斜面に貼られた葺石は、偏平なタイル状のもので、弥生時代の終わりごろの墓の「貼り石」によく似たものでした。
また、後方部の中央には、竪穴式石室があり、大半が中世に盗掘されていましたが、鉄製武器(銅鏃・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、土師器の壷が出土しました。
また、前方部の墳丘中央には、南北約二メートル、東西約四メートル範囲で埴輪が樹立していた部分があり、この埴輪は、円筒埴輪と壷型埴輪のセットで、弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが分かったということです。

このように、この元稲荷古墳は、墳形(古墳の形)や葺石の状態、出土した埴輪や土器などから、近畿地方における他の前期古墳の中でも、極めて特異な古い様相を示す重要な古墳であると考えられています。この他に、向日丘陵に築かれた前期の古墳には、五塚原古墳と寺戸大塚古墳がありますが、これらの古墳は、ほぼ同じ大きさをしていることから、この時代(古墳時代前期の三世紀末から四世紀初頭)には古墳を築くのに何らかの規制や約束事があったものと考えられています。



さて、元稲荷古墳は、後方部の頂上に稲荷神を祀る祠があったことからその名が付けられましたが、向日神社に残る江戸後期の境内図から、現在と同じく当時から、社務所のすぐ西側から元稲荷古墳へと続く小道があったことがわかるということです。
また、その後、明治二十年(1887)十二月、向日神社は、山林の中で祭祀がし難く、社殿も樹木の下で破損しやすいという理由で、京都府に対し稲荷社の移転願いを提出しました。京都府はこれを許可し、現在、参道の途中にある勝山稲荷社の位置に移され、元の場所は、元稲荷と呼ばれるようになったといわれています。

その後、大正時代になると、京都大学の実地調査により、この地が古墳であることは判明しますが、その後は、神社境内地のためか元稲荷古墳はそのまま昭和三十年代まで特に注目されることはなかったようです。

昭和三十四年(1959)九月になって、急増した向日町住民の水道需要に対応するため、向日町は、元稲荷古墳の後方部に配水池を建設することを決定し、京都府の指導で翌年一月から発掘調査が行われ、三月に工事を開始しました。この建設によって作られた施設が、現在、古墳の後方部頂上に見られます。 その後、昭和四十五年(1970)には、前方部を含む土地の売却計画が起こり、樹木が伐採されましたが、向日町は、向日神社と元稲荷古墳を保全するため、土地を買い上げ、現在の勝山公園を造り現在に至ります。

 

  
   

向日神社その2

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

イメージ 26

イメージ 27

イメージ 28

向日神社の続きです・・


さて、向日神社の境内についてです。

長い雰囲気の良い参道を進むと、短い石段の上の中央に舞楽殿、その奥に拝殿・本殿。右手には参集殿社務所、左側は広い駐車場になっています(自動車の参拝者にはたいへん便利ですが、それ程広くない参道を車で走行するのは歩行者に危険でもあり、せっかくの雰囲気のある参道なので、ご老人や体の不自由な方はともかく、やはり歩いて参拝した方が良いように思われます)

また、駐車場のさらに左には客殿、剣道場があり、駐車場の手前にはお茶所、そして神社の境内にあるのは珍しいですが・・向日市天文館があります。
(この天文館は、昭和六十三年(1988)から平成元年(1989)にかけて、全国の自治体に1億円が交付された、所謂「ふるさと創生事業」の際、向日市民からアイデアを募集して誕生した施設で、平成五年(1993)三月に向日神社境内の一角に建設されました。天文館には、プラネタリウム、天体観測室、星見台、展示室があり定期的に天体観望会などを行っています。また、向日神社南側にある剣道場は昭和五十一年(1976)に建てられ、元向陽小学校の職員室等に利用されているもので、現在も小学校から大人まで剣道の練習に用いられています。)


現在の向日神社の本殿は、応永二十五年(1418)に建造されたもので(同二十八年竣エ)、本殿と拝殿が連なる権現造のような社殿形式で、室町時代の流れ造り様式の代表的な建築物として、国の重要文化財に指定されています。 また、東京の明治神宮の本殿は、向日神社の本殿をモデルにして(1.5倍に拡大して)造られたといわれています。
尚、江戸時代の『山州名跡志』には、「向日社。西岡の山上にあり、鳥居東向き石柱。拝殿南向き、社同じ・・・」と記され、現在は東向きの社殿が南向きだったことがわかります。また、現在の拝殿と舞楽殿は、寛永二年(1625)の建立ということです。特に周囲を回ってみると、重厚な雰囲気が印象的です。

また、本殿の背後の広いスペースは「鶏冠木の苑(かえるでのその)」と名付けられた楓と山桜の神苑になっています。今から百七十年前の江戸時代には、この場所に本殿があり、本殿が現在の地に移ってからは、楓と山桜の神苑となりました。また、戦前には土俵もあったそうですが、その後、雑木が繁茂して見晴らしが悪い土地になったため、新たに野外ステージを造り、楓と山桜の神苑に戻したということです。(尚、「鶏冠木(かえるで)」とは、楓の古名「かえるで」にちなんだもので、鶏の鶏冠が楓に似ていることから作られた和製漢字になります。)


境内社としては、参道の右手、手水舎の手前に、商売繁盛の神である勝山稲荷社があり、その奥には元稲荷社があります。また、手水舎の後ろには、学問成就の神として知られる天満宮社があります。また、本殿の左手には、五社があり、大己貴神(おおなむちのかみ)、武雷神(たけいかづちのかみ)、別雷神(わけいかづちかみ)、磐裂神(いわさくのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀っています。

五社の後ろには、本殿と回廊で繋がった祖霊神社があり、また、本殿の左には、御霊社があり、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)と伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀っています。そして、本殿背後の「鶏冠木の苑(かえるでのその)」の右には春日社があり、さらに一番奥(境内西)には、火雷大神の荒魂神(あらみたまのかみ)を祀る井戸を御神体とする増井神社があります。
また、付近には勝山神変大菩薩(役行者)が祀られていますが、これは、安永六年(1777)五月に彫られ物集女村(向日市物集女)で信仰されてきた役行者像を、昭和二十五年(1950)、向日神社の氏子会である向日社友信会の総代が、この勝山の麓に遷座したいと願って物集女住民を説得し、この場所に遷座し祀ったものです。     

また、社宝としては、紙本墨書日本書紀神代巻下巻(国重要文化財 延喜四年藤原清貫筆と奥書に印)、飾太刀(天狗久光作の銘)、小野通風筆「正一位向日大明神」額、棟札(応永二五年本殿棟札一枚、慶長二年棟札一枚)、古印(「向日神社政印」の銅印)、朱印状(豊臣秀吉及び徳川歴代将軍の朱印状)等があります。



また主な年中行事として、例祭(五月一日)、氏子祭(神幸祭は五月第二日曜日の三日前、還幸祭は五月第二日曜日)等があります。氏子祭の神幸祭(おいで)では、祭礼の三日前に当社から祭神を鳳輦(神輿)に遷し鶏冠井(かいで)御旅所(向日市鶏冠井町)を経由して上植野御旅所へお遷し、そして、還幸祭で上植野御旅所から各地区を巡航して本社へ祭神がお還りになります。

また、向日神社には特徴ある「座」による特殊神事があります・・
戦国時代の下剋上時代、畿内各地の諸豪族が室町幕府を窺うため、京都近郷に潜入するようになりました。この地の農民達は彼等に田地を強奪されることを恐れ、田地を向日神社に寄進してその難を逃れたということです。その後、世情が鎮まるにつれて、農民達は神社に寄進した田地を返してもらい、神社に感謝するために夫々が「座」と呼ばれる組織を構成し感謝の祭を行ないましたが、これが、現在まで伝わる「年頭祭(ねんど)」や「索餅祭(さっぺ)」と呼ばれる特殊神事になります。

各座の人々は、互いに土地を出し合って座の財産とし、その収入によって座を維持しました。また、各座の最年長者を総一老と呼んで、四月一日には村の行政を司らせていたという故事もあるように一種の自治組織でした。このような成立過程から、向日神社の座は、同業者が商業発展を目的として形成した他社の座とは起源を異にする歴史的にも注目されるものであるということです。

座が行なう祭(神事)の一つ、「年頭祭(ねんど)」は、各座の長老五人が本殿に招かれることから名付けられ、「索餅祭(さっぺ)」は、各座が小判形の吉餅及び餅を薄い円形にした花平(はなびら)を神前に供えますが、この小判形の吉餅、餅を薄い円形にした花平の造り方から「索餅祭(さっぺ)」と名づけられるようになったといわれます。そして、この二つの神事は、現在まで四百年以上続いていて、特に、索餅祭では御膳等の祭器が当時のまま保存され現在も使用されているということです。



最後に、向日神社の境内は木々が多く憩いの空間となっていて、京都府全域から選ばれた「京都の自然二百選(平成七年三月選定)」にも選ばれています。
特に、西側一体は、隣接する勝山公園、勝山緑地に溶け込んで自然豊かな空間を形成しています。また、向日神社の裏参道になる坂道には地元住民らの手で守られている「桜の苑」があります。次回は、この勝山公園や勝山緑地を中心に写真を掲載します。

向日神社その1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

今回は、向日市のシンボル的な存在の向日神社(むこうじんじゃ)です。
平安時代の由緒ある式内社で、古くは向神社、向日明神と呼ばれ、現在も向日市全域の鎮守社として「明神さん」の名前で市民から親しまれています。また、市を代表する観光名所としてお勧めクラスの史跡でもあります。


向日神社(京都府向日市向日北山)は、向日市の西部一帯にある向日丘陵の最南部、阪急電鉄西向日駅から北西約五百メートル程にある小高い丘に鎮座しています。
アストロ通り(京都府道六十七号線)という向日市商店街通りに面した大鳥居を潜ると、二百メートル程の御影石を敷きつめた長い参道が真直ぐ続き、その先に舞楽殿がかすかに見えます。
向日神社の最大の魅力の一つがこの参道で、両側には桜、つつじ、きりしまつつじ、楓等の木々が植えられていて、春の桜のトンネル、夏の新緑のトンネル、秋の紅葉のトンネルと四季折々の風情が楽しめる場所になっています。(ただ、乗用車での参拝者も多く、結構頻繁に車が参道を往来するので、徒歩の参拝者は注意が必要です)
また、先日、ブログに掲載したように、大鳥居の手前左脇には、日像上人ゆかりの説法石が安置され、参道の途中、右手にも他の説法石やさざれ石が置かれています。



さて、向日神社の祭神は、向日神(むかひのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神武天皇(じんむてんのう)の四神です。
向日神社の創始の詳細は不明ですが、平安時代の『延喜式神名帳』に「乙訓郡十九座(大五座・小十四座)」の一社として記載された式内社で、神名帳では「山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)」と称され、後に同式内社の乙訓坐火雷神社(ほのいかづちじんじゃ 名神大 月次新嘗))を併祀して現在に至っているということです。 また、この両社は、同じ向日山に鎮座したことから、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていたということです。そして、上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社として崇敬されました。


また、社伝によると、古代、大歳神(おおとしのかみ)の御子、御歳神(みとしのかみ)が、現在の鎮座地のこの峰に登られた時に、この地を向日山(向津日山)と称し、この地に永く鎮座して田作りを奨励されたことに始まるといい、祭神が向日山に鎮座されたことから、御歳神を向日神と呼ぶようになったと伝えています。
また、火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住んだ時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祀られたのが創立とされます。その後、奈良時代の養老二年(718)に、社殿を改築して新殿遷座した際、火雷大神の御妃神の玉依姫命と、創立の因縁によって神武天皇を併祭したとされます。


さて、少し話が長くなりますが、向日神社の下ノ社に祀られていた乙訓坐火雷神社(乙訓社とも)については、向日神社の他に、比定社として角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)があるので、角宮神社の伝承や平安時代の古記録を加えて、乙訓坐火雷神社について補足してみます。

祭神火雷大神の最も古い伝承として、『山城風土記逸文』の賀茂伝説(京都の賀茂社(現下鴨神社)の創建伝承)があります。この逸文には、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと 下鴨神社主祭神)の娘、玉依媛命が、瀬見の小川(賀茂の川)で禊をしている時に、上流より流れて来た丹塗の矢を拾って寝床におかれたところ、矢は男神になって結婚し子供が生まれたという神話が記されていて、この玉依姫の夫神が乙訓国の郡の社の火雷大神(火雷命)と記しています。
その後、火雷大神の御子別雷神を祭神とする上賀茂社(上賀茂神社)や、玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社(下鴨神社)と共に乙訓坐火雷神社は、国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社とされてきたようです。


史書では『続日本紀』の大宝二年(702)七月八日の条で、「詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。又在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴験。宜入大幣及月次幣例。(伊勢の大神宮からの奉庫からの物資は紙の御物である。神事に供えるものなので、濫りに穢すことのないようにせよ。また、山城国乙訓郡にある火雷神は雨乞いを行う度に霊験がある。大幣と月次祭の幣帛を奉るようにするようにせよ。)」とあるのが初見になり、その後、宝亀五年(774)正月二十五日の条に、山城国司が「去年の十二月に乙訓郡の乙訓社で、狼や鹿が多く、野狐は百頭もいて毎夜吠えていましたが、七日で止みました。」と言上したとあり、これが原因で、同年六月五日には、乙訓社に山犬や狼の怪があるということで幣帛を奉っています。

延暦三年(784)十一月二十日には、近衛中将正四位上の紀朝臣船守を遣わして、賀茂上下二社に従二位を叙すと共に、兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚を遣わして松尾と乙訓の二神に従五位下を叙していますが、叙任の理由は長岡遷都のためでした。また、同月二十八日には、使者を派遣して賀茂上下二社と松尾、乙訓社を修理させています。

その後、『日本紀略』によると、弘仁十三年(822)八月三日には、乙訓社は広湍、竜田社等と共に従五位に叙され、 弘仁十四年(823)六月四日には、祈雨(雨乞い)のため貴布祢、広湍、竜田と共に幣帛を奉られました。以後、乙訓社は、賀茂上下、松尾、垂水、住吉、貴布祢、丹生川上社等と共に主に祈雨神として朝廷から崇敬され、『日本紀略』や『続日本後紀』、『文徳天皇実録』、『日本三代実録』といった国史に度々登場しています。
また、嘉祥三年(850)七月十一日には正五位下、貞観元年(859)正月二十七日に從四位下に叙されています。しかし、鎌倉時代初期の承久の変(1221)の戦乱で灰燼に帰したということです。


さて、前述したように、向日神社の社伝によると、向日神社は、元々、上ノ社(向神社)と下ノ社(火雷神社)に分れていましたが、建治元年(1275)、下ノ社の社殿が荒廃したことにより上ノ社に祭神の火雷神を合祀し、以後、下ノ社の再興が出来なかったため上ノ社に上記四柱を祀って、向日神社として現在に至っているとしています。承久の変(1221)の戦乱以降に衰退したという火雷神を祀る神社は向日神社の下ノ社だと推定されますが、一方、角宮神社の伝承では、衰退した乙訓坐火雷神社(現角宮神社の前身)の社地は、現在の向日神社の西約一.五キロの現在の長岡京市井ノ内の西部の宮山にあったと伝えています。

その後、室町時代の文明十六年(1484)になって、井ノ内宮山にあったという火雷神を祀る社が、鎮座地を変えてようやく復興されましたが、これが現在の角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)になります。建治元年(1275)に火雷神を合祀した現在の向日神社と、その後、再建された近隣の角宮神社とは、共に元は式内社の乙訓坐火雷神社であるとして、どちらが正当な乙訓坐火雷神社の後継神社かという論争が古くからあったようですが、由緒ある歴史を掲げるのが寺社縁起の通例でもあり、残存する伝承資料の真偽を詮索しても結論の出る問題ではないようです。まして、参拝する際には一切関係ないことですが、少し情報として補足してみました。


また、向日神社の宮司は、平安時代以来、代々、「六人部(むとべ)家」が務めていますが、向日神社は、元々、六人部(むとべ)氏が自領に鎮守社を祀ったことが創始とも考えられます。
そして、幕末の向日神社の宮司、六人部是香(むとべよしか、1806(1798とも)〜1864)は、平田篤胤門下の国学者として知られ、孝明天皇にも進講し、坂本龍馬や中岡慎太郎、副島種臣等にも影響を与えたといわれています。



次回に続きます・・

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事