京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2010年04月

← 2010年3月 | 2010年5月 →

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

堀川の続きです・・・



前回に写真を掲載した中立売通の「堀川第一橋」の下流に向かうと、上長者町橋、下長者町橋、赤レンガの出水橋を経て、下立売通の「堀川第二橋」があります。

「堀川第二橋」は、「堀川第一橋」架橋の翌年、明治七年(1874)に架橋された同じく石造りのアーチ橋です。但し、南北に新しく拡幅されているために、その姿は橋の下からしか確認できません。
また、「堀川第一橋」が「鶴の橋」と呼ばれてきたのに対し、「堀川第二橋」は「亀の橋」と呼ばれ親しまれてきました。今回の堀川周辺整備によって、橋下から簡単にアーチ橋の様子が見られるようになりました。



「堀川第二橋」から、椹木町橋、スロープのある広い丸太町橋を南下すると、堀川は二条城に平行して流れます。
この辺りがもうひとつの見所のようです・・二条橋付近の掲示板によると、この付近の川沿い西側の石垣は、二条城築城に伴って、慶長八年(1603)頃に築かれたもので、昭和十四年(1939)十一月三十日に、二条城と共に国の史跡に指定されました。

東側の石組とは明らかに違った積み方になっていて、堀川に架かる二条橋の北側には、「是ヨリ北紀州」と読める銘文が石に刻まれていることから、慶長五年(1600)から元和五年(1619)まで紀伊国を治めた紀州浅野家が北の石垣普請を担当したと考えられています。その他二十一ケ所の刻印が発見されています。これらの刻印は、工事に関わった大名達が、受け持分の石材が集石場や輸送の途中で分散したり紛失したりするのを防ぐために目印として刻んだもので、現在の製品タグのようなものでした。

これらの刻印が見つかる範囲は、夷川橋の北から二条橋の南までの範囲で、刻印は切り出した石の表面をそれ程加工しないで彫り込まれているために、見過ごして通り過ぎてしまうものが多く、石の隙間を覗き込んでようやく発展できるものもあるということです。

こうして、二条城の南の押小路橋で地上開渠部は終了します。
写真のように、まだ京都らしい風情というより、街中の「普通の川」といった雰囲気ですが、二条城観光のついでにでも、堀川沿いを歩いてみるのも悪くないかもしれません。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

今回から二回に分けて、平成二十一年(2009)に清流が甦った堀川について書いてみます。


堀川(ほりかわ)は、京都市のほぼ中心部を南北に流れる淀川水系の河川です。
京都市内で最も広い幹線道路の堀川通に平行して流れ、大部分は暗渠化していますが、今出川通から御池通までの区間は地上に出ています。

かつては水流が豊かだった堀川ですが、昭和三十年代には水が枯渇し、川床がコンクリートで底打ちされた、雨天の際の放流先としてのみ使われる「水の無い川」「大きな溝」になってしまいました。
 堀川通沿いには、西本願寺や二条城、晴明神社、一条戻橋等の観光名所がありますが、堀川そのものが注目されることは久しく無かったといって良いかもしれません。しかし、近年、堀川水辺環境整備事業の結果、平成二十一年(2009)三月、約五十年ぶりに清流となって甦りました。


さて、堀川の起源は、平安京以前、京都盆地の中央付近の古烏丸谷(現在の烏丸通付近)や船岡山付近から南の古堀川谷(堀川通付近)を流れる自然河川と考えられています。
その後、平安京の造営の際に、これらの河川が運河として開削され、主に大内裏造営のために、京都北山連邦の豊富な木材資源の運搬にために利用されてきました。平安時代には、貴族達の邸内(堀川院や冷泉院、高陽院等)の庭園に清流を引き入れるために利用しました。やがて、堀川は物資運搬の他に、貯木場、農業用水、友禅染等、京都の人々の生活や産業を支えるものになりました。
しかし、戦後の下水道整備や、近年の急激な都市化による水質の悪化や豪雨時の浸水被害等の対策として何度も改修工事が行われ暗渠化してきた結果、千二百年もの歴史がある堀川の豊かな流れは絶えてしまいました。


堀川に清流を蘇らせようという地元市民の願いは大きく、堀川の水辺環境の整備は、魅力的な京都の街づくりの大きな課題となっていました。
昭和六十年(1985)には、沿線23学区と京都堀川ライオンズクラブ等で組織された「堀川と堀川通りを美しくする会」が発足し、その後も堀川の水辺再生への関心が高まる中で、「・・美しくする会」は、平成九年(1997)に「堀川の水辺空間の整備と堀川通りの再整備に係る要望書」を京都市に提出し、堀川水辺環境整備事業が本格的に展開される事となりました。
(事業年度は平成九年〜二十年度、事業区間は、左京区下鴨上川原町〜中京区堀川通御池上る押堀町、延長四.四キロ、事業費約十八億円)
翌十年(1998)、京都府・京都市共催で「京(みやこ)の川再生検討委員会」が開催され、翌十一年(1999)に「山紫水明の町づくり」をテーマとした提言が出され、堀川も再生するべきモデル河川として位置付けられました。

こうして、平成十四年(2002)から、京都市は、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部に水流を復活させ、市民が広く親しめる親水公園として整備する事業を進めました・・
基本方針は、琵琶湖疏水第二分線から賀茂川を下越しさせて、紫明通、堀川通の地下に導水路を設けて経由させ、今出川通から二条城までの地上開渠部に水を導いて、清流を復活させて水辺空間を整備し、二条城から下流では二条城の外堀を経て西高瀬川に放水するというものです。
また、都市防災上の観点からは、堀川河床に消防水利施設を整備して、災害時の消火用水や生活用水としての利用を図りました・・そして、平成二十一年(2009)三月にようやく整備事業が完成し、同月二十九日に通水式典が行われ、堀川に清流が復活しました。

再生された堀川は、まだ新しい人工河川の印象が強いでのすが、徐々に地元市民の憩いの場、散歩道、子供たちの水遊びの場として浸透してきました。
課題も多いかもしれませんが、今後は観光客も含めより多くの人々の集まる、自然や花々を楽しめる川沿いの都市公園を目指して「京都らしい空間」造りを目指して欲しいと思います。




さて、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部は、清流が復活し、市民が広く親しめる親水公園として整備されましたが、川沿いに堀川の見所を記した掲示板があり、戻橋や堀川第一橋等を解説しているので、引用して書いてみます。

今出川通から二条城までの地上開渠部の間には、合計十三の橋があります。
もちろん、一番有名なのは、「伝説の橋」一条通の戻橋です。(この有名な橋は観光名所として有名なので、別に単独で書いてみます)

実は、現在の新しい戻橋よりも、より魅力的で注目したい橋は、戻橋の直ぐ南側にある「堀川第一橋」です。
石造のアーチが一際目を引く中立売通の「堀川第一橋」は、二条城と御所とを結ぶ公儀橋として明治六年(1873)に架橋されたものですが、その美しく重厚なデザインは、堀川の歴史と文化を現在に伝えています。また、「堀川第一橋」は「鶴の橋」と呼ばれ古くから人々に親しまれてきました。

また、「堀川第一橋」の直ぐ下流に今も残るレンガ積みの橋台は、市電堀川線の歴史を現在に伝えるものです。
明治二十八年(1895)二月、日本初の電気鉄道(京都電気鉄道)が京都の町を走りました。同年九月、堀川線(通称北野線)が東堀川通に開通し、堀川中立売と堀川下立売を結びました。その後、路線距離を伸ばし乗降客数も増えて、京都市民に親しまれてきましたが、自動車の普及等から利用者が減少し、昭和三十六年(1961)七月に、ついに堀川線は廃線になりました。
レンガ積みの橋台は幅の狭い方(コンクリートのアーチ橋が架かっている部分が単線時のもので、幅の広い方(両岸が南北にずれている)が複線化していからのものということです。



次回により下流の写真を掲載します。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

二条城の北西にある児童福祉センターの前(上京区竹屋町千本東入主税町)に、石鳥居と小さな社があります・・これが、大宮姫稲荷神社(おおみやのめのみこといなりじんじゃ)です。

この地区の神社としては、出世稲荷神社(ブログパート1に掲載)が知られますが、こちらの神社は地元以外ではほとんど知られていないでしょう。巨木の根元に小さな祠があるのみで、鳥居の大きさに比較して、敷地が非常に狭いという印象です。


この神社が注目されるのは、現在は稲荷神社と称していますが、元々は、宮中神の大宮売神(大宮賣神 おおみやのめのかみ)を祀る由緒ある神社と考えられるからです・・大宮賣神は、平安時代の延喜式の宮中神の一つで、延喜式神名帳に「御巫祭神八座 並大。月次。新嘗。中宮。東宮御巫亦同」と記され、律令制時代には神祇官西院御巫の八神殿中、第六殿に祀られていた皇室守護の由緒ある神です。

さて、平安時代には、現在のNHK京都放送局敷地を中心にして、宮内省神祇官がありました。
その後、応仁の乱等で、この地にあった神祇官西院が衰退すると、以後、八神は宮中で祀られず、僅かに吉田神社境内等に八神殿が創建され細々と祀られていたということです。ようやく、明治時代に皇居に神祇官が再興されると、明治二年(1869)に八神も神祇官の神殿に祀られることになりました。その後、宮中へ遷座して、現在は皇居の宮中三殿の一つ、神殿に祀られています。


現在の神祇官西院の故地に八神のうち大宮売神のみが、どのように祀られたのか等は不明ですが、明治時代の初めには、付近には宮内省坐神三座(国神社、韓神社二座)等の遺跡等も芝生の中に僅かに残っていたとも伝えられ、その後、周辺が京都刑務所の敷地となったことで、これらの遺跡も失われてしまったようです。そして、由緒ある宮中神の名跡を持つこの神社も、いつしか稲荷大明神と呼ばれ、地元のごく一部の人が信仰するだけの神社になっていったようです。尚、現在の小さな社殿は、大正十二年(1923)に、東宮殿下の御渡欧を記念して地元の有志によって建てられたもので、末社として光春稲荷大明神を祀っています。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

今回は、以前にブログパート1に掲載した「鵺池」周辺の史跡を、写真を増やして再掲載します。

さて、前回に書いたように、二条公園(上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、平成十七年(2005)に新しく整備され、地元の人々の憩いの場所、子供たちの遊び場になっています。
公園の北側には、小さな池(普通の小池だったのものを、公園整備の際に子供に危険なため埋めて改修)があり、その中に少し磨耗して読み難いですが、「鵺池碑」と刻まれている石標があります。また、すぐ北側にも新しく石標が建てられていて、小さな社殿「鵺大明神」が立っています。

さて、この二条公園を含む一帯は、平安時代には平安京の中心部・平安宮として、内裏や大極殿、朝堂院、太政官等が立ち並んだ国家政治の中心部となる官庁街でした。そして、この小さな池は、「源三位頼政の乱」でも知られる源氏の武将・源頼政が怪鳥「鵺(ぬえ)」を退治したという伝説の場所と伝えられています。

「平家物語」等によると、平安時代末の仁平年間(1151〜54)、御所の内裏を毎夜丑の刻になると、内裏の西北、東三条の森の方から黒雲が湧き起って御所を覆い、不気味な怪鳥の声が聞こえて、幼い近衛天皇を悩ませていました。天皇は病となり祈祷を行うも効果なく、そこで、当代一流の武勇の使い手、兵庫頭源頼政が勅命を受けて御所を警護することになりました。頼政は、山鳥の尾で矧いだ矢二本を携へ、郎党の猪早太(井早太)と共に怪物退治に向かいました。

深夜になると、黒雲が御所を覆い始めたので、頼政は「南無八幡大菩薩」と祈りながら、弓を引き絞って矢を放ったところ怪物に命中、猪早太(井早太)が落ちてきた怪物を取り押さえて止めを刺しました。人々が集まって死んだ怪物を確かめると、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尻尾は蛇の姿をした「鵺」だったといことです。その後、二条天皇の応保(1161〜62)の頃にも、御所に鵺が現れたので、再び頼政が召されて射殺したとも伝わります。鵺伝説には様々な伝承がありますが、二条公園にある鵺池は、鵺を射殺した後、頼政が血のついた鏃(やじり)を洗った池だと伝えられています。


この池は、古来、「鵺池」と呼ばれてきたようですが、江戸時代になると、鵺池は京都所司代の邸内に組み込まれために、江戸時代に出版された京都の観光ガイドの名所図会の類には記載されなかったようです。その後、明治時代には京都刑務所の敷地内となり、前回に書いたように、昭和九年(1934)に児童公園となりました。
現在ある磨耗した古い石碑の方は、元禄十三年(1700)に建てられたものでしたが、磨耗して読めない状態では後世に伝わらないと、公園化の際の昭和十一年(1936)三月に石碑が復元されています。鵺大明神を祀る祠も同時に建てられ、玉姫大明神、朝日大明神を合祀しています。
妖怪伝説の多い京都らしい史跡だと思います。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

今回は、二条公園という極普通の公園について書いてみます・・次回に採り上げる「鵺池(ぬえいけ)」の前書き、プロローグのようなものになるかと思います。


観光名所として有名な二条城の北西側に位置する二条公園(京都市上京区上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、北のNHK京都放送局、南の二条城に挟まれて位置する南北約百三十メートル、東西七十メートル程の公園です。
空き地の少ない市内中心部に位置するということもあって、周辺住民の憩いの場として親しまれ、子供達や親子連れを中心に平日でも賑わっている印象があります。


二条公園は、元々、昭和三年(1928)に昭和天皇御即位を祝して開かれた「大礼記念京都大博覧会」の会場(江戸時代の京都所司代跡地で、明治には京都刑務所がありました)内に設けられた児童遊園地で、その後、同九年(1934)に公園として整備されたものです。(尚、大礼記念京都大博覧会は、岡崎公園、二条城北の京都刑務所跡地(京都刑務所は、昭和二年に現在の山科区東野に移転)、恩賜京都博物館(現京都国立博物館)の三か所を会場として、入場者数は約三百十八万人を数えたということです。)

その後、六十年以上の歳月を経て公園も老朽化したことから、京都市はワークショップ及びアンケート調査を基に検討し、街中に自然を取り入れる形式の子供から老人までが触れ合える空間として公園を整備することを決定しました。そして、平成十五年(2003)〜同十七年(2005)にかけて、大規模な改修工事が行われ、その結果、現在のような木々の多い明るい印象の多目的公園として甦りました。
また、かつてこの公園の北側にあったとされる平家物語にも登場する「鵺池(ぬえいけ)」も復元されました(次回に写真を掲載)

改修された二条公園は、北西に鵺池と神社があり、公園西側には桜の木が植えられ、池と小川が流れています。その南には「あずまや」があります。また、公園内中央北側には岩山、中央に二ヶ所の区民の誇りの木(シダレヤナギ(高さ十七メートル、幹張十三メートル、幹周二メートル)等)が植えられたゾーン、公園北東にパーゴラ、東側一帯に沿って「憩いのテラス」があり、公園南側は複合施設(遊具)が置かれ、他は多目的広場になっています。


また、公園にある掲示板によると、この二条公園のある場所は、平安時代の国家政治の中心だった平安宮(大内裏)内の、宮内大路(きゅうないおおじ 大炊御門大路(おおいのごもんおおじ)と壬生大路(みぶおおじ)の交差点の北域)に当たり、重要な役所の太政官と宮内省、園韓神社(そのからかみしゃ 園神、韓神を祀る)があった地域になります。

そして、公園整備前の平成十五年(2003)二月に遺跡確認調査を行ったところ、公園中心部付近からは、天皇や皇族の衣食住を担当する宮内省の西面築地塀の南北築地基底部(地業跡 じぎょうあと)の基礎工事跡と、宮内省西面の内溝(うちみぞ)と思われる遺構の他、平安時代前期の遺物包含層が見つかり、その中からは、当時使用されていた瓦や土器が出土しました。あずまやのある公園西側付近からは、江戸時代に整地された地層が発見されたということです。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事