京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は京都市右京区太秦(太秦安井池田町)にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約五百メートルにある後宇多天皇髪塔(ごうだてんのうはつとう)を採り上げます。
(付近の目印としてはすぐ東に大型スーパー「ライフ」、北には「ライフ」の駐車場を経て「右京ふれあい文化会館」があるので、比較的見つけやすい皇室史跡でもあります)


鎌倉時代末期の第九十一代・後宇多天皇に関しては、これまでも「後宇多天皇皇后姈子内親王(遊義門院)今林陵(嵯峨大覚寺門前六道町)」等の大覚寺統に関する諸史跡で何度か書いてきましたので、今回は少しだけ書いてみます。(いずれ、後宇多帝の御陵=蓮華峯寺陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町)を採り上げる際に詳しく書きたいと思います)


さて、後宇多天皇は、一般に第九十六代・後醍醐天皇の父として知られますが、歴代天皇中でも傑出した才能の持ち主でした。
北畠親房は『神皇正統記』で「後宇多の御門こそゆゆしき稽古の君にましまし」と後宇多がたいへん学問熱心で、「大方この君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才聞えさせ給はざりしにや」と、歴代天皇でも平安時代の後三条帝以来の学才があり、例えば、醍醐、村上、後三条等の優れた天皇の治世に比べられる善政を行ったと絶賛しました。

さらに、ライバルだった持明院統の第九十五代花園天皇も、その日記(『花園天皇宸記』)で「天性聡敏にして経史を博覧す。詩句を巧みにし、また隷書を善くす」として、後宇多帝の在位期間「乾元・嘉元の間政理乱れず」とし、(晩年、後宇多上皇が期待をかけていた嫡子・後二条天皇が早世したことにより、一代限りのピンチヒッターとして即位させた第二子・後醍醐天皇が自身の子孫に皇位を継がせたいという野心を持ったことから、後宇多が寵愛し即位を期待していた皇太子邦良親王(後二条天皇皇子)と後醍醐との関係が悪化するという問題を引き起こしたものの)、その素質を認め「末代の英主なり。愛惜せざるべからず」と賞賛しています。

また、後宇多帝は、晩年、真言密教に深く傾倒し大覚寺を再興したことでも知られます・・徳治二年(1307)七月二十四日、寵愛する皇后遊義門院(姈子内親王)が赤斑瘡で崩御したに衝撃を受けた後宇多上皇は、二日後に嵯峨亀山殿の寿量院で、仁和寺真光院の禅助大僧正を導師として剃髪出家して法皇となりました(僧名は金剛性)そして、同年十一月二日に東大寺で受戒し、翌延慶元年(1308)正月二十六日に、東寺で灌頂を受け阿闍梨位を得ています。



さて、前回、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓について書いた時に触れましたが、太秦安井の御室川沿いの地域には、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて、龍翔寺(りゅうしょうじ)という寺院がありました。
龍翔寺は、正式には「瑞鳳山萬歳龍翔禅寺」といい、現在は紫野大徳寺山内の一塔頭ですが、元々は、延慶二年(1309)三月、後宇多法王が、深く帰依していた南浦紹明(なんぽしょうみょう 円通大応国師 1235〜1309)禅師が入寂したために、その塔所(墓所)として安井の地に創建した寺院でした。

南浦紹明禅師は、嘉禎元年(1235)、駿河国安倍郡(静岡県静岡市)に誕生しました。
幼少時より仏教を志し、十五歳の時、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213〜78)の弟子となって受戒し、正元元年(1259)に中国宋に渡って修行しました。その後、文永四年(1267)に帰国した後は、九州博多の崇福寺等の住持を務め、 嘉元三年(1305)には、後宇多上皇の招きによって入京して上皇の帰依を得ます。しかし、延慶元年(1308)十二月、住持を務めていた鎌倉建長寺で七十五歳で入寂しました。(尚、南浦紹明には大徳寺の開山となった宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 大燈国師)等多くの弟子があり、日本の臨済宗は、すべて南浦紹明〜宗峰妙超〜関山慧玄(かんざんえげん 妙心寺開山)へと続く法系に属します。)


さて、南浦紹明禅師の死を惜しんだ後宇多法王は、「円通大応国師」と諡号を贈り、南浦紹明の弟子だった絶崖宗卓(?〜1334)禅師に、太秦安井にあった離宮柳殿御所を寄進して、南浦紹明(大応国師)を勧請開山として龍翔寺を建立しました。(実際の開山は二世絶崖宗卓)

また、龍翔寺境内の北側には、南浦紹明の遺骨を埋葬する塔所として普光塔(大応国師塔)という仏堂が建てられました。その後、元亨四年(1324)六月に後宇多法王が崩御すると、普光塔(大応国師塔)の左隣に、帝の遺髪(帝が出家した際に剃髪した髪が、龍翔寺に下賜されたものとも思われます)、納められた後宇多院塔(後宇多天皇髪塔)が造営されました。また、前回に採り上げた、龍翔寺創建以前からこの地にあった嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓も境内の南側に取り込まれていたようです。


こうして創建された龍翔寺は、三町四方に及ぶ広大な寺地を有し、至徳三年(1386)七月、五山十刹で京都十刹の第十位に列せられるなど栄えましたが、室町中期以降、特に応仁の乱後の戦乱に遭って衰退しました。そこで、大徳寺の末寺となってその支援を受け、天文八年(1539)、紫野大徳寺の西に移建再興されました。その後、江戸時代の文化十三年(1816)に焼失し翌年再建されました。明治の廃仏毀釈後は、大徳寺山内の塔頭の廃絶統合の影響を受けますが、大正時代に再興されています。


さて、江戸時代の『都林泉名勝図会』等は、龍翔寺の移転後も、旧地太秦安井には、普光塔(大応国師塔)や後宇多院塔が竹林の中に残されていたことを記します。またこの頃には、後宇多院塔は石塔だったということです。そして、明治十八年(1885)まで、龍翔寺の僧が、毎年七月にこれらの旧跡を廟参読経していたということです。その後、各地の皇室陵墓の整備が進められた結果、後宇多院塔のみが、宮内省(現宮内庁)管轄下で「後宇多天皇髪塔」として法華堂形式で整備され現在に至ります。

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