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先日まで、京都古文化保存協会主催の春の京都非公開文化財特別公開(4月24日〜5月9日)が行われましたが、今回は、建仁寺塔頭の大塔院を採り上げました。
大統院(だいとういん)は大正時代の火事で燃失し、長らく再建に取り組んできました。そして、昨年、本堂前庭が完成して復興が成ったために、今回の特別公開となったということです。(内部の写真撮影は禁止)
(以下、「拝観の手引」より引用)
臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺の塔頭大統院(京都市東山区大和大路通四条下ル小松町)は、建仁寺山内の南東隅に位置し、南北朝時代に夢想疎石(夢窓国師)の弟子で、建仁寺夢想派の青山慈永(せいざんじえい 仏観禅師 1302〜1369)によって、創建されたと伝えられます。
その後、天文年間(1532〜54)の火災で焼失しますが、安土桃山〜江戸初期の古澗慈稽(こかんじけい)禅師の代に、禅師に帰依し檀越となった長谷川守尚(大統院殿虎峯宗降居士)の発願により再建が始まり、住持九厳中達禅師に帰依した守尚の子・正尚の時代に工事が完成しました。また、その頃、儒者の林羅山が大統院に寓居していたことは勇名です。
その後、大正十三年(1924)秋に出火により表門・唐門の二つを残して焼失し、昭和五年(1930)に本堂のみが再建復興しました。ようやく昭和三十年(1955)頃から復興が始まり、ようやく、平成二十一年(2009)三月から本堂前庭を作庭して寺観を整えました。
さて、本堂では、寺宝の掛け軸や陶磁器など七十八点が展示されています。
まず、陶磁器では京焼の歴史に順じ「京焼清水焼先駆者展」と題して、桃山時代にはじまり、江戸の享保時代に清水五条で焼かれた古清水(こきよみず)と呼ばれた作品、三条粟田口で焼かれた粟田焼(あわたやき)、野々村仁清(ののむらにんせい)や尾形乾山(おがたけんざん)、五条坂で開窯した清水六兵衛(きよいずろくべい)、幕末の名工と呼ばれる永楽保全(えいらくほぜん)や青木木米(あおきもくべい)、仁阿弥道八(にんあみどうはち)以降、京焼清水焼発祥の地・五条坂に住して開窯し、明治・大正・昭和の陶業の発展に携わった陶工、名工と呼ばれる人々の作品が展示されました。
特に注目されるのが、江戸時代末期の陶芸家・奥田頴川(おくだえいせん)作の「赤絵十二支四神鏡文皿(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)」(国指定重要美術品)です。
奥田頴川(1753〜1811)は、養子先の京都の質商を継ぎますが、商売は番頭らに任せて諸芸に没頭し、三十代後半で家督を子に譲って隠居しました。頴川は、三十歳頃から建仁寺山内の清住院で製陶を始めたといわれ、中国明時代の赤絵磁器の焼成に成功し、京焼磁器の祖、先駆者といわれています。
展示されている「赤絵十二支四神鏡文皿)は、磁器で造った円形の皿を中国の青銅器の鏡に見立てて、後漢時代に造られた倣古鏡の意匠文様を採用して絵付けされたたいへん美しい陶皿です。
その他数点の頴川の作が展示されましたが、作品の多くが、その死後菩提寺の建仁寺に奉納されたといわれ、建仁寺塔頭ならではの展示物といえるでしょう。
さて、掛け軸数点も展示されましたが、その一つに「雪嶺永瑾像 自賛一幅」(室町時代)があります。
雪嶺永瑾(せつれいえいきん)は、建仁寺の第二百四十五世住持で、その法臑嗣法弟の中には文筆僧が多く雪嶺永瑾禅師から、薫陶を得たといわれています。この画像の賛は、室町時代の永正十七年(1520)に法弟の求めによって、珍しく自ら着賛したもので、画像は狩野派によるものと考えられています。
また、「墨梅図 心田清播賛」(室町時代)は、室町時代の臨済宗五山文学僧として知られる心田清播(1375〜1447)の着賛です。墨梅図は、竹蘭と共に古くから文人に好まれた画題で、日本には、鎌倉時代に請来され、以後、絵師や知識人によって描かれるようになりました。この図は絵師の名前が記されていないのが残念ですが、清播の賛によると、絵図の持主は、人里離れた所に暮らしているが、その趣味はひたすら梅を愛でることで、そのためにわざわざ絵師を呼んで描かせたものということです。
そして、より一般的に興味を惹きそうなのが、円山応挙筆「幽霊図」です。
江戸中期の画家として知られる円山応挙(1733〜95)は、京都丹波で生まれ、狩野派の石田幽汀(いしだゆうてい 1721〜86)に画を学びました。幽汀は、琳派の装飾性に加え、写生的技法を取り入れた画風で知られ、若き応挙に影響を与えました。そして、その後、応挙は写生を重視する新しい画風を開き、円山派の祖と呼ばれるようになりました。
さて、幽霊画とは亡くなった人、死人の霊の姿を現したものですが、応挙がある僧に「幽霊とは?」と問うと、その幾つかの定義の中に「幽霊には足が無い」と言う一節がありました。そこで、応挙は足の無い幽霊画を描きましたが、以後、幽霊には足が描かれなくなったと言われています。
この画は、「四方睨み」で、どこから見ても目が合う画法で描かれていて、贋作の多い応挙の幽霊画中で、数少ない真筆ということです。また、寛政庚戌(寛政二年1790)と記されていることから、応挙晩年の作と判ります。
(尚、この幽霊画は、元々、上京区の千本出水の玉蔵院(ブログパート1に掲載しています)に所蔵され、「出水の七不思議」の一つとされていたものでしたが、数十年前から行方不明になっていました。これが今回の大統院で発見されたということです。)
その他、独特のユーモラスな画風で人気の白隠慧鶴(1685〜1768)の、蛤蜊から観音菩薩が出てくる姿を描いた「蛤蜊観音図」や、円山派の画家で上村松園の師でもあった鈴木松年(1848〜1918)の「髑髏(どくろ)図」等が展示されました。
最後に、昨年に完成した本堂前庭は、建仁寺や建仁寺派の高台寺の御用達で、愛知万博の日本庭園、山梨県久保田一竹美術館の庭園を手がけた国際的な庭師として活躍する庭匠凮玄こと北山安夫氏によって作庭され、建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されました。
ツツジの築山を背景に、白砂と苔を大きな市松模様にした庭園で、有名な東福寺の.重森三玲作の方丈庭園を見た目で見ると、やや二番煎じな印象もありますが、明るい雰囲気のモダンな庭です。
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