京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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以前、このブログに白峯神宮(京都市上京区今出川通り堀川東入ル飛鳥井町)を採り上げました。明治時代に創建された白峯神宮は、第七五代崇徳天皇、第四十七代淳仁天皇という悲劇的な生涯を送った二人の天皇を祀る神社ですが、今回は白峯神宮が奉仕する、花街として有名な祇園にある「崇徳天皇御廟」についてです。(尚、崇徳天皇の生涯については、白峯神宮を採り上げた際に書きましたので、今回は省略します。)


東山区の東大路通の東山安井交差点から安井北門通へと左折し、一筋目の万寿小路を数十メートル北上すると、祇園花見小路甲部歌舞錬場の東(裏側)に出ます。今回の「崇徳天皇御廟」は、この歌舞錬場の裏手に植えられた楠の巨木の根元に祀られています。
直ぐ西の花見小路通には、歌舞錬場の南にWINS京都(場外馬券売場)があり、週末は周辺が大変混雑しますが、その一筋東にひっそりと祀られている御廟があることを知らない人も多いようです。



さて、『保元物語』等によると、「保元の乱」に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、松山の御堂を経て志度郡直島の御在所に軟禁され、その後、鼓岡(鼓ケ岡)に御所を設けて移りましたが、この間、上皇は仏教に深く傾倒したということです。そして、五部の大乗経を血書して、鳥羽の安楽寿院に奉納して欲しいと仁和寺を通じて朝廷に提出し、京都への還幸を願いましたが、朝廷では、小納言藤原信西が、呪詛の意図からかもしれないと進言して、結局、朝廷は奉納を拒絶し送り返してしまいました。
これに激怒した上皇は、以後、爪も髪も切らず形相凄まじく生きながら天狗になったといわれる程だったと伝わります。こうして、憤怒の気持ちを抱いたまま、上皇は九年間の流刑生活の後、長寛二年(1164)八月二十六日に四十六歳で崩御し、九月十八日、遺体は五色台白峰山に移されて火葬にされ白峯山陵に埋葬されました。

その後、京都では、上皇の寵愛厚かった阿波内侍が、遺髪を請い受けて邸内に、一塚を築いて亡き上皇の霊を慰めたとも伝承されています。 


また、その後、京都では上皇の怨念による祟りによって、飢饉等の異変や戦乱が相次いで発生したことから、治承元年(1177)七月二十九日に、讃岐院と呼ばれていた上皇に崇徳院の謚号を奉り、同じく「保元の乱」の首謀者で、祟りをなしたと考えられた故左大臣藤原頼長に、正一位太政大臣を贈っています。
さらに、『史料綜覧』から引用すると、寿永二年(1183)十二月二十九日、後白河法皇が、崇徳上皇と藤原頼長の霊の鎮魂のため、両者の霊を祀る祠を、鴨川の東、春日河原に創建し、寿永三年(1184 四月十六日に元暦元年に改元)四月十五日に、両者の霊を春日河原の社殿に遷宮させたということです。
『保元物語』にも「その昔に合戦があった大炊御門の末の御所跡に社を作って崇徳院を祀り、左大臣殿にも贈官贈位を行った。・・ご墓所に向かって、太政大臣正一位の位記を読んだ・・」とあります。『大日本史料』の『歴代編年集成』にも同様の記載があり、四月十五日に、崇徳上皇を祀る社殿を、上皇の旧御所で、保元の乱の戦場となった白河北殿跡地(白川中御門末北河原)に社殿を建立したとしています。


この「保元の乱」の戦場となった白河北殿の位置は、『保元物語(上巻)』に「白河殿より北、河原より東、春日の末にありければ北殿という」、とあり、現在の地理に置き換えると、当時の白河殿の北の境界線、現竹屋町通(東竹屋町通)より北で、鴨川の東、現丸太町通(春日)の末=洛中から見て鴨川の向こう側)に沿った区域となります。これは、ほぼ、現在の京都大学熊野寮付近(左京区丸太町通東大路西入る南側東竹屋町)から丸太町通を跨いで現熊野神社の西側付近に相当すると考えられ、現在、熊野寮付近に北河北殿跡を示す石標があります。
そして、崇徳上皇や藤原頼長を祀った社殿は、『源平盛衰記』に、「(社殿を建てた場所として)春日が末の北、河原の東也、此所は大炊殿の跡先年の戦場也」とあり、白河北殿の北側にあったようです・・・これが、中世を通じて、粟田宮と呼ばれた神社になります。
粟田宮に関しては、当時の諸資料にその名前が出てきますので、以下にその歴史を少し書いておきます。


(尚、藤原頼長については、その後、どのように祀られたかは不明ですが、この白河北殿跡地になる京都都大学熊野寮の南西付近には、古くから頼長の首塚、墓と伝承され、「桜塚」と呼ばれていた塚がありました。この塚は、明治二十年(1887)以降、この地の紡績会社の拡張工事によって塚自体は壊され、塚上の五輪石塔のみが相国寺に移されましたが、これが、現在、相国寺墓地にある藤原頼長の墓(首塚)です。あくまで推測ですが、北河北殿跡に崇徳上皇と合わせて頼長を祀ったという記載と関係があるのかもしれません。)



その後の粟田宮についてです・・・
『大日本史料(『師守記』、『玉葉』、『吾妻鏡』、『歴代編年集成』等から)』を参照すると、建久三年(1192)十一月十六日に、崇徳院を祀る粟田宮で初めて祭日を定め祭事を行ったとあり、翌建久四年(1193)正月五日に奉幣、八月に祭事が行われて、以後、継続して行われていたようです。また、この頃には、上皇の御影を祀る御影堂も粟田宮内に建立されていたようで、承元四年(1210)に、崇徳院御影堂が、同領の地頭職の罷免を幕府に求めています。

その後、粟田宮は、度々氾濫した鴨川の影響で、何度も水害、また焼失に遭いますが、その都度再建されたようです・・・嘉禎三年(1237)四月二十七日には、洪水発生の恐れから、粟田宮は、鴨川から遠い東側へと遷座しています。また、康元元年(1256)九月五日には火災に遭って焼失し、弘長元年(1261)七月十日には、洪水によって粟田宮の周囲の土塀が崩壊しています。建武元年(1334)にも焼失し、文和三年(1354)に再建されました。

また、正嘉元年(1257)正月八日には、土御門天皇の皇子・尊助法親王が崇徳院御影堂の検校に、暦応二年(1339)八月六日には、北朝の伏見天皇の皇子・入道尊円親王が崇徳院御影堂と粟田宮検校に任命されるなど、同様の記載が多く見受けられることから、中世を通じて栄えていたことが伺われます。また、暦応三年(1340)三月十八日には、足利尊氏が上奏して、崇徳院の粟田宮の例に倣って、前年に崩御した後醍醐天皇の祟りを恐れその霊を祀ることを請うているのが注目されます。
粟田宮は、その後、室町中期頃まで存続しますが、応仁元年(1467)に焼亡して以後は、荒廃してしまったようです。 

(尚、明治時代まで、粟田宮の跡地と考えられる現京都大学医学部付属病院敷地に祀られていた「人喰い地蔵(すとく地蔵が訛ったもの)」については、ブログの積善院凖提堂の項に写真を掲載しています。)




さて、その後、明応六年(1497)、現在の東山安井にあった光明院の住持・幸盛上人が御土御門天皇の綸旨により「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興しました。場所の記載はありませんが、その後の経過から、これが現在の祇園万寿小路の「崇徳天皇御廟」であると考えられています。
ただ、後白河法皇が創建した粟田宮の後進が、現在の「崇徳天皇御廟」なのかどうかは、実際のところは不明です。

元々、この光明院は、崇徳院の寵妃だった阿波内侍が居住していた邸宅跡でもあったとも伝えられ、上記したように、阿波内侍は上皇の遺髪を請い受けて邸内に一塚を築き、亡き上皇の霊を慰めていたという伝承もあることから、阿波内侍の邸宅内の塚が、現在の「崇徳天皇御廟」になった可能性もあります。
(歴史資料に基づかないのが粟田宮より弱い点ですが、崇徳上皇を祀る施設が、阿波内侍はともかく、上皇の関係者等によって(怨霊神として広く知られるようになったこともあり)、洛中に複数設けられた可能性もあり、地理的な連続性では可能性が高いともいえます)、



少し、光明院について補足しておきます・・・

かつて、光明院の鎮守社だった安井金比羅宮の伝承によると、元々この地には天智天皇の時代(668〜71)に、藤原鎌足が家門隆昌と子孫長久を祈願して藤の木を植え、藤寺と称した寺院があり、その後、聖武天皇の時代(724〜48)に詔勅により堂塔を増築し、「観勝寺」と改名したと伝えます。
そして、崇徳天皇は、特に藤の花を愛し、上皇となった久安二年(1146)、堂塔の一部を館に修造して、寵愛する阿波内侍(烏丸殿)を住まわせ御幸していましたが、上皇は「保元の乱」に敗れ讃岐へ流され、長寛二年(1164)にその地で崩御しました。残された阿波内侍は、観勝寺の観音堂に上皇の御尊影を祀り、出家剃髪して仏種尼と称し、帝の菩提を弔ったと言うことです。

その後、上皇の霊がこの地に現れ、毎夜、光を放ったため、人々は恐れて光堂と呼ばれる御堂を建てて霊を祀っていましたが、治承元年(1177)、真言宗の大円法師が観勝寺に参詣したところ、崇徳帝の霊が現われたので、これに恐懼した大円法師は、直ちに奏上して後白河法王の詔を蒙り、崇徳院を厚く奉るための神殿を建造し、「光明院観勝寺」と称したということです。(亀山上皇の時代(1259〜73)とも)そして、建治年間(1275〜77)に建立された、観勝寺内の鎮守社が、安井金比羅宮の起こりとされます。その後、鎌倉時代には亀山天皇が社殿を改修し、道尊宮を蓮華法院門跡、神社の別当として以降八世の間、法嗣を継承したということですが、応仁の乱の兵火に遭って光明院観勝寺も衰退しました。その後、江戸時代になって、後水尾天皇の勅願により、性演僧正が入寺し寺社を再興したということです。



さて、元禄八年(1695)、太秦にあった門跡寺院の蓮華光院(安井門跡)がこの地に移転し、光明院(及び鎮守社)は門跡の下に入りました。また、この時、鎮守社の別当・道恕が、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮大権現より勧請した大物主神と源頼政を相殿に祀ったことから、この鎮守社は、いつしか安井金比羅宮と呼ばれるようになりました。『山州名跡志(正徳元年(1711)刊)』は、当時、「崇徳院の宮」が仏殿の南に東面してあり、崇徳天皇の額と堯海作という二尺余の衣冠束帯姿の坐像を祀っているとしています。
その後、光明院が廃絶すると、「崇徳天皇御廟」は、南に位置する六波羅普門院(六波羅蜜寺。智積院の末寺となって以降、主に院号の普門院で呼ばれました)の管理下に置かれました。当時の普門院の境内には、崇徳上皇を祀る「崇徳天皇社」、その御影を祀る「御影堂」、「崇徳院御廟所」の石碑があったということです。

そして、明治四年(1871)の神仏分離令により、蓮華光院は廃されて嵯峨大覚寺に吸収合併され、現在地には鎮守社(明治六年に安井神社と改称)のみが残りました。それまで御影堂に祀られていた崇徳天皇も併せて安井神社(戦後、再び「安井金比羅宮」に改称)に祀られました。そして、現在、崇徳天皇に関する遺物としては、白峰神宮と六波羅蜜寺に崇徳天皇御影が残されています。


最後に、現在の「崇徳天皇御廟」についてです。
廟内には、御廟所と刻まれた自然石と、崇徳天皇と刻まれた一.五メートル程の石柱があり、毎月二十一日に、白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将も参列して崇徳天皇御廟祭が斎行されます。
また、普段は一般の立ち入り出来ない「崇徳天皇御廟」の背後の歌舞練場内には、数十年前までは墳丘があって、丘上には阿波の内侍の墓と伝わる五輪塔が置かれていたようです。この墳丘が元々の崇徳院御廟所址という説もあるようですが、墳丘はその後、整理されて失われてしまったようです。

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