京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2010年05月

← 2010年4月 | 2010年6月 →

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]

一条戻橋その2

イメージ 1

イメージ 2

前回の続きです・・

屋代本『平家物語』(剣巻)から、渡辺綱と鬼の対決シーンです・・
まず、原文を掲載します。

「その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。
一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。

綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。

既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。「何くより」と尋ぬれば、「綱が養母、渡辺にありけるが上りたり」とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が為には伯母なり。人して言ふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立出でて、「適々の御上りにて侯へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべし」と申しければ、母はこれを聞きてさめざめと打泣きて、「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿を母が生み落ししより請取りて、養ひそだてし志いかばかりと思ふらん。夜とて安く寝ねもせず。濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや、聞かばやと思ひつつ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を並ぶる者もなし。上にも下にも誉められぬれば、悦(よろこび)とのみこそ思ひつれ都鄙遼遠の路なれば、常に上る事もなし。見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の欺きなれ。この程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と恋しきこそはかなけれ」綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。

母は悦びて来し方行く末の物語し、「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」と問ひければ、隠すべき事ならねばありの儘にぞ語りける。母これを聞き、「扨は重き慎みにてありけるぞや。左程の事とも知らず恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守りにてあるなれば別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは何なる物にてあるやらん、見ばや」とこそ申されけれ。綱、答へて曰く、「安き事にて侯へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて侯はば見参に入れ侯ふべし」母の曰く、「よしよし、さては見ずとても事の欠くべき事ならず。我は又この暁は夜をこめて下るべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。母、打返し打返しこれを見て、「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて虚に光りて失せにけり、それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。」



やや意訳ですが・・

その頃、摂津守源頼光には、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(貞道 うすいのさだみつ)、ト部季武(うらべのすえたけ)という四天王がありましたが、中でも、随一といわれたのが渡辺綱です。武蔵国の美田に生まれたため、美田源次といいました。
主君頼光は、用事のために、渡辺綱を一条大宮に派遣しました。深夜のため名剣「髭切」を帯刀させ馬で向かわせます。要件を済ませた帰り、綱が一条堀川の戻橋を渡る際、橋の東の袂を、二十歳ほどの雪のように色白で美しい女が、紅梅の衣装で経を持ち、供も無く一人で南へ向かっていましたが、綱が橋の西の袂を過ぎるのを、手をたたいて、「どこへ行かれるのですか。私は五条付近のものですが、深夜で怖いので送っていただけないでしょうか。」とぶしつけに言うので、綱は直に馬から降りて「どうぞ馬にお乗りください」と馬を勧めます。嬉しいと喜んだ女を、綱は近寄って抱いて馬に乗らせ、堀川の東の袂を南へ向かいますが、正親町へ今少しという所で、女は後ろを振り向いて、「実は五条付近にはさしたる要も無いのです。私の家は都の外なので、そこまで送ってもらえないでしょうか。」と言います。 綱が「わかりました。何処にでも送りますよ。」と言うのを聞くと、女は形相を変え恐ろしい鬼となり、「さあ、わが行くところは愛宕山ぞ。」といって、綱の髻(もとどり)をつかんで、西北天へ飛びました。

綱は少しも騒がず、名刀「鬚切」をさっと抜いて仰向けに鬼の腕を切り落としました。綱は北野社(北野天満宮)の廻廊の上にどっと落ち、一方、鬼は腕を切られながらも愛宕山へと飛んで行きました。さて、綱は廻廊から跳り下りて、髻を摑んだままの鬼の腕を取って見れば、雪のような白い容貌と違って黒々としていて、白い毛がびっしりと隙間無く生えていて銀の針を立てたようでした。綱が、鬼の腕を持ち帰って頼光の元へ参上すると、頼光はたいへん驚き、不思議な事だと思って「晴明を召せ」と命じました。そして、参上した播磨守安倍晴明に、「どうすればよいか。」と尋ねると、晴明は、「綱は七日間の暇をいただいて慎み、鬼の腕は厳重に箱に封じて置かれ、祈祷に仁王経を講読すると良いでしょう。」と言うので、そのようにしました。

そして、既に六日が過ぎた夕暮れに、綱の宿所の門を叩く音がします。「何処からのものだ。」と尋ねると、「私は綱の養母で、渡辺から上洛したものです。」と答えます。彼の養母というのは、綱の伯母でした。使いが変な様子も無いというので、綱は門の傍まで出て、「うれしい御訪問ではありますが、七日の物忌を行っている最中で、今日は六日目になります。明日まではどうしても適いませんので、宿にお泊りください。明後日になれば入っていただけましょう。」と言えば、養母はこれを聞きてさめざめと泣いて、「仕方のないことです。しかし、生母が産んだあなた様を受けとって養い育てた気持ちをどのように思われるのでしょう。夜も安心して寝られず。私は濡れた所に寝て、乾いた所にはあなた様を置いて、四、五歳になるまでは、強い風にも当てないようにし、いつか我が子が成長して、優れた人になるのを見たい、聞きたいと思って昼夜願っていた甲斐があって、摂津守殿の御内で、美田源次(渡辺綱)といえば肩を並べる者もありません。上にも下にも誉められ喜びだけと思いながらも、遠路のためいつも上洛することなどありません。会いたい恋しいと思うことは親子の中の偽りです。最近、立て続けに悪い夢を見たので、心配して渡辺から上洛しましたが門の内へも入れられません。親と思われていいない我が身で子を恋しいと思うのは空しい気持ちです。」綱はこの道理に責められ、門を開いて中に入れました。

母は喜んでこれまでの事や将来のこと等を話し、「さて七日の物忌というのは何事ですか。」と問うので、綱は隠す事でもないので有りのままに話しました。母これを聞き、「それは重要な戒慎ですね。そのようなこととは知らないで恨んだりして後悔しています。ただ、親は子の守りでもあり他人事ではありません。鬼の腕というのはどんな物なのか見せてください。」と言います。綱が「それはお安いことですが、固く封じているので七日目が過ぎるまでは出来ません。明日暮れてからお目にかけましょう」と言うと、養母は、「わかりました。別に今見なくても不自由な事でもありません。私は次の朝は夜が明けないうちに来ましょう。」と恨めしい顔で言うので、綱は箱に厳重に封じていた鬼の腕を取り出して養母の前に置きました。母は、繰り返しこれを見て、「これは怖しい。鬼の腕というのは、このようなものですか。」と言っていましたが、そのまま立ち上がると、「これは我が腕なので、もらっていくぞ。」と言って、恐ろしい鬼の姿になって飛び上がり、屋根の破風を蹴破って空中に光りながら消えていきました。それ以来、綱の出身の渡辺党では家の屋根造りには破風を立てず、東屋作りにするようになったということです。綱は鬼に腕を取り返されて、七日の物忌を破ることになりましたが、仁王経の力によって特に何ともなかったのでした。そして、名刀「鬚切」は、鬼の腕を切って後は、「鬼丸」と改名したということです。



さて、媚びたり、泣いたり、喜んだりと鬼の巧みな演技に、さすがの綱も騙されて、鬼の腕を奪還されたわけですが、鬼の巧みな話術が面白く、長々と掲載してしまいました。

その後の一条戻橋についてです。

その後、桃山時代には、千利休が大徳寺山門上に自身の像を置いたことに怒った豊臣秀吉は、利休を切腹させると同時に、利休の木造を一条戻橋の上で磔にしました。そして、死んだ利休の首を木像の下に置いて、像が首を踏みつける姿で晒しものにしたと伝わります。
また、戦時中は、出征する兵士が無事に帰還できるようにと、戻橋を渡り、また、現在でも婚礼や葬儀の際はこの橋を避けて通るということです。

最後に、現在の戻橋は、平成七年(1995)に架け替えられたもので、先代の橋は大正十一年(1922)から平成七年(1995)まで架けられていました。その当時の親柱や欄干を再利用したミニチュア版が、晴明神社境内に再現されていることは、晴明ファンには良く知られていますね。(写真)

一条戻橋その1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

有名な割に、実際に見るとあまり印象に残らない史跡というのがありますが、一条戻橋(京都市上京区堀川下之町)もそういった史跡のように思います。

現在の戻橋は、普通のコンクリート造の特徴の無い橋なので、すぐ下流に架かる石組造りの堀川第一橋(中立売橋)と勘違いする人もある位です。しかし、戻り橋が、平安遷都の際に架橋されて以来、何度も石橋を架け替えながらも、現在までその位置をほとんど変えず存在してきた貴重な橋であることは確かなようで、古くから多くの伝説に彩られ、洛中の名橋として知られていました。


さて、平安時代、戻り橋のある一条大路(現一条通)は、平安京の最北の通りで、戻り橋は、堀川小路の中央を流れる堀川(川幅約四丈(約十二メートル))に架けられていました。
堀川は、当時、平安宮内裏の東の外堀の役割を果たしていたとされ、戻り橋付近は、平安宮の鬼門(北東角)に当たりました。そして、一条大路((現一条通)が平安京の洛中と洛外を分ける北の境界線でもあったことから、後世、あの世と此の世の境界、死者が甦ったり、霊や鬼等の伝説を生んだと思われます。(南の境界に当る九条大路(九条通)の羅生門と共通する所がありそうです)



元々「土御門橋」と言われていたこの橋が、何時頃、「一条戻橋」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、平安時代中期の和泉式部の歌に、「いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とはひとのいふらん」(和泉式部)とあり、恐らく、平安中期以降には、この名前が定着していたと思われます。

そして、「戻橋」と言う名前の由来としては、西行に仮託された説話集『撰集抄』(鎌倉時代以降成立)の巻七第五に以下のような記載があることが知られます。

「仲算事浄蔵は、善宰相の正き八男そかし。其に八坂の塔のゆるめ<る>を、祈直し、父の宰相の此土の縁つきて去給ひしに、一条の橋のもとに行合て、且く観法して蘇生し奉られけり。伝へ聞も有かたくこそ侍れ。さて、其一条の橋をはもとり橋といへるとは、宰相のよみかへり給へる故に名付て侍り。源氏の宇治の卷に、行くはかへるはしなりと申たるは、是なりとこそ行信は申されしか。宇治の橋といふは、誤れる事にや侍らん」

平安時代中期の漢学者・文章博士の三善清行(みよしきよゆき・きよつら 847〜919)が亡くなって、その葬列がこの橋に差し掛かった時、修験道の修行をしていた子の浄蔵(じょうぞう)が駆けつけて、父の棺の前で一心に読経すると、父清行が生き返ったことから、以来、死者が蘇る橋として知られるようになったということです。
(尚、『撰集抄』は、源氏物語の宇治の帖に「行はかへるはしなり」とあるのは、この橋の事であるとも記していますが、現在の宇治十帖には、該当する記述は見当たらないようです。成立当初から多くの写本が存在した源氏物語は、本文を整理した校訂版が現在に伝わりますが、当時の諸本中には、そのような記載があったのかもしれません。)


また、戻橋では橋占(はしうら)も盛んに行われていたようです。
橋占は、辻占(つじうら かつて、道路は人と同じく神も通る場所である考え、道の交差点に立って、偶然通る人の言葉を聞いて、これを神のお告げと考えました)と同じく占いの一つで、橋は異界とつながりの有る場所と考え、橋の袂で橋を通る人々の言葉を聞いて、神のお告げと考えました。

『源平盛衰記』(巻十)には橋占に関する、以下のような記載があります・・

「中宮御産事 治承二年十一月十二日、寅時より中宮御産の氣御座すと訇けり。去月廿七日より、時々其御気御座けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿心苦く思給て、一條堀川戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給て橋占をぞ問給ふ。
十四五許の禿なる童部の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣へ同音に、摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如し失にけり。
二位殿帰給て、せうと平大納言時忠卿に角と被仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座候べし。目出き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給ひけれ。
一條戻橋と云は、昔安部晴明ガ天文の淵源を極て、十二神將を仕けるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に呪し置て、用事の時は召仕けり、是にて吉凶の橋占を尋問ば、必職神人の口に移りて、善惡を示すと申す、されば十二人の童部とは、十二神將の化現なるべし。」



少し省略した意訳を掲載します・・

高倉天皇の中宮建礼門院が出産する際、中々出産に至らない事を気にした母の二位殿(平時子)は、一条戻橋の東の袂に車を止め橋占を行いました。
この時、十二人の童子が、西から東へと手を打ち鳴らし「摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺」と歌いながら橋を渡り、あっという間に消えていきました。この事を大納言平時忠に話すと、波云々・という件は思い当たらないが、国王と言うからには、これは皇子が生まれる目出度い占いだと一致したということですが、「八重の鹽路の波の寄摺」という童子達の歌は、八歳で壇ノ浦で海に沈む皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する内容だったようです。
また、一条戻橋は、かつて、安部晴明が天文を極め十二神将使役しましたが、彼の妻が識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将を橋の下に呪し置いて、必要な時に召喚していたとし、吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神が人の口に移って善悪を示したということから、十二人の童子達とは、十二神将の化身だったのだろうと伝えています。




以上のような伝説は古くから知られていたようで、一条戻橋に関しては、『都名所図会』、『山州名跡志』、『雍州府志』等の江戸時代の京都案内にも必ず掲載されています。

例えば、『都名所図会』は、「戻り橋は一条通の堀川の上にあり、安倍晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ。世の人吉兆を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。(源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に辻占を間給ふとなん)又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遭ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、神祇を祷り、遂に呪力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、 父清行忽蘇生す。浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり」と、これまで掲載したような内容を記し、また「婚礼の輿入、この橋を通るを嫌ふは、橋の名によりてなり。又旅立、人にものを貸時通るは、これに反すとやいふべき」と、婚礼の輿入の際は、出戻りを嫌って橋を渡らないこと、また逆に、旅行に行く時や、他人に物を貸した際は、戻ってくるように戻橋を通った方が良いとされていたことを記しています。


『山州名跡志』巻十七(洛陽)は、「戻橋 在一條通堀河上、渡二東西、此洛の名橋也、傳云、安陪晴明十二神を呪置處也、神社考曰く 晴明役二使す十二神将を 妻畏し職神の形を、因て呪し以て置く二十二神を干、一条の橋の下に一有る事時は喚て而使ふ之を、自是世の人占ふ吉凶を干橋の邉に則神必す託す人以告ると云ふ、又云ふ三善の清行死す、子浄蔵祈て之を干一条の橋の下に而清行蘇生す、故に世の人号の云ふ反橋云々、愚按、晴明使神を此所に呪し住すむるは、其居所に近き故ならん歟、其居一條堀河の西二町の所也、今猶晴明町と云ふなり、夜陰此橋の邊に立て、往反の詞を聞て占問こと古今の例にして感應嚴重也、治承二年十一月十二日寅の時より中宮御難産なり、此橋の東の爪に車を立て占を聞れん事載す源平盛衰記、又恵心の僧都西方往生の得否を、此橋に占とへる事載す念仏三心要集に、又法然上人の弟子西山上人出家の事を母此橋に占とふ事載す證空ノ伝記 古老の曰く、右此橋は晴明所なり二呪封する也、橋の邉の土中一丈許り下に如そ櫃畳石を為す蓋あり、先年就く洪水に一漸見はる、皆以為れ恐れを覆ふと土を云々」と記しています。

こちらも、これまで記載した内容との重複が多いですが、晴明が十二神を戻橋の下に隠していたのは、屋敷から近いからだろうと記し、また、洪水によって、戻橋の下の土の中から蓋をした櫃が露出したことがあって、皆恐れて埋めたことを記載しているのが興味深いです。また、恵心僧都源信の西方往生の得否、西山上人證空(証空)の母が少年時代の上人が出家すべきか戻橋で橋占を行ったというのも注目されます。



さらに、一条戻橋といえば、渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治の話が有名で、屋代本『平家物語』(剣巻)は、初めに鬼の正体を説明し、その後、渡辺綱と鬼との対決を描いています。

尚、鬼の正体は、「丑の刻参り」の伝承例として知られ、謡曲「鉄輪」にも登場する「宇治の橋姫」で、他にも多くの伝説に登場する有名な鬼女です。原文も掲載しようとしたのですが、字数オーバーなので、「宇治の橋姫」の誕生シーンは訳のみとさせていただきます・・・


嵯峨天皇の時代に、ある公卿の娘がいました。非常に嫉妬深く、貴船神社に詣でて七日間籠って祈るには、「貴船大明神さま、七日間籠もったあかつきには、私を生きながら鬼神にしてください。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈りました。貴船明神は哀れと思って、「そなたが言うことはまことに可哀想だ。本当に鬼になりたいのであれば、姿を変えて、宇治川に行って二十一日間漬るのだ。」とお告げがありました。
女房は喜んで都に帰り、人のいない場所に籠って、長い髪を五つに分けて五つの角にし、顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を頭に戴せて三つの足には松の木を燃やし、松明を咥えて両端に火を付け、夜更けに人がいなくなった後、大和大路へ走り出で南へ向かいましたが、頭から五つの火が燃え上り、眉太く、歯を黒く染め、顔も体も赤く、まさに鬼の姿で、この姿を見た人は、皆衝撃を受けて倒れ死んでしまいました。このような姿で宇治川に行って二十一日漬ると、貴船神社の計らいで、生きながら鬼となりました。宇治の橋姫と言われるのはこの鬼のことです。
さて、妬しと思う女やその関係者、自分を嫌う男の親類等、さらに身分の上下をも問わず、男女に関係なく思うままに誰でも取り殺しました。男を取り殺すときは女に変身し、女を取り殺すときは男に変じて人を取るのでした。京の都中の身分の高い者から低い者まで、日没の午後四時頃以降は、人を家に入れず出る事も無く、門を閉じるようになりました。



(次回は渡辺綱と鬼(宇治の橋姫)の対決シーンからです)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

今回は、前回の深泥池地蔵から数十メートル北にある貴船神社(京都市北区上賀茂本山町)について書いてみます。この神社は、通称、「深泥池貴船神社」と呼ばれ、境内には、京漬物として有名な「すぐき」の神様である秋葉社を祀ります。
(尚、総本社貴船神社に対し、分社として「船」では無く「舩」の字を用いて、「貴舩神社」とするのが正式名ということですが、記載に当っては、「貴船」で統一させていただきます。)


さて、深泥池の西を走る旧鞍馬街道は、平安時代の保元二年(1157)に、京の六地蔵の一つ、御菩薩池地蔵(深泥池地蔵 みどろがいけじぞう 現鞍馬口地蔵)が祀られ、室町時代には関所が置かれるなど、洛中への重要な出入り口の一つでした。
旧鞍馬街道沿いにある今回の深泥池の貴船神社は、左京区鞍馬山麓の貴船に鎮座する貴船神社の分社の一つで、本社と同じ高龗神(たかおかみのかみ)を祀ります。

全国にある貴船神社の総本社、貴布祢総本宮・貴船神社(左京区鞍馬貴船町)は、平安遷都より、皇居の御用水と人々の生活用水や農業用水である賀茂川の水源にあたる所から、水を司る祭神の高龗神(深泥池貴船神社の由緒書きには川上神(弥都波能売神(みずはのめのかみ))も祀るとしています)への朝野の尊崇が篤く、洛中からの参詣が絶えなかったと伝わります。

そして、農業に欠かせない雨水を司る龍神でもある高龗神は、この上賀茂でも古くから農民達に信仰されてきましたが、本宮への参詣が遠くて大変だったことから、江戸時代の寛文年間(1660〜70)頃の十月二十三日に、地元の農民が祭神を勧請して、街道筋の当地に分社として祀ったのが今回の貴船神社になります。以来、農耕をはじめ、地域住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されて現在に至ります。

境内には、正面の高台上に秋葉神社(以下に書いてみます)と忠魂碑があり、本殿の背後には末社の弁天社、その脇の石段上に役行者像、他に「北区区民の誇りの木」に選ばれた大杉(高さ約三十メートル、幹周約三.八四メートル)等があります。また、例祭は十月二十三日です。


さて、境内には秋葉神社が祀られています。
平成四年(1992)一月七日に、貴船神社の境内末社としてこの地に再建された神社ですが、その縁起を記した石碑によると、京漬物として知られる「すぐき」の神様ということです。

縁起によると、昔、みぞろ池(深泥池)周辺は、七つ森七軒村といわれる森の多い地で、一番森を「消し山」と称して、千二百年前から火伏せの神(秋葉神社)を祀っていましたが、この社が神仏混交であったことから、明治の廃仏毀釈令で、賀茂社(上賀茂神社)の社家が社を打ち壊してしまったということです。そして、翌明治二年(1870)三月、社の修復を怠ったためか、深泥池村に大火が発生し、家財農具も一切が消失するという悲劇が村を襲いました。

失意の村人達が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも漬物桶だけが焼けながらも、中身が焼け残っていたということです。疲労と空腹に耐えていた人々が、その漬物を開けると、火が入っていい匂いがするとして、村長が漬物の茎を一本試食しました。そして、「酸い茎や(すいくき・・すぐき)」と言いました・・これが「すぐき」の発祥の歴史と石碑は記しています。
(上賀茂のごく限られた地域で作られている「すぐき」の起源に関しては、文献は無く、地元住民の口伝しか情報は無いということなので、これも、地元の伝承の一つなのでしょう)

石碑は続けて・・火の神の秋葉神社の神が、人々を罰すると共に、反省を求めて、生命の根源でもある酵素の漬物(すぐきは、日本では極めて少ない乳酸発酵漬物で、日本で唯一の全く人工的な味付け調味の無い自然漬物といわれ、美容や健康にも良いです。)を恵み賜ったのですと記しています。
そして、平成四年(1992)に再建された現在の秋葉神社は、「すぐきの神様」として、業界関係者の信仰も集めているようです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

京都では、「京都六地蔵巡り」といって、毎年八月二十二、二十三日に、市内周辺の六ヶ所のお寺に祀られている六体の地蔵菩薩像を巡って、無病息災や家内安全等を祈願して参拝する風習が残っています。そして、参詣者は、六つの寺で頂いた六色の御幡を家の入り口に吊るし護符とします。
今回は、この六地蔵の中には入らないものの、六地蔵に関係する一体の地蔵菩薩像を採り上げました。


少し六地蔵について確認してみます・・
六地蔵については、これまでに何度か書きましたが、平安時代初期に、歌人の小野篁が一度息絶えて冥土に行き、そこで生身の地蔵菩薩を拝して甦った後、一木から刻んだと伝わる六体の地蔵菩薩像のことです。
その後、保元二年(1157)、後白河天皇が平清盛に命じて、京都に疫病が侵入しないようにと祈願させ、清盛は西光法師に命じて、京都周辺の交通要所の六ヶ所に一体ずつ地蔵を安置させたと伝えられます。

『源平盛衰記』(巻六)によると、都の周辺の諸街道の入り口に、六体の地蔵菩薩像を安置して、廻り地蔵と名付けたと記しています・・「西光も先世の業に依てこそ角は有りつらめども、後生は去とも憑しき方あり、当初難(レ)有願を発せり、七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を造奉り、卒都婆の上に道場を構て、大悲の尊像を居奉り、廻り地蔵と名て七箇所に安置して云・・・加様に発願して造立安置す、四宮河原、木幡の里、造道、西七条、蓮台野、みぞろ池、西坂本、是也。」
この『源平盛衰記』の記す各所は、四宮河原は東海道、木幡の里は奈良街道、造道は鳥羽街道、西七条は山陰街道、蓮台野は周山街道、みぞろ池は鞍馬街道に相当しますが、西坂本については、史実としては不明で、祀られたとすればその後廃絶したとも考えられます。また、江戸時代初期に現在の六地蔵に定着する以前は、資料が少なく詳細は不明ですが、他にも地蔵菩薩を祀っていた場所があったとも考えられます。


現在の六地蔵です・・

○鳥羽地蔵(浄禅寺)(南区上鳥羽岩ノ本町・旧大坂街道)

○伏見地蔵(大善寺)(伏見区桃山町西山・旧奈良街道)

○山科地蔵(徳林庵)(山科区四ノ宮泉水町・旧東海道)

○桂地蔵(地蔵寺)(西京区桂春日町・旧山陰街道)

○常盤地蔵(源光寺)(右京区常盤馬塚町・旧周山街道)

○鞍馬口地蔵(上善寺)(北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町・旧鞍馬街道)

これら六地蔵の中で、鞍馬口地蔵(上善寺)は、明治時代までは深泥池(御菩薩池)の傍の地蔵堂に祀られていた地蔵菩薩像が、上善寺に移されたものです。
そして、今回採り上げた深泥池地蔵(京都市北区上賀茂深泥池町)は、その旧地に再興された地蔵菩薩像になります。(以下、地蔵堂の掲示板から引用)



さて、深泥池の傍、旧鞍馬街道沿いに祀られた地蔵菩薩は、江戸時代に地蔵めぐりが定着すると、霊場の一つとして信仰を集めましたようです。
八尺(約二百四十センチ)程の立像でしたが、明治元年(1869)の廃仏毀釈のために法難に遭い、この地が上賀茂神社の神領だったため、神仏混交禁止の理由から神領の外に追放され、鞍馬街道の出入り口になる寺町の上善寺(現鞍馬口地蔵 京都市北区鞍馬口通寺町東入る上善寺門前町)に祀られることになりました。また、同じ頃、やはり上賀茂神社の神領を理由に、この地にあった宝池寺(現浄福寺(北区上賀茂畔勝町)の前身)も廃寺となり、その仏像等は山を越えた幡枝(左京区岩倉幡枝)の浄念寺に預けられたということです。

その後、深泥池村には守護神がいなくなった為か、明治二年(1869)と十六年(1883)に二度の災火に見舞われましたが、村民の努力により何とか復興することが出来ました。
そして、偶然、京都五条の十念寺経由で、当村の事情を察知した大阪の土木関係西光組から、明治二十八年(1895)五月に、現在の二代目地蔵菩薩が奉納されました。これが、現在の深泥池地蔵で、奇しくも旧地蔵菩薩と同じく小野篁作といわれ、元々は伊勢の海に漂流していたという伝承のある像高六尺三寸(約百八十センチ)の立像です。こうして、信仰厚い村民の努力によって再び地蔵菩薩が村を守ることになり、以後、村に大きな災いは無くなったということです。

地蔵堂の正面には、「たちいでて またたちかえるみぞろ池 とみをゆたかにまもるみ仏」という御詠歌の額が掲げられています。また、当時の村壮大と西光組頭(かしら)との御本体授受に関する書状が本堂右奥に保管され、本地蔵菩薩の台座にも、当時関与した西光組代表者、並びに当村総代の名前が刻まれています。そして、毎年八月二十二、二十三日の地蔵盆には町内の人々によって念仏、御詠歌の奉納が行われるということです。


また、境内には他に、風化した石仏一体(像高一〇〇センチ、幅七〇センチ、厚さ三〇センチ 花崗岩製)があります。鎌倉末期から南北朝頃の造立で弥勒菩薩と推定され、首の下に二つに折損した部分を修理した形跡があるようです。

元々、この北区上賀茂深泥池町付近は、深泥池が御菩薩池と呼ばれたように、「御菩薩」とも呼ばれ、行基伝説や弥勒信仰など、古い伝承が多い土地でもあったようです。
そして、かつては地蔵堂の前に全部で七体の石仏群(現在の弥勒菩薩の他に、釈迦如来、文殊菩薩、薬師如来、金剛界大如来、延命地蔵菩薩、勢至菩薩の六体)が祀られていたようですが、敗色濃い昭和十九年(1944)頃、一部の町内役員が防空壕の設置を理由として六体の石仏を移動させ、以来、現在まで行方不明になってしまい、現在のように一体のみとなってしまったということです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

今年も、大田神社(京都市北区上賀茂本山)のカキツバタが満開の時期を迎えています。
大田神社のカキツバタ群落は、個人的に、京都の花の名所の中でも大好きな場所一つですが、このブログのパート1に以前に掲載しているので、重複を避けて、今回は大田神社の背後にある、「大田の小径(おおたのこみち)」について書いてみます。

「大田の小径(おおたのこみち)」は、地元の上賀茂地区の住民によって整備された全長約七百五十メートルの散策路で、平成十七年(2005)に完成しました。
観光客向きと言うよりは、地元の人を中心とした憩いの散歩道といった雰囲気ではありますが、所要時間三十分程度の距離なので、大田神社を訪れたついでに、ちょっと寄り道しても良いかもしれません。


さて、大田神社の境内西側に、「大田の小径」の標識があるので、標識に従って歩いていくと、神社の北側にある神宮寺山方面へと細い山道が続いています。五月には山道の周囲にヤマツツジが一斉に花を咲かせますが、秋の散歩も気持ちが良いかもしれません。
山道は、途中「小池方面」へと道が分かれますが、そのまま、両側にロープが張られた登り道を進みます。やがて、丘の頂付近に東山の見える眺望の良い場所があり、また、北山の京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース・小池方面や南の市街地が眺められる休憩場所も整備されています。その後、道は直ぐに下りとなり、北山杉の林を抜けると「岡本口」という東の散策路出口に出ます。
ここからは西は、ブライダルやレストランで知られる愛染倉(AZEKURA あぜくら)の北側の竹林のある平坦な道路を進むと、大田神社の境内のすぐ上に到着します。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事