京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2010年05月

← 2010年4月 | 2010年6月 →

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

以前、このブログに白峯神宮(京都市上京区今出川通り堀川東入ル飛鳥井町)を採り上げました。明治時代に創建された白峯神宮は、第七五代崇徳天皇、第四十七代淳仁天皇という悲劇的な生涯を送った二人の天皇を祀る神社ですが、今回は白峯神宮が奉仕する、花街として有名な祇園にある「崇徳天皇御廟」についてです。(尚、崇徳天皇の生涯については、白峯神宮を採り上げた際に書きましたので、今回は省略します。)


東山区の東大路通の東山安井交差点から安井北門通へと左折し、一筋目の万寿小路を数十メートル北上すると、祇園花見小路甲部歌舞錬場の東(裏側)に出ます。今回の「崇徳天皇御廟」は、この歌舞錬場の裏手に植えられた楠の巨木の根元に祀られています。
直ぐ西の花見小路通には、歌舞錬場の南にWINS京都(場外馬券売場)があり、週末は周辺が大変混雑しますが、その一筋東にひっそりと祀られている御廟があることを知らない人も多いようです。



さて、『保元物語』等によると、「保元の乱」に敗れて讃岐に流された崇徳上皇は、松山の御堂を経て志度郡直島の御在所に軟禁され、その後、鼓岡(鼓ケ岡)に御所を設けて移りましたが、この間、上皇は仏教に深く傾倒したということです。そして、五部の大乗経を血書して、鳥羽の安楽寿院に奉納して欲しいと仁和寺を通じて朝廷に提出し、京都への還幸を願いましたが、朝廷では、小納言藤原信西が、呪詛の意図からかもしれないと進言して、結局、朝廷は奉納を拒絶し送り返してしまいました。
これに激怒した上皇は、以後、爪も髪も切らず形相凄まじく生きながら天狗になったといわれる程だったと伝わります。こうして、憤怒の気持ちを抱いたまま、上皇は九年間の流刑生活の後、長寛二年(1164)八月二十六日に四十六歳で崩御し、九月十八日、遺体は五色台白峰山に移されて火葬にされ白峯山陵に埋葬されました。

その後、京都では、上皇の寵愛厚かった阿波内侍が、遺髪を請い受けて邸内に、一塚を築いて亡き上皇の霊を慰めたとも伝承されています。 


また、その後、京都では上皇の怨念による祟りによって、飢饉等の異変や戦乱が相次いで発生したことから、治承元年(1177)七月二十九日に、讃岐院と呼ばれていた上皇に崇徳院の謚号を奉り、同じく「保元の乱」の首謀者で、祟りをなしたと考えられた故左大臣藤原頼長に、正一位太政大臣を贈っています。
さらに、『史料綜覧』から引用すると、寿永二年(1183)十二月二十九日、後白河法皇が、崇徳上皇と藤原頼長の霊の鎮魂のため、両者の霊を祀る祠を、鴨川の東、春日河原に創建し、寿永三年(1184 四月十六日に元暦元年に改元)四月十五日に、両者の霊を春日河原の社殿に遷宮させたということです。
『保元物語』にも「その昔に合戦があった大炊御門の末の御所跡に社を作って崇徳院を祀り、左大臣殿にも贈官贈位を行った。・・ご墓所に向かって、太政大臣正一位の位記を読んだ・・」とあります。『大日本史料』の『歴代編年集成』にも同様の記載があり、四月十五日に、崇徳上皇を祀る社殿を、上皇の旧御所で、保元の乱の戦場となった白河北殿跡地(白川中御門末北河原)に社殿を建立したとしています。


この「保元の乱」の戦場となった白河北殿の位置は、『保元物語(上巻)』に「白河殿より北、河原より東、春日の末にありければ北殿という」、とあり、現在の地理に置き換えると、当時の白河殿の北の境界線、現竹屋町通(東竹屋町通)より北で、鴨川の東、現丸太町通(春日)の末=洛中から見て鴨川の向こう側)に沿った区域となります。これは、ほぼ、現在の京都大学熊野寮付近(左京区丸太町通東大路西入る南側東竹屋町)から丸太町通を跨いで現熊野神社の西側付近に相当すると考えられ、現在、熊野寮付近に北河北殿跡を示す石標があります。
そして、崇徳上皇や藤原頼長を祀った社殿は、『源平盛衰記』に、「(社殿を建てた場所として)春日が末の北、河原の東也、此所は大炊殿の跡先年の戦場也」とあり、白河北殿の北側にあったようです・・・これが、中世を通じて、粟田宮と呼ばれた神社になります。
粟田宮に関しては、当時の諸資料にその名前が出てきますので、以下にその歴史を少し書いておきます。


(尚、藤原頼長については、その後、どのように祀られたかは不明ですが、この白河北殿跡地になる京都都大学熊野寮の南西付近には、古くから頼長の首塚、墓と伝承され、「桜塚」と呼ばれていた塚がありました。この塚は、明治二十年(1887)以降、この地の紡績会社の拡張工事によって塚自体は壊され、塚上の五輪石塔のみが相国寺に移されましたが、これが、現在、相国寺墓地にある藤原頼長の墓(首塚)です。あくまで推測ですが、北河北殿跡に崇徳上皇と合わせて頼長を祀ったという記載と関係があるのかもしれません。)



その後の粟田宮についてです・・・
『大日本史料(『師守記』、『玉葉』、『吾妻鏡』、『歴代編年集成』等から)』を参照すると、建久三年(1192)十一月十六日に、崇徳院を祀る粟田宮で初めて祭日を定め祭事を行ったとあり、翌建久四年(1193)正月五日に奉幣、八月に祭事が行われて、以後、継続して行われていたようです。また、この頃には、上皇の御影を祀る御影堂も粟田宮内に建立されていたようで、承元四年(1210)に、崇徳院御影堂が、同領の地頭職の罷免を幕府に求めています。

その後、粟田宮は、度々氾濫した鴨川の影響で、何度も水害、また焼失に遭いますが、その都度再建されたようです・・・嘉禎三年(1237)四月二十七日には、洪水発生の恐れから、粟田宮は、鴨川から遠い東側へと遷座しています。また、康元元年(1256)九月五日には火災に遭って焼失し、弘長元年(1261)七月十日には、洪水によって粟田宮の周囲の土塀が崩壊しています。建武元年(1334)にも焼失し、文和三年(1354)に再建されました。

また、正嘉元年(1257)正月八日には、土御門天皇の皇子・尊助法親王が崇徳院御影堂の検校に、暦応二年(1339)八月六日には、北朝の伏見天皇の皇子・入道尊円親王が崇徳院御影堂と粟田宮検校に任命されるなど、同様の記載が多く見受けられることから、中世を通じて栄えていたことが伺われます。また、暦応三年(1340)三月十八日には、足利尊氏が上奏して、崇徳院の粟田宮の例に倣って、前年に崩御した後醍醐天皇の祟りを恐れその霊を祀ることを請うているのが注目されます。
粟田宮は、その後、室町中期頃まで存続しますが、応仁元年(1467)に焼亡して以後は、荒廃してしまったようです。 

(尚、明治時代まで、粟田宮の跡地と考えられる現京都大学医学部付属病院敷地に祀られていた「人喰い地蔵(すとく地蔵が訛ったもの)」については、ブログの積善院凖提堂の項に写真を掲載しています。)




さて、その後、明応六年(1497)、現在の東山安井にあった光明院の住持・幸盛上人が御土御門天皇の綸旨により「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興しました。場所の記載はありませんが、その後の経過から、これが現在の祇園万寿小路の「崇徳天皇御廟」であると考えられています。
ただ、後白河法皇が創建した粟田宮の後進が、現在の「崇徳天皇御廟」なのかどうかは、実際のところは不明です。

元々、この光明院は、崇徳院の寵妃だった阿波内侍が居住していた邸宅跡でもあったとも伝えられ、上記したように、阿波内侍は上皇の遺髪を請い受けて邸内に一塚を築き、亡き上皇の霊を慰めていたという伝承もあることから、阿波内侍の邸宅内の塚が、現在の「崇徳天皇御廟」になった可能性もあります。
(歴史資料に基づかないのが粟田宮より弱い点ですが、崇徳上皇を祀る施設が、阿波内侍はともかく、上皇の関係者等によって(怨霊神として広く知られるようになったこともあり)、洛中に複数設けられた可能性もあり、地理的な連続性では可能性が高いともいえます)、



少し、光明院について補足しておきます・・・

かつて、光明院の鎮守社だった安井金比羅宮の伝承によると、元々この地には天智天皇の時代(668〜71)に、藤原鎌足が家門隆昌と子孫長久を祈願して藤の木を植え、藤寺と称した寺院があり、その後、聖武天皇の時代(724〜48)に詔勅により堂塔を増築し、「観勝寺」と改名したと伝えます。
そして、崇徳天皇は、特に藤の花を愛し、上皇となった久安二年(1146)、堂塔の一部を館に修造して、寵愛する阿波内侍(烏丸殿)を住まわせ御幸していましたが、上皇は「保元の乱」に敗れ讃岐へ流され、長寛二年(1164)にその地で崩御しました。残された阿波内侍は、観勝寺の観音堂に上皇の御尊影を祀り、出家剃髪して仏種尼と称し、帝の菩提を弔ったと言うことです。

その後、上皇の霊がこの地に現れ、毎夜、光を放ったため、人々は恐れて光堂と呼ばれる御堂を建てて霊を祀っていましたが、治承元年(1177)、真言宗の大円法師が観勝寺に参詣したところ、崇徳帝の霊が現われたので、これに恐懼した大円法師は、直ちに奏上して後白河法王の詔を蒙り、崇徳院を厚く奉るための神殿を建造し、「光明院観勝寺」と称したということです。(亀山上皇の時代(1259〜73)とも)そして、建治年間(1275〜77)に建立された、観勝寺内の鎮守社が、安井金比羅宮の起こりとされます。その後、鎌倉時代には亀山天皇が社殿を改修し、道尊宮を蓮華法院門跡、神社の別当として以降八世の間、法嗣を継承したということですが、応仁の乱の兵火に遭って光明院観勝寺も衰退しました。その後、江戸時代になって、後水尾天皇の勅願により、性演僧正が入寺し寺社を再興したということです。



さて、元禄八年(1695)、太秦にあった門跡寺院の蓮華光院(安井門跡)がこの地に移転し、光明院(及び鎮守社)は門跡の下に入りました。また、この時、鎮守社の別当・道恕が、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮大権現より勧請した大物主神と源頼政を相殿に祀ったことから、この鎮守社は、いつしか安井金比羅宮と呼ばれるようになりました。『山州名跡志(正徳元年(1711)刊)』は、当時、「崇徳院の宮」が仏殿の南に東面してあり、崇徳天皇の額と堯海作という二尺余の衣冠束帯姿の坐像を祀っているとしています。
その後、光明院が廃絶すると、「崇徳天皇御廟」は、南に位置する六波羅普門院(六波羅蜜寺。智積院の末寺となって以降、主に院号の普門院で呼ばれました)の管理下に置かれました。当時の普門院の境内には、崇徳上皇を祀る「崇徳天皇社」、その御影を祀る「御影堂」、「崇徳院御廟所」の石碑があったということです。

そして、明治四年(1871)の神仏分離令により、蓮華光院は廃されて嵯峨大覚寺に吸収合併され、現在地には鎮守社(明治六年に安井神社と改称)のみが残りました。それまで御影堂に祀られていた崇徳天皇も併せて安井神社(戦後、再び「安井金比羅宮」に改称)に祀られました。そして、現在、崇徳天皇に関する遺物としては、白峰神宮と六波羅蜜寺に崇徳天皇御影が残されています。


最後に、現在の「崇徳天皇御廟」についてです。
廟内には、御廟所と刻まれた自然石と、崇徳天皇と刻まれた一.五メートル程の石柱があり、毎月二十一日に、白峯神宮の神職が奉仕し、祇園の女将も参列して崇徳天皇御廟祭が斎行されます。
また、普段は一般の立ち入り出来ない「崇徳天皇御廟」の背後の歌舞練場内には、数十年前までは墳丘があって、丘上には阿波の内侍の墓と伝わる五輪塔が置かれていたようです。この墳丘が元々の崇徳院御廟所址という説もあるようですが、墳丘はその後、整理されて失われてしまったようです。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

先日まで、京都古文化保存協会主催の春の京都非公開文化財特別公開(4月24日〜5月9日)が行われましたが、今回は、建仁寺塔頭の大塔院を採り上げました。
大統院(だいとういん)は大正時代の火事で燃失し、長らく再建に取り組んできました。そして、昨年、本堂前庭が完成して復興が成ったために、今回の特別公開となったということです。(内部の写真撮影は禁止)
(以下、「拝観の手引」より引用)


臨済宗建仁寺派大本山・建仁寺の塔頭大統院(京都市東山区大和大路通四条下ル小松町)は、建仁寺山内の南東隅に位置し、南北朝時代に夢想疎石(夢窓国師)の弟子で、建仁寺夢想派の青山慈永(せいざんじえい 仏観禅師 1302〜1369)によって、創建されたと伝えられます。

その後、天文年間(1532〜54)の火災で焼失しますが、安土桃山〜江戸初期の古澗慈稽(こかんじけい)禅師の代に、禅師に帰依し檀越となった長谷川守尚(大統院殿虎峯宗降居士)の発願により再建が始まり、住持九厳中達禅師に帰依した守尚の子・正尚の時代に工事が完成しました。また、その頃、儒者の林羅山が大統院に寓居していたことは勇名です。
その後、大正十三年(1924)秋に出火により表門・唐門の二つを残して焼失し、昭和五年(1930)に本堂のみが再建復興しました。ようやく昭和三十年(1955)頃から復興が始まり、ようやく、平成二十一年(2009)三月から本堂前庭を作庭して寺観を整えました。


さて、本堂では、寺宝の掛け軸や陶磁器など七十八点が展示されています。

まず、陶磁器では京焼の歴史に順じ「京焼清水焼先駆者展」と題して、桃山時代にはじまり、江戸の享保時代に清水五条で焼かれた古清水(こきよみず)と呼ばれた作品、三条粟田口で焼かれた粟田焼(あわたやき)、野々村仁清(ののむらにんせい)や尾形乾山(おがたけんざん)、五条坂で開窯した清水六兵衛(きよいずろくべい)、幕末の名工と呼ばれる永楽保全(えいらくほぜん)や青木木米(あおきもくべい)、仁阿弥道八(にんあみどうはち)以降、京焼清水焼発祥の地・五条坂に住して開窯し、明治・大正・昭和の陶業の発展に携わった陶工、名工と呼ばれる人々の作品が展示されました。

特に注目されるのが、江戸時代末期の陶芸家・奥田頴川(おくだえいせん)作の「赤絵十二支四神鏡文皿(あかえじゅうにししじんきょうもんざら)」(国指定重要美術品)です。

奥田頴川(1753〜1811)は、養子先の京都の質商を継ぎますが、商売は番頭らに任せて諸芸に没頭し、三十代後半で家督を子に譲って隠居しました。頴川は、三十歳頃から建仁寺山内の清住院で製陶を始めたといわれ、中国明時代の赤絵磁器の焼成に成功し、京焼磁器の祖、先駆者といわれています。
展示されている「赤絵十二支四神鏡文皿)は、磁器で造った円形の皿を中国の青銅器の鏡に見立てて、後漢時代に造られた倣古鏡の意匠文様を採用して絵付けされたたいへん美しい陶皿です。
その他数点の頴川の作が展示されましたが、作品の多くが、その死後菩提寺の建仁寺に奉納されたといわれ、建仁寺塔頭ならではの展示物といえるでしょう。


さて、掛け軸数点も展示されましたが、その一つに「雪嶺永瑾像 自賛一幅」(室町時代)があります。
雪嶺永瑾(せつれいえいきん)は、建仁寺の第二百四十五世住持で、その法臑嗣法弟の中には文筆僧が多く雪嶺永瑾禅師から、薫陶を得たといわれています。この画像の賛は、室町時代の永正十七年(1520)に法弟の求めによって、珍しく自ら着賛したもので、画像は狩野派によるものと考えられています。

また、「墨梅図 心田清播賛」(室町時代)は、室町時代の臨済宗五山文学僧として知られる心田清播(1375〜1447)の着賛です。墨梅図は、竹蘭と共に古くから文人に好まれた画題で、日本には、鎌倉時代に請来され、以後、絵師や知識人によって描かれるようになりました。この図は絵師の名前が記されていないのが残念ですが、清播の賛によると、絵図の持主は、人里離れた所に暮らしているが、その趣味はひたすら梅を愛でることで、そのためにわざわざ絵師を呼んで描かせたものということです。


そして、より一般的に興味を惹きそうなのが、円山応挙筆「幽霊図」です。
江戸中期の画家として知られる円山応挙(1733〜95)は、京都丹波で生まれ、狩野派の石田幽汀(いしだゆうてい 1721〜86)に画を学びました。幽汀は、琳派の装飾性に加え、写生的技法を取り入れた画風で知られ、若き応挙に影響を与えました。そして、その後、応挙は写生を重視する新しい画風を開き、円山派の祖と呼ばれるようになりました。

さて、幽霊画とは亡くなった人、死人の霊の姿を現したものですが、応挙がある僧に「幽霊とは?」と問うと、その幾つかの定義の中に「幽霊には足が無い」と言う一節がありました。そこで、応挙は足の無い幽霊画を描きましたが、以後、幽霊には足が描かれなくなったと言われています。
この画は、「四方睨み」で、どこから見ても目が合う画法で描かれていて、贋作の多い応挙の幽霊画中で、数少ない真筆ということです。また、寛政庚戌(寛政二年1790)と記されていることから、応挙晩年の作と判ります。
(尚、この幽霊画は、元々、上京区の千本出水の玉蔵院(ブログパート1に掲載しています)に所蔵され、「出水の七不思議」の一つとされていたものでしたが、数十年前から行方不明になっていました。これが今回の大統院で発見されたということです。)

その他、独特のユーモラスな画風で人気の白隠慧鶴(1685〜1768)の、蛤蜊から観音菩薩が出てくる姿を描いた「蛤蜊観音図」や、円山派の画家で上村松園の師でもあった鈴木松年(1848〜1918)の「髑髏(どくろ)図」等が展示されました。


最後に、昨年に完成した本堂前庭は、建仁寺や建仁寺派の高台寺の御用達で、愛知万博の日本庭園、山梨県久保田一竹美術館の庭園を手がけた国際的な庭師として活躍する庭匠凮玄こと北山安夫氏によって作庭され、建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されました。
ツツジの築山を背景に、白砂と苔を大きな市松模様にした庭園で、有名な東福寺の.重森三玲作の方丈庭園を見た目で見ると、やや二番煎じな印象もありますが、明るい雰囲気のモダンな庭です。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

今回は、京都の街中の小さなお地蔵さんを採り上げました・・歴史ある名所という訳ではありませんが、この地元で大切にされている地蔵菩薩も小さな歴史の証人といえるでしょう。

京都市東山区の花見小路通が、白川の流れに沿った白川北通と交差する辺りの小さな御堂の中にお地蔵さまが安置されています・・これが、「なすあり地蔵菩薩」です。(京都市東山区白川北通道花見小路南東角中之町)


掲示板から引用してみます・・
「なすあり地蔵」という名前は、この白川に沿った道(白川北通)が平成十年(1998)に前面改修されて、「なすありの径(みち)」と命名されたからですが、もう一つの由来は、昭和二十九年(1954)に、京都市水道局が花見小路通の水道管工事をした時に、このお地蔵さまが白川の川底から掘り出されたことによります・・・もしかしたら、何百年もの間、水底の土中にあったのかもしれません。

「なすあり」とは、地元有済小学校の「有済」を逆さに読んだもので、中国古代の歴史書「書経」に記されている言葉です。意味は、「耐えて忍べば済す有り(どんな辛い事に対しても、耐え忍んで努力すれば必ず報われる)」ということで、このお地蔵様が何百年もの間、川底の暗闇でじっと耐え、ようやく日の目を見たことを讃えて名付けられたものということです。

水道工事請け負った故中村幸太郎氏は、このお地蔵さまを是非祀りたいと、八坂神社の四若神興会に相談して、 神興会が小さなお堂を建立しました。それから四十余年歳月を経て、京都市がコミュニティ道路として「なすありの径(みち)」を整備した機会に、このお地蔵さまを、地元の皆でお守りしようという声が高まり、「なすあり地蔵」と名付けたということです。
現在も、地元の信者有志は、賽銭や寄付金を積み立てて、いつかより立派なお堂を再建させようと頑張っておられるようです。 

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

京都市東山区の浄土宗総本山・知恩院付近から、小さな寺院の境内に祀られている天満宮社を採り上げます。

東大路通にある市バス・知恩院前バス停付近から、知恩院の古門を抜け、華頂短期大学の脇を通って知恩院に向かう整備された道は、「華頂通」と呼ばれていますが、今回の松宿院(松風天満宮)は、知恩院古門を抜けて華頂通に入った直ぐ左にあります。(京都市東山区新橋通大和大路東入る三丁目林下町)


松風天満宮(しょうふうてんまんぐう まつかぜてんまんぐう)は、正しくは、松宿院(しょうしゅくいん)という知恩院山内の塔頭寺院で、太田垣蓮月で知られる太田垣家の菩提寺でもあり、知恩院墓地にある太田垣家の墓を管理しています。

松風天満宮(松宿院)の創建についてです・・江戸時代の寛永十年(1633)の火災で知恩院が一部を除いて焼失した後、寛永年間(1624〜44)中の知恩院再建に尽くして、中興となった第三十二世・松風霊巖大僧正(雄譽霊巌 1554〜1641 松風は号)は、平安時代末期の歌人・西行法師が筑紫国観世音寺で感得した天神尊像を知恩院大伽藍に安置し、その再建を祈願していました。そして、再建後に当地にこの天神像を移して創建したものと伝えられます。尚、松風天満宮の「松風(しょうふう)」は、霊巌大僧正の号に由来し、「松宿院」も、「松風(しょうふう)の宿」から採られています。

以来、学文・技芸向上、家門繁栄、諸縁円満、諸願成就にご利益のある社として、「松風天満宮・松宿院」と呼ばれるようになり、現在も寺院でありながら初天神を行うなど神仏習合時代の風習を残しているということです。
また、天満宮の祠の正面右側には、天満宮の北東に位置する善光寺別院・得浄明院(戒壇めぐりと一初観賞会で知られます。ブログパート1に掲載)から預かる久邇宮家の天神像を合祀しています。

さて、祠前の黄色い陶器製の珍しい狛犬像は、全国の狛犬を調査した龍谷大学教授・小寺慶昭先生の著書「京都狛犬巡り」の中で、京都府下で一番恐ろしい面構えであると紹介されました・・以来、怖いもの見たさに訪れる狛犬ファンもいるようです。(天満宮の参拝は自由ですが、小さな寺院内ですので、出来ればお寺の方に断って参拝した方が良いでしょう)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

京都市北区の鷹峰や玄琢から、尺八池や京都ゴルフ倶楽部北山コースの傍を抜けて氷室道と呼ばれる山間の小道を北上すると、分岐点らしき地点に小さな神社があります・・これが秋葉神社です(京都市北区大宮釈迦谷)また、神社の背後は秋葉山と呼ばれ、この付近は、北の船山と南の釈迦谷山の間に位置し、京都の市街地から北山北部の氷室や杉坂等へ続くトレイルコースの出入り口の一つです。

秋葉神社の由緒は不明ですが、祭神は、元々は秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)と推測されます。(現在、本殿中央に「秋葉神社修行場開祖 太田春弘先生の霊位」が祀られています。)
秋葉三尺坊大権現とは、赤石山脈の最南端に位置する秋葉山(静岡県浜松市天竜区)の山頂に鎮座する火伏の神で、秋葉山の山岳信仰を起源にして、信州出身の修験道の行者という説もある三尺坊をその没後に大権現として祀ったものとされます。特に、江戸時代の元禄時代頃から、秋葉信仰は全国的に大流行し、秋葉山山頂の秋葉寺に詣でる「秋葉詣」が盛んになり、全国各地に秋葉社が勧請されました。そして、その勢いを恐れた徳川幕府は貞享二年(1685)に禁令を出したほどだったと伝わります。
今回の秋葉神社は、この地の修験者が秋葉山の麓に祀ったもので、山の神社らしい荒れた雰囲気が漂っています。


また、その手前にある尺八池の付近には、小さな松龍弁財天が祀られています。
尺八池は、若狭川(京見峠を源流に、船山、尺八池を経て賀茂川へと流れます)を堰き止めた灌漑池ですが、かつてこの付近は、栗栖野と呼ばれ、『続日本後紀』には、淳和天皇が天長十年(833)九月二十五日に、この地にあった綿子池(わたごいけ)に遊猟し隼を放ったという記述があります。
(戊寅。天皇幸栗栖野遊獵。右大臣清原眞人夏野在御輿前。勅令着笠。便幸綿子池。令神祇少副正六位上大中臣朝臣磯守。放所調養隼拂水禽。仙輿臨覽而樂之。日暮還宮。賜扈從者祿)
また、貞観年間(859〜77)初期に、この栗栖野・紫竹一帯が水害に遭いましたが、これは綿子池の氾濫によると考えられているということです。
現在の尺八池は、この綿子池を補修したものといわれ、松龍弁財天は、「尺八開運松龍弁財天」の石標から、尺八池の水利守護のため水神を祀ったものと推測されます。

全3ページ

[1] [2] [3]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事