京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、京都市北区西賀茂を代表する神社、大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ)です。(数年前にブログパート1に少しだけ掲載しましたが、整理して書き改めます。)

大将軍神社(だいしょうぐんじんじゃ 京都市北区西賀茂角社町、市バス神光院前下車直ぐ)は、西賀茂地域の産土神(氏神)で、本殿に主祭神・磐長姫命(いわながひめのみこと)とその家族神四神を祀ります。普段は訪れる人も少ないですが、無病息災・延命長寿をはじめ、方除・良縁・安産・招福等々にご利益がある神社として地元を中心に信仰されています。


さて、神社案内板によると、神社の創建は、推古天皇十七年(609)、この西賀茂にあった官衙の瓦窯である瓦屋寺の鎮守社として建立されたと伝えられます。その後の平安時代には、木工療に属した瓦屋がこの付近に多かったとされることから、工人達の鎮守神だったのかもしれません。
また、桓武天皇の平安遷都の際、都の四囲に四つの大将軍神社を祀りましたが、当神社はその一つで、北方の守護神だったとされます。以来、現在までこの地の氏神として祀られ、寿命長寿の神、方除けの神として信仰されています。


尚、独立した大将軍神社は現在、京都市内に三つあり、今宮神社や藤森神社の境内にも末社として祀られています。また、かつては八坂神社の境内にも大将軍神社があったとも伝えられ、江戸時代中期に出版された「和漢三才図会」によると、「東は岡崎(左京区)、西は紙屋川(上京区)、北は紫野大徳寺の門前、南は現在所在不明)」と記されているようですが、この位置関係も現在の各神社の位置とは異なっています。


北方・・・・・・・ 北区西賀茂の大将軍神社

北方・・・・・・・・北区紫野の今宮神社境内の大将軍神社

西方・・・・・・・・上京区一乗通の大将軍八神社

東方・・・・・・・・東山区東山三条の大将軍神社

南方・・・・・・・・伏見区藤の森神社境内の大将軍神社



さて、現在の本殿は、天正十九年(1591)に造営された上賀茂神社摂社・片岡神社の旧本殿を、寛永六年(1629)の賀茂社造営の際に大将軍神社の氏子が譲り受けたものです。そして、流れ造社殿としては、賀茂上下社(上賀茂、下鴨)の現存する社殿として最も古い建物といわれ、昭和六十年(1985)に、京都市指定文化財に指定されました。(また、本殿と同時期に受領した、天正の年号が刻印された二個の鉄灯篭があり、こられも京都市指定文化財に指定されています。)

また、本殿の左右には九つの末社があります。
東側に、片岡神社(祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ) お祓いの神)、貴船神社(祭神は高龗神(たかおかみのかみ) 水(水難除け)の神)、稲荷神社(祭神は宇気母智神(うけもちのかみ) 商売繁盛の神)、角社(祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと) 疫病(疫病退散)の神)があります。
また、西側には、愛宕神社(祭神は火之迦具神(ほのかぐつちのかみ) 火(火伏せ)の神)、松尾神社(祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ) 醸造の神)、八幡神社(祭神は応神天皇(おうじんてんのう)厄除けの神)、春日神社(祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと) 藤原氏の氏神)、山王神社(祭神は大山咋命(おおやまくいみこと) 山の神)が祀られています。


そして、大将軍神社の境内は、「大将軍神社文化財環境保全地区」として、京都市指定文化財環境保全地区に選ばれています。
これは、大型の一間社流造の本殿(京都市指定有形文化財)や中央馬道(めどう)を矩(かね)折りに通した珍しい形式の割拝殿を中心とした建物と、それらを取り囲む樹木が一体となって、鎮守の森としての景観もよくとどめ、優れた境内環境を形成しているからということです。
(尚、戦後、西賀茂地区は区画整理事業が完成し、農村地区から住宅地区へと発展しましたが、新旧の住民が一体となって、先祖からの伝統を受け継いで、神社を守り続けています。そして、昭和五十六年(1981)に、神社本庁から第三期振興対策指定神社(モデル神社)に指定されたということです。)

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以前、ブログパート1に川上大神宮の「やすらい祭」の写真を掲載しましたが、普段の神社の様子を初めて掲載します。

京都市北区西賀茂南川上町にある川上大神宮(かわかみだいじんぐう)は、元々、上賀茂神社読経所の鎮守社であったともいわれますが、正確な創建由緒は不明です。
祭神は天照皇大神(あまてらすすおおみおおかみ)で、普段は訪れる人も無い小さな神社に過ぎませんが、年に一度の「川上やすらい花(やすらい祭)」の際は、地元の人々が集まって境内が華やぎます。


「やすらい祭」といえば、今宮神社(紫野今宮町)の「やすらい祭」が有名で、「鞍馬の火祭」、「太秦の牛祭(現在は中止中)」と共に京都三大奇祭の一つとして知られています。
「やすらい祭」の起源は、平安時代の正暦五年(994)に、船岡山で疫病を鎮めるために御霊会(ごりょうえ)を行ったことに始まると言われ、神輿に従った民衆達が船岡山に登って踊りやお囃子で病魔退散を願ったと伝わります。この御霊会と、奈良時代から春に行われていた「鎮花祭」とが結びついて「やすらい祭(やすらい花)」が生まれたようです。「鎮花祭」とは花を鎮める祭の意味ですが、春には疫病が流行することから、桜の花びらが飛び散る様子が、疫病神が飛び回る様子を連想して生まれた疫病退散の神事でした。(現在、貴重な平安時代に遡る伝統行事として重要無形文化財に指定されています。)


さて、「やすらい祭」は、紫野上野町(一般に今宮神社のやすらい祭と呼ばれます)の他にも、北区紫野の玄武神社(紫野雲林院町)、今回採り上げた北区西賀茂の川上大神宮社でも行われ、また五月には上賀茂でも行われています。かつては他でも行われていたと考えられますが、現在まで平安時代以来の伝統を受け継いでいるのは以上の四ヶ所です。
川上大神宮でも、古来三月十日に、川上村の村民が鎮花祭の式を当社で行って、その後、町内を巡行して紫野今宮神社まで参行して境内でやすらい踊を行って例祭としていましたが、明治以後は、暦改正により四月十日を例祭日として現在に至ります。


現在行われている四つの「やすらい祭」です・・


四月第二日曜日

○紫野上野町のやすらい祭・・・巡行ルートは光念寺〜今宮神社〜光念寺

○紫野雲林院町のやすらい祭・・・巡行ルートは玄武神社〜氏子地区〜玄武神社

○西賀茂川上(南川上町)のやすらい祭・・・巡行ルートは川上大神宮〜総神社〜今宮神社


五月十五日葵祭の当日

○上賀茂(岡元町)のやすらい祭・・・巡行ルートは岡本やすらい堂〜太田神社〜上賀茂神社〜岡本やすらい堂

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阪急電鉄桂駅西口の南西約三百メートルにある三宮神社(三ノ宮神社 京都市西京区川島玉頭町)は、川島玉頭町周辺地域の鎮守社です。この神社は、川島周辺の神社の中では最も広い境内を持っていて、本殿の傍にある椋の大木は、周囲からも良く見え、地域のシンボルとなっています。


さて、三宮神社(三ノ宮神社)の祭神は、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。
祭神の祖父神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、父神は山幸彦と海幸彦の神話の山幸彦穂穂手見命(やまさちひこほほでみのみこと)、母神は豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)で日向の国で誕生しました。
祭神の命名の由来は、母神が出産する際に産屋が建てられることになり、その産屋は鵜の羽を葺草の代わりに葺いて建てました。ところが、産気が急で屋根を葺き終らないうちに祭神が誕生したことから、「鵜草葺不合=鵜茅葺き合えず」と命名されることになったとされます。尚、鵜草葺不合尊は、成人後、玉依毘売命を妃として四神を授かりましたが、その第四子が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)即ち、後の神武天皇とされます。
また、神社の主なご利益は、縁結び、安産、母乳の出・子育て、入学・就職、厄除け、延命、開運等諸般に霊験あらたかということです。

神社の創建ですが、神社の掲示板には、古老の口碑によるとして、三宮神社は、今から約千二百年前、山城国葛野郡川島村と呼ばれた現在の地を神域として祭神・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を奉祀した旧祠で、末社の白山神社の祭神・白山姫大神(しらやまひめのおおかみ)と共に産土鎮護の守護神であると記しています。また、二百六十余年前の記録によると、平安時代の天長年中(824〜34)に川島村の氏神として勧請したのが創祀と言うことです。
昭和十八年(1943)十二月二十二日に、明治三十九年(1906)の勅令による神饌幣帛料を給付される神社、明治四十一年(1908)の内務省令の会計に関する規定を適応すべき神社に指定されました。その後、本殿の老朽化により、昭和四十三年(1968)二月八日に氏子代表による造営委員会を設立して境内の整備と本殿の造営を計画し、昭和四十四年(1969)十一月三日に現在の荘厳な社殿の竣工となりました。末社として白山神社の他に岩神大明神社を祀ります。


御神木のムクノキは、本殿の直ぐ脇にあり、高さは二十メートル以上、幹周が五メートル以上、樹齢は三百年以上といわれています。京都府の調査によると、ムクの木では京都府下で五番目の大きさということで、平成十七年(2005)三月に京都市指定の保存樹に指定されています。
また、近年は太い枯れ枝が目立つようになったため、京都府の身近な視線環境保全推進事業の助成により、平成十年(1998)三月に枯枝除去、施肥料等の蘇生治療が施されました。

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現在、京都古文化保存協会主催の春の京都非公開文化財特別公開が行われています(4月24日〜5月9日)今回公開されている十四の社寺のから、大徳寺塔頭の玉林院を採り上げました。(内部の写真撮影は禁止)
(以下、「拝観の手引」より引用)

臨済宗大徳寺派大本山・大徳寺の塔頭、玉林院(ぎょくりんいん)は、山内の南西、通常公開されていて観光名所として知られる細川家菩提寺・高桐院の南隣に位置しています。
戦国時代の尼子家家臣として知られる山中鹿之助幸盛ゆかりの寺院としても知られますが、当初は、慶長八年(1603)、後陽成天皇の侍医・曲直瀬正琳(まなせしょうりん)が、月岑宗印(げっしんそういん)禅師を開祖として自身の菩提所として創建されました。

また、創建時は曲直瀬正琳の名前から「正琳院(しょうりんいん)」と称しましたが、その後、慶長十四年(1609)に境内の建物が焼失して元和七年(1621)頃までに大部分の建物が再興された際、「琳」の字を削って、「玉林院」に改めたということです。その後、久留米藩有馬氏や大阪の鴻池家等が檀越となり、鴻池家が先祖の山中鹿之助幸盛の墓を作るなどしたことから、山中鹿之助幸盛ゆかりの寺院ともなりました。


現在の本堂は再建当時のもので、大徳寺の塔頭の中では最も規模が大きく近世初期の方丈建築の代表的な建物です。(国重文指定)客殿(方丈)は、禅宗寺院の客殿らしくに南向きに建てられていますが、通常は六間からなる部屋数が、西側に二間を増やして八間取りの広さがあります。
そして、各部屋の襖には、狩野探幽ら狩野派一門の絵師による七十面の水墨画が描かれていて、その多くが国の重文指定です。尚、本堂は、老朽化により平成十四年(2002)から二十年(2008)まで解体修理が行われました。客殿前の庭は、造成中かと思わせるような平板なもので、特に興味を惹かれるものでは無いようです。

また、襖絵は、何れも寛文九年(1669)のもので、最晩年(六十八歳)の狩野探幽が狩野一門を指揮して描かせたものと考えられています。
最も東側奥にある大書院には、狩野探雪による鶴図で、その手前の礼の間(客人を最初に通す部屋)は、狩野探雪による楼閣山水図です。また、仏間の前の室中(法要が行われます)は、狩野探幽の最後の作でもある山水図、仏間の西、衣鉢の間は、狩野益信による書画図です。また、その手前の檀那の間は、狩野安信による竹林七賢図と四愛図、最も西奥の西衣鉢の間は、狩野益信による琴棋図になります。
尚、その手前の西檀那の間は、元々は、狩野洞春の山水図がありましたが、現在は明治三十五年(1902)に描かれた橋本菱華の花鳥図に改められています。


さて、大徳寺の各塔頭には、個性的な茶室があることで知られていて、特に茶を嗜む人々から注目されていますが、玉林院には、「蓑庵(さあん)」、「霞床席(かすみどこせき)」という二つの有名な茶室があり(他に数席ありますが)、「南明庵(なんめいあん)」と共に、江戸時代中期の寛保二年(1742)に建てられ、これら三つの建物は、国の重要文化財に指定されています。

「南明庵(なんめいあん)」は、大阪の鴻池(こうのいけ)家が玉林院の大竜和尚に帰依し、その祖先にあたる山中鹿之助幸盛の墓を作り、一家の昭堂として建立したものです。(以後、玉林院は鴻池家の菩提寺となりました。)
建物は、単層入母屋造、こけら葺で、庇屋根はローソク桟瓦葺です。また、西の「蓑庵」、東の「霞床席」等と接続して建てられています。内部は六畳敷の仏間からなり、寛保二年(1742)に落成した際に、山中鹿之助幸盛の位牌を祀ります。またその上部には火頭窓を開け、北斗妙見菩薩を祀りますが、山中鹿之助が、常に月や星に「我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという有名な逸話に由来しているようです。また、北斗妙見菩薩が主に日蓮宗で祀られることもあり、大徳寺が臨済宗でることを憚って、布で覆われています。

「蓑庵(さあん)」は、鴻池了漢(こうのいけりょうかん)が、表千家五世・如心斎(じょしんさい)に依頼して作った茶室で、名前の由来は、藁ずさが壁の表面に美しく浮き出て蓑のような様子である事に基づくということです。
本席は壁面や各部材保存のため、半解体修理が行われています。席は、三帖中板、板幅一尺寸板の中に切られています。中柱は山壁の下が広くなるように、赤松皮付のゆがみ柱を用いて変化を出し、点前座には風呂先下地窓と二重の隅棚、南東隅に茶道口を開けて水屋に通じます。客座は躙口(にじりぐち)前には床の間を設け、南に火打構の給仕口を開口し、南明庵の廊下に通じています。天井は床前半通を白竹竿縁の長杉板張、窓側掛込み天井、点前座は薄天井です。

「霞床席(かすみどこせき)」も、「蓑庵(さあん)」と同じく、鴻池家のために表千家五世・如心斎(じょしんさい)が作った席で、床の中央に筆返しのある二重棚を入れ、その奥に富士山の大幅軸を掛けると、山の中腹に霞がたなびいているように見せる独創的な趣向です。(現在は表千家十三世・即中斎の軸が掛かっています。)
席は四帖半で天井を格天井(ごうてんじょう)とする等の書院風が加味されていますが、床は板床にしながらも、かまちに煤竹を用いて侘の味も出していて、草案風と書院風を組み合わせた作りです。この床には富士山の絵ばかり掛けられることになりますが、鴻池家が山中鹿之助の正系であることを思わせるために、山の至高である富士山でなければならなかったものと推測されています。

また、これらの三つの建物の基坦に敷かれた色瓦は、代々の楽家の当主になる、所謂「赤楽」で、人が気付かないような細かい点にまで贅沢な造作になっているのが印象的です。

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ブログのパート1も並行して更新しています。
以下のリンクからどうぞ。

http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600

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