京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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八瀬天満宮その2

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前回の続きです・・・

さて、八瀬には古くから念仏堂があり、地域の人々の集いの場となってきましたが、平成四年(1992)に老朽化により取り壊されました。念仏堂に祀られていた十体の仏像には、木造十一面観音(平安時代中期 重文指定)、木造天部形立像(京都指定文化財)、木造毘沙門天立像(京都市登録文化財)、木造薬師如来像(京都市登録文化財)等の文化財クラスも含まれ、元々は延暦寺伝来のものと考えられます。文化財指定の仏像は、現在は京都国立博物館に寄託され、その他のものと位牌は、近くの妙伝寺に安置されています。

この天台宗寺院、妙伝寺(八瀬近衛町)は、八瀬童子の菩提寺で八瀬童子の仏事はすべてここで行われているということです。そして、元々念仏堂で行われていた念仏講も、現在は妙伝寺で行われているようです。毎月二十八日に行われる念仏講は、八瀬童子が歴史的に恩恵を被った人物を供養するもので、後醍醐天皇、明治天皇、照憲皇太后、大正天皇、貞明皇后、昭和天皇、近衛基熙、秋元喬知、近衛内前、近衛家久、近衛家熙、小堀邦直、板倉勝重、徳川家宣、岩倉具視、香川敬三、香淳皇后を供養しています・・・現在もこの地の歴史と伝統を守る八瀬童子らしい特徴ある行事といえます。



さて、ようやく八瀬天満宮についてです・・

京都バス「ふるさと前」のバス亭から数十メートル先にある朱の鳥居の潜ると、開けた田畑の中に砂利道の参道が山に向かって続いています。普段はほとんど参拝者もいないため、参道脇の畑で働いている人が、物珍しげに参拝者を眺めることも良くある光景です。
二の鳥居の傍には、弁慶が比叡山から運んだといわれる大石があり、「弁慶の背比べ石」と呼ばれています。この大石の原寸は、六尺三寸二分あったということです。この二の鳥居からは石段が続き、途中の下の境内には社務所があり、さらに石段を登ると末社に左右を囲まれた本殿が鎮座しています。

八瀬天満宮(京都市左京区八瀬秋元町)は、創建年代等不明な所が多く、社伝や「山州名勝志」等は、菅原道真の仏教の師だった比叡山の法性坊尊意阿闍梨が、道真の死後にこの地に天神を勧請したと伝えています。また、江戸時代までは天神社と呼ばれていました。
八瀬天満宮の境内は、比叡山への登り口「八瀬坂」の起点でもあり、境内には、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、ここで休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります・・この道真の旧跡に天神を祀ったのか、天神信仰が道真の遺跡伝承を生み出したのかはともかく、その後、神社は地域の里人(八瀬童子)から産土神として信仰されました。

八瀬村の歴史史料集で、天保十一年(1840)成立の「後要用記録大帳」には、寛政元年(1789)頃の神社境内図が記載されていますが、それによると、本殿の梁行は一間半一尺五寸、桁行二間一尺五寸、縁高欄階段付きと記し、本殿の左右の幾つかの末社の他に、石段下右に、神仏混交時代らしく観音堂があったようです。前述した八瀬の念仏堂に祀られていた十一面観音像(現在は京都国立博物館寄託)は、元々は天神社(八瀬天満宮)の本地仏といわれていて、また、現在、妙伝寺に伝わる大般若経は、明治時代に同寺に伝わったもので、元々は天神社のものでした(経には応永八年(1401)八月の日付で、山城国八瀬宮御経と記されています。)


摂末社としては、本殿の右に八幡宮、幸神社、秋元神社、山王神社、十禅師社があり、本殿左には、若宮神社、六所神社、白井神社があります。また、社務所の傍にも一社があり、岩上神社・貴船神社・白髭社を合祀しています。また、本殿の左奥には、前述したように、道真が幼少期に勉学のため比叡山へ登る際、休憩したと伝わる「菅公腰掛石」があります。
また、境内の右端には、「後醍醐天皇御旧跡」と記した石標がありますが、これは建武三年(1336)正月、足利尊氏軍が京都へ侵入した際、その防戦に失敗した後醍醐天皇が、比叡山に逃れようと登った道=八瀬坂跡を示すものです。その他、後醍醐天皇遥拝所もあり、区民の誇りの木に選ばれている大杉の傍にも幾つかの石碑が点在しています。


さらに、天満宮の裏手、約二百メートル(二町)登った所に、御所谷(ごしょだに 愛宕郡八瀬村御所谷・・現八瀬秋元町)と呼ばれる場所があり、「御所谷碑」が建てられています。
元々、ここには天満宮の摂社の山王社(山王権現社)が祀られていましたが、足利軍から逃れた後醍醐天皇は、八瀬を経由しこの社の地で味方の集合を待ちました。そして、八瀬の村人(八瀬童子)は天皇の乗物を警護し、無事延暦寺に到着することが出来ました。この功績により、八瀬村は天皇から年貢免除の特権を与えられ、八瀬童子達は、この地を御所谷と呼んだということです。

その後、明治十一年(1878)、京都府は山王社を八瀬天満宮の境内に移転させましたが、八瀬童子達は、この移転によって建物が無くなった御所谷の地が荒れ、後醍醐天皇ゆかりの史跡が忘れられることを恐れ、この地に石碑を建てることを計画しました。こうして、明治二十六年(1893)、幕末明治の勤皇家で、京都府大参事等を歴任した宇田淵が碑文を表した「御所谷碑」が建立されました。
そして、現在も、毎年九月十六日には、八瀬童子による御所谷参拝が行われています。 これは、後醍醐天皇の命日(旧暦八月十六日)に御所谷に登って遥拝する儀式です。



さて、有名な八瀬赦免地踊(しゃめんじおどり)についてです。
毎年、十月第二日曜日には、天満宮社の例祭、秋元祭(あきもとさい)が行われます・・より正確には、天満宮社の境内社・秋元神社(本殿の右)の祭礼で、秋元神社の祭名としては燈篭祭になります。
秋元神社は、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論に関与した老中秋元喬知(秋元大明神)を祀った神社で、赦免地踊はこの秋元神社の祭礼で奉納される民俗芸能です。別名、灯籠踊(とうろうおどり)ともいわれ京都市登録無形文化財に指定されています。

少し、秋元喬知を補足しておきます・・
秋元喬知(あきもとたかとも 1649〜1714)は、慶安二年(1649)、三河国田原藩藩主戸田忠昌の長男として誕生しました。母は甲斐谷村藩藩主秋元富朝の娘で、喬知は継嗣のいなかった秋元家の養子となります。そして、明暦三年(1657)に秋元富朝が死去すると、九歳で外祖父の跡を継いで秋元家一万八千石を領し、間もなく従五位下但馬守に叙任されます。その後、寺社奉行や若年寄を歴任して加増を受け、元禄十二年(1699)に老中となり、宝永七年(1707)まで務めました。宝永元年(1704)に川越藩五万石となり、正徳四年(1714)、六十六歳で死去しました。喬知は、学問に秀でた聡明な人物で、礼儀を重んじて公正な判断をしたと伝えられます。


さて、前回に書きましたが、八瀬童子と延暦寺の山林境界争論は、宝永七年(1710)七月に、幕府の配慮によって、従来からの禁裏御料を除く全ての賦役年貢が免除されるという結果となりました。これを喜んだ八瀬童子が賦役年貢の免除を記念して始めたのが赦免地踊といわれています。

境界争論が八瀬童子に有利な決着となった背景には、将軍徳川綱吉の死去によって幕府内の権力闘争で、新将軍家宣派が勝利したことや、家宣の妻の実家でもある近衛家がこの問題を新将軍に取り次ぎ働きかけた事がありました。大体、将軍や幕府内重臣とも関係が深い日光山輪王寺門跡で延暦寺座主を兼任する公弁法親王(こうべんほっしんのう)のような宗教界の実力者に対し、秋元喬知のような一老中の力だけではどうしようもなく、まして、八瀬童子がいかに必死で訴えても敗北は最初から決まっていました。

ところが、将軍の代替わりが、論争を奇跡的に八瀬童子に有利な裁定へと導いたのでした。もちろん、八瀬童子は幕府内の問題など知らず、ただ、八瀬にまで来て村人の意見を聞いてくれた秋元喬知に篤く感謝しました。そして、八瀬村に有利な裁定をしてくれた偉人として崇敬し、裁定の後、江戸の秋元のもとへ礼に出向いています。そして、正徳四年(1714)秋元喬知が亡くなると、天満宮の境内に秋元神社を建立し、その遺徳をいつまでも忘れないために喬知を神として祀ったのでした。


赦免地踊については、前にブログに写真を掲載しましたが、人や動物等の精巧な図柄を燈篭に貼り付けた切子灯籠(きりことうろう)を頭にのせた女装の男子(灯籠着=とろぎ 中学生)八人とその警護役、美しい化粧した花笠姿の女子の踊り子(小学校六年生が中心)十人程度、新発意二人、太鼓打ち一名、太鼓持ち二名、音頭取りの一段が、夜に行列を組んで天満宮社まで伊勢音頭を囃しながら集合して、秋元神社に向かいます。

神社の石段にかかると音頭取りが「道歌」を歌い、境内に到着すると女装の男子(灯籠着)が踊ります。そして、仮屋の舞台では、踊り子達が「潮汲踊」「狩場踊」といった幾つかの踊りを披露し、その合間には色々な演目が行われます。この室町時代の風流踊りの流れを汲む八瀬の里の伝統行事は、京都でも最も幻想的で美しい夜祭といえるでしょう。

八瀬童子による赦免地踊の披露は過去に何度かありましたが、近年では、平成十六年(2004)八月、天皇皇后両陛下の京都行幸の際に、京都御所の前庭で八瀬童子が赦免地踊りを行っています。そして、この夜の三日月の光のもと、御所の前庭で披露された赦免地踊をご覧になった美智子皇后陛下は、「大君の御幸祝ふと八瀬童子 踊りくれたり月若き夜に。」という歌を詠まれました。そして、平成十七年(2005)九月に境内の一の鳥居傍に、この美智子皇后の歌碑が建てられました。


最後に、前述した赦免地踊や御所谷参拝といった八瀬童子特有の行事の他に、八瀬天満宮の年中行事としては、初詣(元旦)、御弓始め(一月二十日)、朔幣式(灌縄式 二月二日)、初湯式(湯立て神事 二月二十五日)、春の彼岸神饌献進式(春分の日)、御屋根掃除(仮屋への遷座式 四月中旬)、 例祭(五月四〜六日 宵宮祭(四日)、本祭(五日)では、二基の神輿が御旅所へ渡御)、秋の彼岸神饌献進の式(秋分の日)、八瀬の南北端の三社への参拝(聖社(長谷出町北端の山中)・妙見社(妙見町中部山中)・住吉社(妙見町北部高野川沿い) 十一月十日)、御火焚祭(十一月十一日)、御影渡(十二月三十一日)等があります。

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八瀬天満宮その1

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今回は、左京区八瀬地域のシンボル的な神社、八瀬天満宮神社を採り上げます。

比叡山の西麓で大原の南に位置する八瀬は、「かま風呂」や、八瀬天満宮の境内社・秋元神社の秋の祭礼行事「赦免地踊(しゃめんじおどり)等で知られますが、観光ガイドでは大原への通過点として小さく扱われている地域です。確かに、「八瀬童子」の謎めいた伝承等が伝わる八瀬の里の魅力は、普通の観光名所廻りではわからないと思われます。しかし、少し地域の歴史を調べてみると、一見普通の山里でしかない八瀬の里が、地域の伝承を大切に守り続けている魅力ある場所だと気付かされます。
(以下、「八瀬童子 歴史と文化(宇野日出生著 思文閣出版)」参照・・・尚、この本は、信憑性の無い資料や想像に頼って書かれてきた多くの八瀬童子関係本の中で、八瀬に伝来する古文書と現地のフィールドワーク調査をもとした八瀬童子研究の良書です)



さて、左京区「八瀬(やせ)」は古くは山城国愛宕郡(おたぎぐん)小野郷に属して、八瀬荘と呼ばれ、京都から若狭へ向かう重要な幹線道路だった若狭街道(鯖街道)沿いに発展した山間集落でした。

「八瀬」という地名は、「山州名勝志」等によると、「矢背」とも記され、壬申の乱の際に、大海人皇子(天武天皇)が背に矢を受けて負傷し、この地の里人が「かま風呂」でその傷を治したという伝説に由来するとされますが、実際は、地域を縦断する高野川(流域名として八瀬川)がこの地域で急流となり、多くの瀬を作っていたことから八瀬の名が生まれたと考えられています(小字として「七瀬」「余瀬(四の瀬)」「美濃瀬(三の瀬)」等の地域名が残されています)また、八瀬の住民は、古くから「八瀬童子」と呼ばれましたが、平安時代以来、隣接する比叡山延暦寺と深い関係を持ってきました。(尚、童子とは、元々寺院内の実務労働を担った階層の人々を意味します・・・以下、八瀬村の人々については、「八瀬童子」の呼称で統一して書いてみます。 )


平安時代には、八瀬荘は、延暦寺東塔南谷にあった青蓮坊(天台宗三門跡の青蓮院の前身)の所領で、八瀬童子は山門に仕え、高僧の登山の道案内や警護を担い、他の雑役を特別に免除されてきたようです。
また、正徳六年(1716)成立の「八瀬記」は、源平の戦いの際に、御所の北東(丑寅)を警備して、弓矢の所持を認められたという伝承を記し、南北朝時代の建武三年(1336)正月、後醍醐天皇が攻め寄せた足利尊氏軍から逃れて、二万余騎の軍勢を従えて八瀬坂から比叡山に登った際には、八瀬童子が弓矢を持って天皇を守護したことを伝えています。

そして、後醍醐天皇はこの八瀬童子の功に報いるために、建武三年(1336)正月二十四日に、年貢以下公事課益の免除を認める綸旨を与えました。この絶大な重みのある天皇の綸旨こそ、現在まで八瀬童子を特別な存在としてきた源泉といえます。また、(後醍醐天皇からかどうかは不確実なようですが)、名誉ある称号として国名(くにな)を授与されたといわれ、この皇室との繋がりから、八瀬の住民は、現在まで後醍醐天皇及び歴代皇室への感謝と崇敬の念を持ち続けることになりました。

資料的にも、後醍醐天皇以降、明応元年(1492)の後土御門天皇、永正六年(1509)の後柏原天皇、そして、慶長八年(1603)の後陽成天皇から明治天皇に至る歴代天皇(名正天皇を除く)の諸益免除の特権を認める綸旨が現存し、また、武家政権下でも、織田信長が朱印状で八瀬童子の特権を追認しています。また、江戸時代の板倉勝重以下の歴代京都所司代下知状からも、八瀬童子が古来山門や皇室との深い関係を持ってきたことに配慮して特権を認めていることが確認できます。




さて、古来、八瀬では年寄り衆を中心とした合議制により厳格な村落自治組織を維持してきました。近隣との争いとしては、室町時代には北の大原村と、また、室町〜江戸初期には、山林をめぐって南の高野村と長期にわたる論争があったことが記録にあるようです。そして、江戸時代、八瀬童子にとって最大の事件が、比叡山延暦寺との争論でした。

宝永五年(1708)延暦寺は比叡山の領域を改変し、その結果、八瀬童子の自由な入山往来が制限されることになりました。当時の延暦寺座主は、後西天皇の皇子にあたる公弁法親王(こうべんほっしんのう)でした。法親王は日光山輪王寺門跡で、延暦寺の座主を兼任する仏教会の実力者で、時の将軍徳川綱吉に延暦寺の境界の改めを願い出たのです。
元々、比叡山裾の八瀬は、耕地面積が少なく、比叡山での柴薪の伐採に依存した生活を送っていたため、立ち入り禁止区域の拡大は、八瀬童子の生存権が脅かす事態ということになります。


八瀬童子は幕府に訴えることを決意し、宝永六年(1709)正月に京都町奉行に訴えますがその場で却下されます。そこで、四月二十三日に、童子八人が江戸へ訴訟に向かい、寺社奉行本多忠晴に訴えますが、散々叱責されてしまいます。それでも、八瀬童子は諦めず、老中秋元但馬守喬知(あきやまたしまのかみたかとも)が七月四日に焼失した御所の復興のために京へ行くことを知り、五名(三名は江戸に残留)が道中の駕籠に付きまとって嘆願しました。秋元は八瀬にも立ち寄って八瀬童子の出迎えを受けました。

秋元は、童子達に付きまとうのを止めさせ、江戸屋敷に文章を持参するようにと指示しました。そこで、八月四日、八瀬童子は江戸へ下りますが、秋元の屋敷には三度目でようやく入ることが出来る有様で、さらに、秋元の指示は、京都西町奉行の中根正包が江戸に来ているのでそちらに願い出るようにというものでした。そこで、その中根に、童子達は十二、三回も願い出ますが無視されます。翌七年(1710)四月、秋元は、京都所司代松平信庸が江戸に来るので、願い出るように童子に指示します。しかし、その松平にも、十三回にわたって嘆願しても無視され、勘定奉行萩原重秀への嘆願も徒労になりました。

こうして、一年以上の江戸での嘆願運動も効果なく、その間、八瀬村に残った者達は、一丸となって留守宅の家業を助け、仕送りを準備して頑張って耐えていました。(騒動解決まで合計二十一人が江戸との往来をしたということです。)


しかし、時代の変化が八瀬童子を救うことになります・・・
一つは、前年の宝永六年(1709)正月に将軍徳川綱吉が死去し、名君と呼ばれた六代将軍家宣が就任したことでした。家宣は前時代の悪評の高い諸政策を改善しようと努めていました。もう一つは、前関白太政大臣近衛基熙(このえもとひろ)が八瀬童子達の抱える問題に気付いたことでした。近衛家は禁裏御料を管理していて、八瀬には以前から禁裏御料六十三石が存在したため近衛家が管理していました。さらに、近衛家は八瀬の薪炭類を納品させ、かまぶろ愛用等の伝承もあるように、八瀬童子との関係は古くからあったようです。そして、新将軍家宣の妻は、近衛基熙の娘、照姫という関係にありました。

こうして、宝永七年(1710)七月、近衛基熙は江戸へ下り、この一件について幕府に働きかけました。そして、近衛基熙や将軍の側近新井白石の働きかけにより、宝永七年(1710)七月十二日に、幕府の裁許状が出されました。

内容は、八瀬童子が所持している歴代天皇の綸旨には、賦役免除については記されているが、山門(比叡山)境内に立ち入ることは許されていない。しかし、過去の経過を鑑みて、特別措置として、八瀬村にある私領、寺領を他所に移し、八瀬は幕府代官の支配地とし、年貢諸役一切を免除するというものでした。(尚、この時、将軍家宣は、漢文体の草案を将軍自らが筆を取って、八瀬童子が読みやすいように読み下し分に改めるという配慮をしています。)
こうして、八瀬村は、村高二百七十余石の内、従来からの禁裏御料六十三石以外の全ての年貢や賦役一切を免除されるという極めて特異な赦免地の村になりました。(尚、幕府直轄領となった当時の京都代官は小堀邦直でした。)八瀬童子は非常に喜びました・・そしてこの賦役年貢免除を記念して始まったが赦免地踊(しゃめんじおどり)になります(次回に書いてみます)




さて、明治時代になると、明治政府は全国民に納税を義務付け、八瀬村にも大きな転機が訪れます。早速、明治四年(1871)、京都府はこれまでの年貢諸役免除の歴史を承知しながらも八瀬村に租税上納を命じました。しかし、調査の結果、千二百八十五円の御下賜金を与えられたことから、八瀬村では、この現金を積み立てて、その利子運用益で年四百十七円の租税上納を捻出しようと考えます。しかし、一時金を基にした策のため何時まで続けられるかという不安がありました。

ここでまたも幸運が訪れます・・
明治十六年(1883)六月 右大臣公爵岩倉具視が宮内小輔香川敬三を従えて京都に来た際、八瀬童子と皇室との関係を調査しました。同年七月、岩倉は死去ましたが、岩倉の遺志を継いだ香川は十月に再び京都に来ました。
そして、八瀬村戸長を呼びつけて、歴史的な八瀬村の租税免除の次第を聞き、政府からの手当金(下賜金と利益金を加え二千円)と八瀬童子の地券(二百十二枚)を宮内省に提出することを提案し、代わりに、地租金全額を毎年下賜され、それを毎年京都府へ上納するという方策を指示したのでした。これは事実上、八瀬村が税の免除という特権を再び手に入れたことになります。

また、同時に、香川は八瀬童子が輿丁(主に皇居内の移動の際、輿を担ぐ仕事)として皇居に出仕する制度も考え出したようで、八瀬童子は、税金免除に加え、皇室への奉仕として輿丁を勤めることで、宮内省の職員として現金収入を得る道も保証されることになりました。(尚、明治には八瀬の女性も、掃除雑用を行う側近衆として皇后や皇太后に仕えています)

翌明治十七年(1884)一月、京都府知事北垣国道の認可が出て、八瀬童子は太平洋戦争の終結まで、租税免除が保証されました。恩恵を受けた八瀬童子は、資金の有効活用を図って八瀬村特別積立会を設立(昭和三年(1728)に八瀬童子会へ移行)、皇室への崇敬の念を確認し、伝来の古文書の保存等に努める等、皇室との特別な関係のある八瀬の文化と伝統の維持を図って今日に至ります。


こうして、八瀬童子は輿丁として、安政三年(1856)七月の新待賢門院(孝明天皇の母 正親町雅子)、明治十四年(1881)十月の桂宮淑子内親王(孝明天皇の異母妹)、明治二十四年(1891)十一月の久邇宮朝彦親王(中川宮)の各葬祭、明治三十年(1897)二月の英照皇太后の大葬、明治四十二年(1909)十二月の賀陽宮邦憲王(久邇宮朝彦親王王子)の葬祭、明治四十五年(1912)九月の明治天皇の大葬、昭和二年(1927)二月の大正天皇の大葬に奉仕し、当時、大葬や大礼の際に輦を担ぐ人として、八瀬童子はたいへん有名な存在でした。

しかし、大戦後の昭和六十四年(1989)一月の昭和天皇の大葬の際は、駕輿丁は皇宮警察が務め、八瀬童子は参列奉仕等各人の役割で参加することになりました。その後、平成二年(1990)の今上天皇の即位関連儀式や平成十二年(2000)の香淳皇后の大葬等にも八瀬童子が参加しているように、八瀬童子は、皇室がある限り今後も皇室への奉仕を続けていくと思われます。



次回に続きます・・・

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)大蓮寺(だいれんじ)は、安産祈願のお寺として知られ、洛陽三十三観音霊場の第八番でもあります。仏像の一部は通常期も拝観できますが(但し、観光寺院ではありませんので、信仰のための参拝に限ります)、今回は特別に秘仏の薬師如来像が初めて公開されました。


さて、東山二条周辺には、これまでブログに掲載した妙伝寺、聞名寺、寂光寺等の五十以上の寺院が密集していますが、今回の大蓮寺もその中の一つです。(以下、寺のホームページと古文化保存協会発行「拝観の手引」から引用)

大蓮寺(京都市左京区西寺町二条下る正住寺町)は、正式には、「引接山極楽院大蓮寺(いんじょうざんごくらくいんだいれんじ)」という浄土宗知恩院派に属する寺院です。
創建は、関ヶ原の戦いがあった慶長五年(1600)、専蓮社深誉(じんよ しんよ)上人が阿弥陀如来を祀る一宇を建立したことに始まります。寺は、元々は下京区の五条通西洞院下る毘沙門町付近にありましたが、戦時中に五条通の拡張工事のため、強制疎開に遭って廃寺寸前となって移転を余儀なくされ、寺域を現在の東山二条に移しました。
元々現在の地には、小川流煎茶の流祖・小川可進の墓(今も存在しますが、関係者以外は墓参禁止)がある浄土宗寺院・常念寺がありましたが、同寺の住職は戦死していました。そこで、法類関係だったこともあって戦後は共存し、昭和四十年代に合併して現在の大蓮寺となりました。その後、平成四年(1992)から本堂改築等の境内整備を行っています。


新しい本堂(平成五年(1993)完成)には、正面中央に本尊阿弥陀如来像、脇侍千手観音像と不動明王像が祀られ、右に薬師如来像、日光・月光菩薩像、十二神将、夜叉神明王像等の諸仏。
中央の右脇壇には、かつての常念寺本堂の本尊阿弥陀如来と脇仏の観音・勢至両菩薩、後光明天皇やその皇女女一宮(孝子内親王)の位牌等が安置されています。
また、本尊の左前には、洛陽観音霊場第八番の十一面観音像が祀られています。

本堂中央に安置されている本尊阿弥陀如来像は、慈覚大師円仁の作と伝わる端正な顔立ちの仏様で、大蓮寺が「安産の寺」と呼ばれる由来となった尊像でもあります・・

寺の縁起によると、平安時代初期、慈覚大師円仁は、晩年に比叡山の念仏堂に篭って念仏三昧に修行し、一体の阿弥陀如来像を彫りました。その仕上げに掛かっていると、夢の中にこの阿弥陀如来が現れ、「比叡山から京都へ下りて、女人の厄難(出産の苦しみ)を救いたい」と告げました。そこで円仁は、お告げに従って女人禁制だった比叡山を下りて、真如堂にこの尊像を安置したところ、忽ち京の女性達から圧倒的な信仰を集めるようになり、阿弥陀如来を信仰した多くの女性達が、出産の苦しみから救われたということです。しかし、その後、応仁の乱で真如堂が荒廃すると、阿弥陀如来像も行方不明になってしまいました。

さて、それから百数十年が経った慶長五年(1600)、後に大蓮寺の開山となった深誉上人が京都伏見の町を歩いていると、一軒の荒れた御堂に光眩い阿弥陀如来があるのを発見しました。上人は誰もこの阿弥陀如来をお守りしている様子が無いことに心を痛め、この年、大蓮寺を建立してこの阿弥陀如来を安置しました。一方、真如堂は元禄年間に復興し、失った阿弥陀如来を探し始めましたが、やがて大蓮寺の阿弥陀如来がかつての真如堂の本尊であることが分かりました。幕府から阿弥陀如来像を真如堂へ返還するように命じられた上人が、二十一日間念仏を称え続けたところ、成満の二十一日目の朝、不思議にも阿弥陀如来像が二体に分かれていて、結局、大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置することになったということです(尚、本尊阿弥陀如来像、千手観音像と不動明王像を脇侍とするのは真如堂と同形式ということです)

また、慶安三年(1650)には、後光明天皇の典侍庭田秀子が懐妊し、大蓮寺二世・霊光和尚に安産祈願の勅命が下り、秀子は皇女女一宮(孝子内親王)を安産しました。以降、後光明天皇の勅願所となり、夭折した天皇の後は、有栖川宮家が継承して念仏道場として信仰したことで、安産の寺として知られるようになり、多くの人々に信仰され親しまれることになりました。



さて、大蓮寺には、現在の八坂神社の前身で、京都の祇園という名前の由来にもなっている祇園社(祗園感心院)の遺仏が安置されています。
明治の神仏分離、廃仏毀釈前は、日本の多くの寺社は神仏混交が一般的でしたが、祇園社境内には、本殿(天神堂)の西側に観慶寺(祇園寺とも)という寺院がありました。
大蓮寺開山・深誉上人が、観慶寺(祇園寺)の勧進をつとめた縁から、江戸時代には大蓮寺と観慶寺(祇園寺)は深い関係があったようで、明治の神仏分離、廃仏毀釈によって観慶寺(祇園寺)が廃寺になった際、全ての仏像や仏具は大蓮寺に移されたということです。

そして、この観慶寺(祇園寺)の本尊(祇園社本地仏)が現在大蓮寺本堂内に安置されている薬師如来像です・・元祇園社本地仏の薬師如来像は、像高百九十二.四センチ、ヒノキ材の寄木造りの漆箔の像で、元々観慶寺薬師堂に祀られていました。伝教大師最澄の作と伝えられてきましたが、実際は延久二年(1070)の火災で祇園社が焼失した直後に定朝の流れを汲む仏師によって造られたものと考えられていて、国の重要文化財に指定されています。この像は祇園社に祀られていた時から秘仏で、今回が一般初公開ということです。

その他の祇園社の遺仏・・・脇侍の日光・月光菩薩像、十二神将像、夜叉神明王像は秘仏として普段は公開されていませんが、十二神将像と夜叉神明王は、毎年の元日〜五日の間のみ公開されています。
尚、この夜叉神明王(やしゃじんみょうおう)は、洛陽十二社中の一つとされ、「洛陽十二社霊験記」によると、祇園社薬師堂中の厨司に安置された秘仏だったようです。そして、かつては、志願成就の為に十二社参りが行われていたことから、大蓮寺では、現在も夜叉神明王の御札を授与しているということです。

また、洛陽観音霊場第八番の十一面観音菩薩像は、十世紀の作で、祇園社諸仏中で最古の像と考えられています。平成十七年(2005)に洛陽三十三所観音霊場が復興して、大蓮寺も札所入りしてからは、観音信仰の熱心な信者も参拝に訪れるようになり、祇園社の遺仏中、この仏像のみは年中拝観することが出来ます。


他に、平成二十年(2008)に製作された藤野正観筆の「走り坊さん」の掛軸も展示されています。
明治大正時代には、大蓮寺には、墨衣にずた袋を提げて京都市中を走り回る「走り坊さん」と呼ばれた僧侶がいました。
名前は籏玄教(はたげんきょう)といって、明治二十三年(1890)、十八歳で大蓮寺に仕え、寺男として寺の使いや安産のお守りを妊婦に配って市内を走っている内に、「走り坊さん」と市民の人気者になりました。

玄教は、身長約百四十三センチの小男でしたが、一日に十五里(約六十キロ)を駆け抜ける脚力の持ち主で、歩行が困難で寺に来られない妊婦に安産の御守りを届け、米や菓子などもらったものは、貧しい人に配ったということです。そして、大正七年(1918)に病気で亡くなると新聞は大きく報じ「今一休」と称え、葬儀には多くの参列者があったということです。
大蓮寺では、この「走り坊さん」の存在を広く知って欲しいとして、籏玄教の走る姿を絵にして掛け軸にし、「走り坊さんの足腰健常」の御守りを作り授与しています。


その他、本堂の前にあるのが、大蓮寺名物の樹齢百年程と推定される松の巨木です。
「大王松(だいおうしょう)」という京都市内でも個体数の非常に少ない松の種類で、平成十八年(2006)三月に、京都市の保存樹に指定されています。また、境内には大蓮寺の名前にちなんで、鉢植えの蓮が育てられています。十九世慧誉上人が大切にしていた「藤壺蓮」など、二十数品種約三十鉢があり、毎年夏には美しい花が咲くということです。

また、年間行事の中で大蓮寺の特徴のあるものとして、十一月第二土曜日の「お十夜法要」があります・・十夜法要自体は浄土宗寺院で広く行われている恒例法要ですが、後光明天皇の一子、皇女女一宮(孝子内親王)が大蓮寺に安産祈願をして無事誕生し、その後、内親王は念仏信者として天授をまっとうして十夜の正当日の十月十五日に亡くなったことから、大蓮寺では、内親王にあやかって十夜法要の日を安産祈願の縁日としています。そして、この日に安産阿弥陀如来の御腹仏を一年に一度開帳し、十夜法要後には、安産の特別祈願・子供成長祈願を行っています。 

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現在、京都古文化保存協会主催の秋の京都非公開文化財特別公開が行われています(10月30日〜11月8日)今回の特別公開二十一社寺の中でも、特に目玉として注目されるのが初公開の西方寺(さいほうじ)です。

西方寺(京都市左京区東大路通二条下ル北門前町)は、前にブログに掲載した「関西身延」こと妙伝寺(妙傳寺)の南西に位置し、東大路通沿いに建つあまり目立たないお寺です。しかし、今回初公開された秘仏の本尊の重文阿弥陀如来坐像は、丈六のボリューム感のある仏様で、仏像ファンには必見といえます。
一部の観光寺院だけが注目されている観光都市京都ですが、西方寺のような一般には全くと言って良いほど知られていない小寺院に、このような優れた仏像が秘蔵されていることには驚かされ、改めて京都の文化的な奥深さを感じます。(以下、古文化保存協会発行「拝観の手引」より引用)



さて、西方寺は、正式には、「願海山法性覚院西方寺」という浄土宗知恩院派に属する寺院です。
元々、現在寺院のある東山二条や岡崎の地は、平安時代末期の院政期に、六勝寺(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺)と呼ばれた六つの大寺が建ち並んでいた地域で、現在も町名(法勝寺町・最勝寺町・円勝寺町・成勝寺町)が残っています。そして、西方寺の本尊阿弥陀如来坐像も法勝寺の遺仏と伝えられて、西方寺もこの地域の歴史を今に伝える寺院の一つといえます。


さて、寺院の開基は、平安時代の関白藤原師実の孫、左大臣藤原経宗(大炊御門経宗 1119〜1189)とされます・・・藤原経宗は、大納言藤原経実の子で、母の藤原公子が鳥羽天皇の中宮、待賢門院(藤原璋子)と姉妹だったこともあって、久寿二年(1155)に、従兄弟に当たる後白河天皇が即位すると出世を重ね、さらに姉の藤原懿子(後白河天皇妃)が産んだ守仁親王(後の二条天皇)が立太子されると、春宮権大夫に任じられ、二条天皇の外戚としての地位を得ます。

保元三年(1158)、二条天皇が即位すると、朝廷では後白河院政派と二条親政派との対立が起こりますが、二条親政派の中心人物となった経宗は、台頭してきた後白河法皇の側近、少納言藤原通憲(藤原信西)を失脚させるために、通憲(信西)の政敵で、院政派の権中納言藤原信頼らと結んで「平治の乱」を起こしました。そして、「平治の乱」の結果として、後白河法皇側近の通憲(信西)と院政派の信頼が滅んだことによって、経宗ら二条親政派の勢力が強まることになりました。

その後、後白河法皇へ圧力をかけ過ぎたこともあって、永暦元年(1160)、経宗は後白河法皇の怒りをかって、信西殺害の責任者の一人として阿波に流刑にされました。しかし、応保二年(1162)に帰京を許されると、左大臣に就任して、後白河法皇、平家一門双方に信頼される存在となり、平家一門の都落ち、源義仲(木曽義仲)や源義経と頼朝の対立期には法皇を補佐して難局を乗り切りました。そして、文治五年(1189)二月に、病により官職を辞して法然上人のもとで出家して法性覚と称し、同月二十八日に七十一歳で死去しました。

西方寺は、出家して亡くなった経宗の邸宅を寺院に改めて創建したと伝えられ、初めは一条新町(上京区)にあり、その後、両替町竹屋町通上がる西方寺町(中京区の烏丸丸太町)を経て、桃山時代に豊臣秀吉の命によって、御所に近い寺町椹木町東(上京区)に移転し、江戸時代の宝永五年(1708)の宝永の大火により現在地に移りました。藤原一門の大炊御門家(開基藤原経宗の父藤原経実を祖とする)や、宇多天皇の一門の綾小路家と五辻家の菩提寺でもあり、公家の寺院として知られた寺院だったようです。



さて、西方寺は、山門を潜ると地蔵堂があり、その先に本堂、本堂の左には書院、奥には新しい茶室があります。一見して極ありふれた小さな寺院といった印象で、境内の鎮守の稲荷社の鳥居等は少し荒廃しているようです。そこで、あまり期待もしないで本堂に上がってみると、そこには、意外にも(失礼ながら)狭い本堂には似つかわしくない見事な仏像が安置されています・・・

この今回初公開された秘仏の本尊阿弥陀如来坐像は、平安時代の木造寄木造り、像高二百三十六センチの丈六の量感ある堂々とした坐像で、平安時代の承保二年(1075)に白河法皇が建立した法勝寺の遺仏とも伝えられ、国の重要文化財に指定されています。
また、光背は、十三個の化仏の他に、さらに小さな無数の化仏で隙間無く覆われた円光背です。多くの化仏で覆われた光背は「千仏光背」といわれますが、西方寺のものは、さらに多くの化仏を有する「三千仏光背」になります。(尚、宝永の大火の際、この丈六の仏様は、真下に空けられた大穴にすっぽりと収まって火難を逃れたということです。)また脇侍として観音菩薩、勢至菩薩を配し、他に、本堂左手には、西方寺が寺町にあった時代からの豊臣秀吉の坐像が納められています

また、本堂の正面には地蔵堂があり、衣通姫地蔵(そとおりひめじぞう)が祀られています。
寺伝によると、古代の第十九代・允恭天皇の妃の妹、弟姫(衣通姫)が七歳の時に疫病で亡くなり、冥土で生身の地蔵を拝して蘇生し、その報恩のために作られたのがこの地蔵尊と伝えられ、古来より疫病除け、安産守護の信仰があり、洛陽四十八地蔵願所の二十五番霊場となっています。

その他、墓地内にあるため、今回は公開されませんでしたが、赤穂義士の小野寺十内招魂碑があります。墓石の表面には、小野寺秀和(十内)と、その甥の小野寺秀富(幸右衛門)、同じく甥の岡野包秀(金右衛門)、同じく甥で秀富(幸右衛門)の兄・大高忠雄(源吾)の名が刻まれています。この招魂碑は、西方寺が小野寺十内の母の菩提寺だったことから、十内の妻の丹女が供養塔として建立したものと伝えられているということです。

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左京区八瀬(やせ)は、上高野と大原の間に位置し、比叡山山裾の山里といった風情の残る地域です。京都では、八瀬といえば、まず、かま風呂温泉や比叡山頂へのケーブルの乗り場として知られています。
また、かつては、京福電鉄系の「八瀬遊園」という屋外プールやスケートリンクを備えた京都では数少ないレジャー施設があったことでも知られ、昭和三十九年(1964)の開園以降、一時は年間二十万人の入場者がありましたが、その後低迷、「スポーツバレー京都」、さらに「森のゆうえんち」と改称して存続を図りますが、ついに平成十三年(2001)閉園しました。(現在、跡地には会員制ホテル「エクシブ八瀬離宮」があります)
「八瀬遊園」が人気だった頃は、毎週、地元の子供連れの家族で賑わった八瀬ですが、元々、有名な観光名所が少ないこともあり、北の大原、南の修学院や一乗寺に比べて他府県からの観光客にはあまり知られていない地域といえます。


今回は、八瀬の数少ない史跡の一つ、「源義朝公の源家再興発願所」とされる碊観音寺(かけ観音寺)を採り上げます。(尚、「かけ」は、「銭」の「金」を「石」に置き換えた変換不能文字ですが、お寺のホームページでは、「碊」を用いているので、「碊観音寺」としておきます)


さて、高野川沿いに国道367号線(通称、鯖街道・若狭街道)を大原方面に向けて北上する途中、旧国道と交差する手前の左の崖上に小さな寺院が見えてきます・・これが碊観音寺です。
碊観音寺は、山号を真山という真言宗泉湧寺派の寺院で、創建は昭和八年(1933)というかなり新しいお寺ですが、本尊碊観音大士(観音菩薩)は、かつて源義朝が源氏再興と東国への道中の安全を祈願して、石に鏃で刻んだ観音像と伝えられています。


さて、「平治物語」によると、平安時代末期の平治元年(1159)十二月下旬、「平治の乱」に敗れた源氏の棟梁・源義朝は、戦場で討ち死にしようと覚悟を決めますが、義朝の乳母子で第一の郎党・鎌田兵衛政清に、諸国の源氏を勇気付けるためにも一旦落ち延びて再起を図るべきであると強く諌められ、都を脱出して八瀬・大原から近江に逃れようと、この八瀬の千束ヶ崖を通過しました。
「平治物語」等によると、この時従う者は、義朝の長男悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝(十三歳)、叔父の陸奥六郎源義隆、一族の佐渡式部太夫源重成と平賀四郎義宣、乳母子鎌田兵衛政清、斉藤別当実盛、波多野次郎義通、三浦荒次郎義澄、岡部六弥太忠澄、猪俣小平六範綱、熊谷次郎直実、平山武者所季重、足立右馬允遠元、金子十郎家忠、上総介八郎広常、渋谷金王丸、鷲津玄光等三十余名だったようです。

しかし、義朝達が大原方面に逃亡したという噂を聞きつけた比叡山の山門大衆が、落人狩りのため、二、三百人で千束ヶ崖で義朝一向を待ち伏せしていました。「平治物語」によると、これを知った義朝が、「都でどうにかするつもりが、鎌田のつまらぬ意見など聞いたばかりに、ここまで来て山門大衆の手に掛かって無駄死にするとは口惜しいことだ。」と嘆くと、家来の斉藤別当実盛が、「私がお通ししましょう。」と馬から降りて甲を脱いで手に下げ、乱れた髪を顔に振り掛けながら衆徒らに近寄って言うには、「右衛門督藤原信頼殿、左馬頭源義朝殿その他の人々は、皆、大内裏や六波羅で討死なされた。我等は諸国から駆り集められた武者に過ぎず、恥を忍んで妻子と会うために本国に落ち延びようとしているところである。それを討ち取って罪作りに何をなさろうというのか。武具をお望みなら差し上げましょう。どうかお通し願いたい。」

衆徒らは「確かに大将達ではないようだな。木っ端武者を討ち取っても仕方がない。武具さえ脱いで渡せば通してやろうか。」と詮議したので、実盛は再び、「法師は大勢おられるが、我々は小勢なので武具の数が足りません。そこで、我らが武具を投げるので、皆さんで奪い取り合っていただきたい。」と言うので、正面の若法師達は、「お前が言うのももっともだ、そのようにせよ。」と集まり、後陣の老僧達も負けまいと押し寄せ競い争うところに、源氏の三十二騎の武士達が、この隙に、刀を抜いて兜の錏を傾けて、どっと法師の群れの中へ駆け入って蹴散らして通ったので、衆徒達は慌てて長刀を持ち直し一人も逃すまいと追いかけて来ました。

そこで、実盛は髪を振り乱し大童(おおわらわ)になって、大きな矢を取ってつがえ、「敵も相手によるぞ。わしは源義朝の郎等の、武蔵国の住人、長井斎藤別当実盛という者だ。捕らえるつもりならば寄ってくるがいい。手柄のほどを見せてくれよう。」と、取って返すと、これを見た衆徒達の中に弓矢の使い手はいないので、これは敵わないと皆引き上げて帰ったということです・・・

この斉藤実盛が機転を利かせ、山門大衆の中に鎧兜を投げ入れ、衆徒が奪い合いをしている隙に、源義朝一行が一気に駆け抜けた川の淵は、「甲ヶ淵」、「斎藤実盛甲ヶ淵」と呼ばれ、昭和十年(1935)六月二十八日の水害や近年の河川改修工事等によってその場所は不明となったようですが、現在も京都バスの停留所「甲ヶ淵」にその名を残しています。
(「山州名跡志」は、「甲ヶ淵」を「甲淵」と記し、その位置は、蓮華寺の北西四町、碊観音寺のある「千束碊(せんぞくがかけ)」の南半町としているので、「山州名跡志」の記載が正しいとすれば、現在の京都バスの停留所「甲ヶ淵」からはもう少し川下ということになりそうです。)

尚、「山州名跡志」は、碊観音寺のある崖について、この地は古来、「千束碊(せんぞくがかけ)」と称し、「甲淵(甲ヶ淵)」の北半町に位置するとし、矢背川(八瀬川=高野川の一部)に臨んで岸高く、左は山で道幅は八尺の坂道であると記しています。そして、物語ではこの崖道で戦いがあったように記載しているが、この道は大変狭く物語に記される所と違っているので、土地が広く千騎が並ぶほどである半町南の「甲淵(甲ヶ淵)」の地が戦場だっただろうと記しています。


また、京都バスの停留所「甲ヶ淵」から少し下流、碊観音寺の前の八瀬川の東岸には、幅十メートル、高さ五メートルの巨岩(バイパス道路の橋下)がありますが、この大岩は、この脱出の際、源義朝が騎乗のまま飛び越えた岩と伝わり、「義朝駒飛石(駒止岩)」と呼ばれています。(また、大石の上のバイパスの橋は「駒飛橋」と名付けられています。)




さて、碊観音寺に戻ります・・
寺伝によると、千束ヶ崖での叡山大衆との戦いの際、源義朝は、戦の疲労で駒諸共に数十尺の断崖を真逆さまに転び落ちましたが、不思議にも、まったく怪我をする事も無く、無事に再び崖をよじ登ることが出来たということです。
義朝は、これは日頃信仰している観音菩薩の御慈悲だと感激して、峠の大岩に弓の鏃で観音菩薩を線刻し、源氏の再興を主従一同で願ったということです。以降、碊の観音様と呼ばれ、観音様の御慈悲にすがって祈願すれば何事にも成就する霊験あらたかな観音様として現在も信仰されているということです。

この絶壁の上の自然石に線彫りしたこの観音像は秘仏で、現在は、回りの岩盤が砕け落ちているために立ち入り禁止ですが、正面の本堂から参拝するようになっています。(尚、「山州名跡志」は、この像について、元々川岸にあって、自然石に仏像を刻んだもので地元の者は「観音石」と称しているが、実際は阿弥陀仏であると記しています。)

その後、昭和の初め頃、八瀬村の人々が発願して、この千束ヶ崖に寺を起こそうとしていたところ、昭和八年(1933)の秋彼岸中日に、開山善湧上人が、たまたま大原の里での托鉢行却から帰る途中、この村に立ち寄って村の長老達十数名と話しをする内に、長老達の希望を聞き入れて寺の創建を決意します。そして、この山に住居を定め山の岩盤を砕いて今日の寺域とし、源義朝が鏃で線刻した観音菩薩尊像を本尊としました。そして、終戦直後の昭和二十一年(1946)三月に歴代天皇御菩提所である真言宗泉涌寺派に属して現在に至るということです。

本堂、庫裏等の並ぶ狭い境内には、当山鎮守の碊大龍王、碊大辨財天女 水子地蔵尊の諸堂があり、他に白狐大岩 稲荷大神も祀られているということです。 年中行事としては、一月十八日の初観音・諸願成就護焚、毎月十八日の観音様護摩焚祈願法要、二月三日の節分星まつり(おでんを頒布)、三月春季彼岸法要、八月 のお盆施餓鬼法要・墓回向(そうめん流し供養)、九月の秋季彼岸法要・墓回向があります。



尚、最後の写真三枚は、「義朝駒飛石」と「甲ヶ淵」停留所付近の八瀬川(高野川の八瀬流域)になります。

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